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コーヒーとか作品とかその他もろもろの作り手の責任の話

今回の記事は私がウジウジ納得いかない案件について書きつらねているだけで、読んでいてそんなに楽しい話ではないでしょうし、気分を悪くされる方もいらっしゃるかもしれません。
そんな話でもお付き合いしてくださる方もいらっしゃるのではないかと思い進めていきます。

では、今日のコーヒー豆氏はどこに座っているのか、から始めましょう。

本の上ですね。
本の全体像を見ていただきましょうか。

よく分からないローマ字が並んでいるが、どうも川口俊和著『コーヒーが冷めないうちに』の翻訳本のようだ、KaoRuが紹介するのならきっとチェコ語翻訳であろう、と思われたのではないかと思います。
その通りです。
更に私の普段の漫画で私の汚い手書きの文字を見慣れている方だったらこの本の表紙の毛筆書きが私の手によるものだと気がつかれたのではないでしょうか。

本に落書きするとはけしからん。そんな声が聞こえてきそうですが、これ、私が本に筆で落書きをしたのではありません。
この状態で、商品として売られているのです。

川口俊和氏の小説『コーヒーが冷めないうちに』は、私が何かとお世話になっている先生による翻訳で2019年にチェコ語で出版されました。
本のデザインをする段階になって、担当のデザイナーから「表紙に日本語のタイトルを日本のカリグラフィー(毛筆の書のことを言っている)で付け加えたい」とアイデアが出て、翻訳者である先生から連絡がありました。
書いてくれるか、と。

ありがたいお話なので、二つ返事で引き受けましたが、それこそ50枚くらい書いて、あまり時間がないらしいから一応今できたものを送るけどまだやり直したい、と言いながらスキャンしたものを送ったところ、すんなり使ってもらえることになりました。

しかし、その時はてっきり表紙のデザインの背景に色も薄くしたりして小さく登場するんだと思っていたのに、完成したのは写真で既にご覧いただいたもの。
びっくりしました。
まるで私が筆で直接書き込んだかと思ってしまうくらい、そのまんま使ってくれていました。

そしてこれ、強調しておきたいのですが「表紙のデザインは出版社のデザイナーによるものであり、私によるものではない」のです。
私だったら自分の実力不足の書をデカデカと載せることはしないし、いかにも「エキゾチック好きの心をくすぐる」ようなデザインにもしない。
いかにも異文化好きにアピールしてる感じがしませんか。
お話の内容にも「和」を強調するよりも「モダンな日本」が合っているので、日本ではこのようなデザインではまず出さないのではないかと思います。

しかしデザインが本格的に「なんか間違ってる」になってきたのは二冊目『この嘘がばれないうちに』と三冊目『思い出が消えないうちに』。
こちら、三冊まとめて撮影したものです。

『この嘘がばれないうちに』は2020年、『思い出が消えないうちに』は2022年にチェコ語翻訳が出版されました。
背景の恐竜たちは私のクッションです…お気になさらず。

なんだろう、このわやくちゃ~としたデザインは…。
翻訳した先生も怒っていました、「何なの、このデザイン!」と。
うーん、この毛筆が文字として読めない人にはデザインと一体化しているように見えるのかな…と思おうとしてみましたが、それを口にしたらまた別の人に「いや、これは何かが間違っている」とのリアクションをいただきました。

本の中では本文が始まる前に、書だけで載せていただいていますが。

ここまで書いてきて何なのですが、本記事で書きたいのはデザインの酷評ではありません。
『コーヒー…』シリーズのチェコ語翻訳の表紙に書を使ってもらってるよ、という自慢話でもありません。

私この仕事、ノーギャラでやってるんです、というお話をコソっと、しかしネチネチと、したいのです。
出版された後、毎回一冊いただいていますが。

シリーズ一冊目は自分の制作物が商業出版の表紙の一部になって発売される、ということが嬉しくて深くは考えなかったのですが、次々シリーズが出版されていくにつれて、だんだん「なぜ?」と思うようになってしまいました。

もともと知り合いだった先生に頼まれたから、「友情出演」だと捉えればいいのでしょうか。
もしくは、本業の書道家ではないから何も支払うことはない、と思われているとか?
では逆に、なぜ私は「ギャラが出るべきだ」と思っているのでしょうか。
書道教室で教えているから?有段者だから?(某連盟で七段を取得しております)注文を受けて書道作品を売ることもあるから?

