Notes of a Dirty Old Man in Philippines

フィリピンに居た時もそうだけれど、
その時になって、必要に迫られないと考え出せない質。
誰も嫌なことは考えたくないんだし、避けて通りたいこと。
そんなことになる元の話し。
引越し貧乏ってあるみたいで一年ごとに引っ越してたんだから。

落ち着けてちゃんとした暮らしがしたくてのこと。
二十年七月かフィリピンから日本に帰ったんだけれど。
十七年の頃かなドヤから距離を置きたかったし、金も残したくて、
玉出の方のびっくりする位安かった二万程のアパートに長く居たけれど、
その安さでフィリピンへ出掛けようとの思いにも成れたんだけれどね。

帰って書きものをしようとの気持ちもあったから、
一先ず、いつものドヤに落ち着き、
直に少しはマシなアパートに落ち着いたのが、
二十年の十月頃だろう。ここまでは不動産屋さんも通さないんだし、
家賃だけ有れば良かったはず。

プロットを考え出して、
年が明けて二十一年の六月には書き下ろしが終わって、
そんなつもりは無かったけれど、或る出版社の懸賞に応募した。
八月かな幻冬舎からビックリするような返信が有り、
紙の本では上手く行かないと分かり、
調べてみればアマゾンで金を掛けずにイー・ブックだけれど、
出版が出来ると分かった。

気分を変えてじゃ無いけれど、
八月の内のこと十万の給付金に背を押されてかな、
イー・ブック用の編集も有ったし
まだネットのブログサイトに残っていた、
以前の書きものにも何とか陽の目をみさせたいとの思いも有って、
ドヤも出たかったし不動産屋を通しての十万程だったけれど引越した。

潮路か、区役所にも、ネットのことは何も分からない私ですから、
パソコン教室にも近いので。二十一年のこと。
一年程を掛けて三冊をアマゾン・キンドル・ストアーに上げて一区切り。
二十二年になっていた。

隣の部屋のおばさんが私に干渉したがりで、それでまた頭をもたげた、
引越し貧乏の病気。
二回目の給付金のお陰かな、最初のボロアパート二万には及ばないけれど、
二万五千円でちゃんとしたマンションの部屋。ユニットバスも付いてる。
ただ地の果てみたいな津守。やはり八月の引越し。一年毎のお話しだった。

買いものにはちょっと不便だけれど、しゃあない話し。
他人との交わりが疎遠になり、精神の不調も有り、
重ねての書きものでの無理が祟ったやら、年末からの体調絶不調。
北向きの部屋で寒いのもあったでしょう。
年が明けて幾らか暖かく成っても、
やはり約束の書き下ろしの第二作目を考えない訳では無かったけれど、
頭も筆も動かず仕舞いでした。

四月五月になれば、連休絡みでしょうか、
YouTubeではパンデミックの終わりを告げだしていた。
そんな流れに乗りたい私が居たし、
三年の間メッセンジャーだけのやり取りだったけれど、
信ずるに足る彼女A と思えば渡比をまた考えていた。

暖かいフィリピンで元気になりたいとの思いもあったし、
書きものの滞りを何とかしたい、との気持ちも大きく。

過ぐる二十年の七月の七日に、
ビニールが幾つも垂れ下がって、
客のパラパラの飛行機なんて見たことが無かったし、
コロナ菌への完全防護のキャビンアテンダントも見たことは無い。
そんな飛行機に乗っての帰国。

或る程度拘束が無くなって故のことですが、
渡比が待ちきれなくなっての但し書き付きですが、
二十三年の七月の十日の飛行機に乗ったんだった。
細かい金回りのことなど考えるはずも無い、そんな質無鉄砲だった。
~~続く

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