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その名はカフカ Kontrapunkt 13

その名はカフカ Kontrapunkt 12


2014年6月グラーツ

 盗難物を運んでいた二人のうち、イリヤ・ドリャンの秘書である女を捕え、女が持っていた盗難物は無事保護した、側近である男のほうを捕えるのも時間の問題だ、と報告を受けたアダムは、この日の略奪戦のために貸し切っているカフェに戻った。そしてマスターに断って店の奥のキッチンで一人にしてもらい、電話をかけた。相手は瞬時に電話に出た。
「アダム、どうした、今度は何を出せばいい?」
「サシャ、それが俺の電話に対する最初の台詞か。俺はそんなにいつも何かを要求してばかりいるのか?」
「すまんな、今そっちでは全員総出で働いてるじゃないか、何か言ってこないかとうずうずしてたんだ」
 きっと寂しいのだろうな、とアダムは思う。仲間の力になりたくても自分は直接手出しのできないところにいる、というのは。そう思いながら、アダムは
「応援を頼みたいのは事実だ。一人でいい。スロヴァキア寄りのオーストリアとチェコとの国境辺りに今すぐ出られる腕の立つ奴で、気配をマイナス一万くらいに落とせる奴を出してくれ」
と言った。サシャは笑って答えた。
「その基準は何だ、最大数値はいくつなんだ?標的はそんなに手強いのか?」
「おい、頼みたいのは襲撃ではなく護衛だ」
「そうか、それで護衛の対象は?」
「レンカだ」
 サシャはアダムの返事に、一瞬返すべき言葉が見つからないかのようだった。
「どうして君が一緒にいない?」
「逃げられたんだ」
「レンカが君から逃げる、というのは全くもって理解できないが、どうして君が彼女を逃してしまったのかは更に理解できない」
 アダムは、レンカに泣かれるのかと思って手が止まってしまった、とは相手がサシャでも口にする気になれなかった。レンカは今まで、どんなに辛い状況でも、アダムの前で泣いたことはなかった。とは言え、単に目から水分が分泌されるのが心配なだけだったら、アダムもそこまで動揺しなかったかもしれない。しかしアダムが最後に見たレンカの目は、驚きと悲しみと疑心をないまぜにした末、底なし沼になってしまったかのような、彼女が今まで見せたことのない色をしていた。エミルだったら、そこに何を見るのだろう?
 サシャはアダムが答えに困っているのを察したかのように、次の質問を投げかけた。
「どこから逃げた?」
「グラーツだ。俺の読みが正しければレンカは今から北上するが、プラハまで帰ることはないと思う。今のところ一人の情報屋に尾行させてはいるが、すぐに撒かれるだろう。レンカが相手ではその辺の情報屋では歯が立たない」
「君の教育の賜物だ。グラーツを出たのはいつ頃だ?」
「逃げ出したのは六時十分前ぐらいだな。お前のところだと五時十分前ということになるか」
「分かった。ウィーンとブラチスラヴァの間辺りに一人、まさに君の注文通りの奴がいる。今すぐ連絡して追わせる」
「この程度の情報でレンカが見つけ出せるのか。いつもながら舌を巻くな。レンカは危険が迫らない限り自由に行動させておいてくれ。捕まえて送り返してもらうのが目的ではない」
 アダムの言葉にサシャはしばし考え込んでいるかのように、すぐには返事をしなかったが、再び口を開くと
「今のところ、俺にできることはこのくらいか?」
と聞いた。アダムは一寸の間を置いて
「そうだな。お前がここにいれば、それが一番理想的なんだがな」
と言った。言った瞬間に、アダムはサシャが苦笑する顔が見えたような気がした。
「それは無理な相談だ。君は常に護衛を少なくとも三人は連れていて、いつ毒を盛られるかと心配していなきゃいけない旧友を傍に置きたいのか?」
「なんでロシアっていうのは、そんなにやり口が古典的なんだ。信じられんお国柄だな。お前は一生そんな生活が続くのに、うんざりしないのか?」
