ちょっと鷹揚に、ぽわんとして、てきとうで、なにも目指さない好きさで

好きな人が欲しい。でもそれは、嵐のような、激しい好きじゃなくていい。自分の愛情を豪速球で投げて、相手からの返球を待つような好きじゃなくていい。好きな人が可愛い子と肩を並べている写真をみて、食あたりかのような不安を胃に押し込める好きじゃなくていい。

じゃあどんな好き?

「ちょっと鷹揚に、ぽわんとして、てきとうで、なにも目指さない好きさで。」

よしもとばななさんのエッセイ(「イヤシノウタ」)にこの文を見つけたとき、まさにこれだと思った。たしかに疲れた。愛されているのか確認せずにはいられない恋は。ただときめきたい。期待せず。見返りも求めず。

例えば。
さくらんぼが乗るメロンソーダをスッと照らす西日だとか。
仕事ができる几帳面な人の頬に落ちるまつ毛だとか。
散歩中の犬が、まだ帰りたくないとアスファルトにひっくり返って駄々をこねている姿だとか。
いつもコンタクトの人が、眼鏡をかけると、目がとっても小っちゃくなることだとか。

そんな感じが、鷹揚に、ぽわんとして、てきとうで、なにも目指さない好きさかな。

彼氏がいたら満たせていた。
「可愛い。」「好きだよ。」は、自己肯定感を上げてくれる魔法の装置だった。
親には愛されている。わがままな末っ子として可愛がられてきた。
でも足りなかった。常に私は、姉に負けまいと生きてきた。今考えれば、私の方がわがままで手はかけてくれたのだろうけど、いかんせん、私の愛情の器が大きすぎた。
欲しかった。平等はいやだった。ぶっちぎりの1位が欲しかった。
私の人より大きな愛情の器を満たしてもらおうと必死だった。

だけど、どんなパートナーでも自動的に1位になれる訳ではない。そして、私の魅力や努力に比例して、パートナーの中での大切な人ランキングが向上するとも限らない。そういうのはたぶん運だから。きっとタイミングや、相手のパーソナリティーにもよるから。

私が求めて、もらった「可愛い。」「好きだよ。」は、運の上に成立する、キラキラだった。子供のころのセボンスターみたいに。
子供だったからさ、あのときは、欲しくて欲しくてたまらなくて、スーパーで地団駄踏みながら泣きわめいてた。

でも、少しだけ歳をとって、今はセボンスター欲しくないのよ。
じゃあeteが欲しいでしょって?まあ少し正解。でも大丈夫、駄々こねないで自分で買うからさ。

私ね、誰かの1位にならなくていい。
ただ横から眺めた喉仏の輪郭だとか。親指の爪の形とか。
ストローの噛み癖だとか。
とめはねを何でもはらって書いちゃう右上がりの字だとか。
お酒が大好きな大人だけど、コーヒーは苦手だとか。
インテリアにはこだわりなくて、保険のおばさんからもらうカレンダーをかけてるだとか。

そういうことに、キュンとして、その人の日常や生きる世界に憧れて、感謝して、また素敵な明日が来ることを祈りたい。
私のその心のときめきが、私の明日をきっと良くしてくれるでしょう。

無理には探さない。私にはまだどこかで固執する思い出があるから。それは過去の好きの入れ物で、中身はないのだけど、まだ手放せない。
きっと大丈夫。自然に興味がなくなる。大丈夫。

いつか、ちゃんと朗らかであたたかい素敵な恋をする。


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