教室で教えていなくても、段位なんて持ってなくても、作品を売っていなくても、素晴らしい作品を書かれる書家はいます。
ではあちらの言い分としては、実力のないアンタの書を使ってやったんだ、喜べ。一冊プレゼントしているし、奥付にも名前を載せてやっている、満足しろ。といったところでしょうか。

ここで私が苦情を言っている相手は翻訳者の先生ではなく、出版社です。
果たしてこのチェコの出版社に私の書の良し悪しが判断できるでしょうか?
奥付に名前を載せているということは私の存在を知らないわけがありません。「え、デザイナーが適当に書いたんじゃないの?」という言い逃れは通用しません。
デザイナーも、彼女のアイデアで私が書を提供することになったのだから、書の提供者への報酬はどうなっているのか気にならないのかな?出版社と話はついていて私がもらうべきものはもらっている、と思っているのでしょうか。
まさか出版社もデザイナーも、翻訳者のポケットマネーで、なんて思っていやしないでしょうね?

毎回、すごい短時間で書かされています。
三冊目の時は翻訳者を介さずデザイナーが直接連絡してきて「二日以内に仕上げてくれ」と言ってきました。
たぶんこの瞬間に「私、なんでこんなに奉仕してんの?」と初めて強く思ったんだと思います。

もう18年も前、チェコで書道を初めて教えた頃でしょうか、「結婚式の招待状に私たちの名前を日本語で書いてほしいんです」と言ってきた女性がいました。代金を支払ってくれようとしましたが、お断りしました。私は書道のプロではないのだから、と。
そのとき日本人の大学院生でチェコに留学中だった人に言われたことを、私は今でも事あるごとに思い出します。
「わずかな金額でももらっておくべきなんだよ。そうすると仕事に対する責任というものが生まれるから」

多くの人にとっては当たり前のことを言われたにすぎないのかもしれません。
私は成人こそしていましたが精神年齢が子どものまま日本を出てしまったため、常識というものがゴッソリ抜けてここまで歳をとってしまいました。そのせいもあってか「働く」ことに対してろくな哲学も持ち合わせておらず、今でも彼の言ってくれたことを胸に仕事をし、注文の作品を仕上げます。

だって極端な話、私が頭のねじ50本くらい別の位置に着いちゃってる超ハッピーな奴だったら「原題のままじゃつまんないからさ、『コーヒーを熱くしたままに』とか書いちゃおうぜ~、チェコ人にはバレないしさ~」とか言っちゃってるかもしれないじゃないですか。
だって、責任ないんだもん。お仕事じゃないんだもん。

先方にとっても有益なんです、きちんと仕事として報酬を出して依頼するほうが。
私が『コーヒーを熱くしたままに』と書いてしまわないためにも。責任を持って提出物を仕上げるためにも。
法外な金額を請求しようなんてこれっぽっちも思っちゃいません。

プラハのヴァーツラフ広場の一番大きい書店にてコッソリ撮影。
本屋さんもジャケ買いが狙える、と思ってくれたのかな?と淡い期待をさせる配置…

ここまでブーブー文句を書きつらねてきたわけですが、このシリーズに関しては、これからも私から何かを請求することはないと思います。

この件は最初に話をつけておかなかった私に落ち度がある、と納得することにして、なるべく「文句をつける必要のない状態」に自分を持っていける環境作りに努めることにしました。

先日、翻訳者の先生からシリーズ第四部を翻訳しているという話をチラッと聞いたので、まだ頼まれてもいないのに、日本語の原題を調べ出して、既に書いてしまいました。
使っていい紙は5枚、と決めて。
せめて物理的に痛みが少ないように。


新年も明けて間もないというのに、不満タラタラの記事になってしまい申し訳ありません。
でもここに書くことができて、すっきり新しい年を満喫することができそうです。
私の勝手なわだかまり解消に最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。



【おまけ】

先日1月3日にMarmaladeさんが紹介されていた「あなた福袋メーカー」

実は私もすぐに試してみたんです。

これって、なにかと私にお得なんじゃないですか?
私、38人も恋人ができていいの…?
許されるの…?


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