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【読書】2024年2月に読んだ本

NASを置いてネットワーク経由で音楽を聞くようになったため、約600枚あったCDをすべて売りました。ああすっきり。25年前に購入したものもありましたが、購入総額の約3%で引き取ってもらえてよかったです。これでJLCPCBの外注費用をまかなえそう。
今月は以下の本を読んでいました。


文學界(2024年2月号)

「酒井泰斗+吉川浩満 読むためのトゥルーイズム ――非哲学者による非哲学者のための〈哲学入門〉読書会」を読みたくて購入。p206~209のあたりのやりとりは(非)哲学講義で何度か繰り返されたものですが、文字として目にすると改めて恐怖を覚えます。「本を読めていないことに気づいたなら他人の話を聞けていないことについても心配したほうがよいはずです」(p206)。はい。

本書の他の連載やエッセイも読みましたが、経験が不足しているせいで何をどう感じたらいいのか分からない感覚を覚えてしまいました。書かれている文章の意味は理解できるものの、それを文芸・文学として内在的に読むための技能が不足している気がします。もしかすると「文章の意味」すら理解できていないかもしれません。

以前にSciSpaceのような学術論文の読解支援AIを紹介したことがありましたが、その文芸・文学版があれば私も読めるようになるのでしょうか。それはかつて批評と呼ばれてきた営みのコンピュータ化となるはずで、「「読む」という活動そのものの面白さにも関心があり、それについて「なぜ」とか「いかに」と問い、そうすることで反省的な視線を向け」(p209)ることの効率化につながるはずです。わたしたち自然科学の研究者は、特許の明細書や損害賠償請求の訴状や英語論文を読み書きでき、それにもとづいて議論したり判断したりしているのですから、まったく同じ流儀で文芸・文学・哲学などを読み、感想を言えばいいのだと思っています。


冨田恭彦『カント入門講義 ─超越論的観念論のロジック』(ちくま学芸文庫)

富山豊『フッサール ─志向性の哲学』を読んでいたとき、当該書で触れられているカントの超越論的観念論のより深い理解について本書が助けになる、と何かで見て購入(いま当該書やXなどで調べてもそういう記述を見つけられないので私の勘違いかもしれない)。

穏やかなですます文体で、戸田山和久とは異なるタイプの「読みやすさ」がありました。第5章の超越論的演繹(p186)や図式論(p230)については、この箇所で扱っている課題と、大元のカントの狙いとを行きつ戻りつ説明されているので、丁寧だと感じます(p198のように再確認のための節がわざわざ設けられていることも)。また、客観的関係と必然性(p276-278)や二重触発の是非に関する箇所(p293)は、一般的な読者にとって発想の転換が必要であることを数行ではっきり述べており、もやもや感を残さない工夫がありました。

小ネタかもしれませんが読んでいて勉強になったのは、1930~40年のハーバード大で社会学者ヴィルフレード・パレートのセミナーに参加し「概念図式」の考え方を議論していたグループに、ヨーゼフ・シュンペーターが参加していたこと(p305)。『経済発展の理論』は概念図式という下敷きに納得できないと読みにくいよなあ、など思い出したりしていました。

読後に家にあるカント関連の本を読み返していたのですが、岩崎武雄『カントからヘーゲルへ』を開いてびっくり。本書とほぼ同じ内容を約40ページ弱のスーパーダイジェストで説明していました。本書を踏まえて再読しようやく理解できた箇所もあり、本書の丁寧さがとてもありがたく感じられました。


ポール・ド・マン『読むことのアレゴリー』(土田知則訳、講談社学術文庫)

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000363767

冒頭から本書に含まれていないことを書きますが、「アレゴリー」と呼ばれるものを整理してみます(※1)。

  • 1382年刊行のギリシャ語英語辞書に、ギリシャ語で「ベールに包まれた言語、比喩」を意味するἀλληγορία(allegoría)をラテン語化した allegoriaと、「別の、異なる」を意味するἄλλος(allos)の両方に由来する、と記載されている

  • シンプルな物語や細部を通して、より大きな宗教的、政治的、思想的な文脈を示唆し、それを肯定したり風刺するためのもの

  • アレゴリーを使用した最も有名な例はプラトン『国家』の洞窟の寓意で、アレゴリーとして解釈された最も有名な例は聖書(エゼキエル書17 章等のブドウの木とワシの箇所をイスラエルのバビロン流刑として解釈)

  • ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』にて示された、断片的な言葉が匂わす意味の文脈をもって、人間の歴史は必然的に停滞と崩壊に向かうと考えさせるための手段

  • 歴史的な状況を考慮せず芸術様式の意匠(歴史的な雰囲気)を拝借する手法

  • いかに二者の関係が断片的で断続的で混沌として見えようとも、一方のテクストを他方のテクストを通して読むこと

  • 今あるテクストの比喩的な意味の読みを通してそれを書き直す行為、ありきたりな断片を見せることでその社会的な意味を無効化する手法

  • 作品の意味を物質的形態性から文脈性に移す効果をもつもの

  • アイロニーは超越的神話的に同一化を目指す一方、アレゴリーはその世俗性によって、超越的な根源を非神話化して差異化に向かう

著者自身は「読むことのアレゴリー」を次のように説明します(p132-133);

  • テクストがこれまで築き上げてきた二項──内部/外部、時間/空間、容器/内容、部分/全体、運動性/不動性、自己=我欲/理解、作家/読者、隠喩/換喩──の疑似的な総合を足元から切り崩して(…)二つ以上の相容れない読みが決定的に到来することを、(…)その自家撞着を内包しうる語りの中に包括する可能性

上記に列挙した一群と異なるのは、対立する二項のどちらかの優位性を示したり転覆させたり矛盾をあばいたり実は一致することを示すことではなく、テクスト自体が提供する道具立てを用いて二者の相互作用を説明する点にあると理解しました。

そのような相互作用は「複数の言明のあいだで生じるものではない。それは、言語の修辞的本性に関するメタ言語的な言説と、そうした言明を問いに付すような修辞的実践のあいだで生起する」(p183)。そういうわけで、著者はテクスト自体が提供する道具立ての中でも修辞文法の効果を掘り下げます。それらの相互作用が本書で最も鮮やかに例示されているのは、プルースト『失われた時を求めて』の読書シーンを題材に、当該書に登場するすべての要素が意図されているのとは別の何かを指し示していると論じた箇所です(p139~141)。

一般に、著者のこの手法──脱構築──はテクストを正しく読むことも誤って読むこともできない、いわば「読解不可能性」を暴くものだと言われていますが、著者自身はどうもそう考えていないようでした。「真実と虚偽の戯れに関するアレゴリーはテクスト自体の安定性を基礎づけることになる」(p133)と述べています。

テクスト自体の安定性を基礎づけると何が嬉しいのかというと、「作者が最初文章を書く上で要求されたのと同等の厳格さに、読者として一歩でも近づ」けるからだと理解しました(p42)。それは読者の自由に資することです。その自由は「テクストという唯一の権威、すなわちテクストの成功=達成のみに依拠しているのである」(p63)。読むことのアレゴリーは、読むためのトゥルーイズムに繋がっているのかもしれません。

読んでいて感じずにはいられなかったのは、テクストの内部における対立する二項については脱構築できても、著者自身の思惑は二項の対立に囚われていたんじゃないかという点です。p219のように文学と哲学の区別の難しさを述べたり、p255のように物語から政治への移行を述べたりと、著者は一方と他方の関係を逆転または混同させたい狙いを隠していない気がします。

そこには、文学に寄生している批評という絵図を逆転させ、批評家の地位と創造性を回復させんとするイデオロギーも含まれていたのかもしれません。

カント本を読んだあとだったので、ド・マン本における語「カテゴリー」の用法が気になって仕方ありませんでした。カテゴリーではないものをカテゴリーと呼んでいるような気がして。
手癖なのかもしれませんが「つまり」の使い方は可読性を著しく下げています。「Aである、つまり、Bである」という文章で、AとBがまったく無関係な言明になっている箇所が多すぎます。
あと、二項対立を取り扱うからといって、オースティンの発語内言語行為/発語媒介的行為や、フレーゲの意義/意味を同一視するような例え話(p34)をするのは、不誠実すぎてナシだと思いました。フレーゲに謝れ。

※1 wikipedia(https://en.wikipedia.org/wiki/Allegory)、松井みどり『アート:"芸術"が終わったあとの"アート"』(p44~66)、巽孝之『メタファーはなぜ殺される』(p41)より引用改変


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