「するよ、するに決まってるじゃないか。ただ、俺はそれを覚悟であの男を助けたんだ。後悔はない」
 不毛だな、とアダムは思った。サシャの答えは分かっているのに、アダムはことあるごとに同じ質問をしてしまう。
「じゃあ、レンカのほうは頼んだぞ。全部無事終わったら連絡する」
「終わる前に連絡をくれてもいいぞ。俺はそんなに忙しくしているわけじゃない」
 そう言葉を交わしてアダムがサシャとの電話を終えると同時に、協力者の一人がキッチンに顔を出した。
「ジャントフスキーさん、男のほうも捕まえました。どうします?」
「物が手に入ったら、運搬人たちには用はない。特に俺はあの男に面が割れてるからな、会うわけにはいかない。捕獲した連中も、顔は見せてないな?奴の通信機器は破壊した上で、スロヴェニア国境辺りまで送ってやれ。徒歩でもリュブリャーナに帰れない距離じゃないだろう」
そうアダムは指示を出し、さすがに徒歩はきついか、と自分の言葉に心の中で笑ったところで、今度はカフェのマスターが現れ
「女は獲物を持ってたんで、一緒に連れてきてしまいましたよ。場所を特定されると厄介なので、ここに来るまでは目隠ししましたが、上の階に座らせています。かなり怯えていますが、会いますか?」
とアダムに聞いた。アダムは一瞬考えるような顔をしたが、
「女がドリャンのところに帰らないほうに賭けてみるか」
とつぶやいてキッチンを出ると、階段を上り始めた。
 階段を上りきった先の廊下にはいくつかドアが並んでいたが、向かって左手の一番手前のドアの前に、監視役が一人座っていた。
「中には何人置いている?」
とアダムが聞くと
「二人です。どちらも覆面してますから、嬢ちゃんは余計怖がってるでしょうね。でも、しょうがないです。スロヴェニアの人間となると、土地が近すぎる。我々の表の顔に差し障りが生じるのだけは避けたい」
と監視役が答えた。もっともだ、と思いながらも、監視役の"嬢ちゃん"という言葉が気になった。
 アダムはドアを開けると、中の覆面の二人に
「外していいぞ。俺はその姉さんにちょいと話がある」
と呼びかけ、中に入った。
 二人が部屋の外に出てドアを閉めるのを待ちながらアダムは、きっと普段は使われていないのであろう、ほとんど何も置いていないこじんまりとした部屋の真ん中にうつむいて座っている女を見やった。既に目隠しは外されていた。
 覆面二人とごついオヤジ一人と、どっちのほうが恐いんだろうな、と思いながら、アダムは部屋の隅にあった椅子を引き寄せ、女の前に1メートルほどの距離を取って座った。近くで見ると、確かにまだ嬢ちゃんという呼び方がふさわしいような、二十歳そこそこの女だった。名簿で見た時はもっと大人びていたが、化粧で印象も随分と変わるのだろう。アダムは自分の娘と同じくらいの年齢の女を目の前にして、「参ったな」と心の中で独り言ちた。しかし転職していなかったら、こういう世代を尋問する機会も巡ってきていたのだろうな、とも思った。
「相方はあんたを置いて逃げたぞ。大したチームワークだな」
とアダムはあまり責めているように聞こえないよう、努めて静かな口調で始めた。女はうつむいたままで返事をしない。
「あれは組織の重役だろう?帰ってからボスに計画の失敗は全部あんたのせいだと話すのだろうと予想できるが、あんたはどう思う?」
 女はやっと上目遣いで少し顔を上げた。まだ話そうか話すまいか迷っているようだった。アダムはふと、「ここに座っているのがカーロイだったら、いろいろと違った反応になるのだろうな」と思った。女は恐る恐るといった表情で口を開いた。
「貴方は、私たちがどの組織に属しているのか、ご存じなのですか?」
「知っている」
「私の名前も?」
「マーヤ、と言ったかな?」
 自分の名前を耳にしたことで少し緊張が緩んだのか、マーヤは僅かに表情を和らげた。
「組織はご存じでも、一緒にいた男が私を置いて逃げ出したことに、どうして私が驚かないのかは、お分かりにならないでしょうね」
「驚いていないのか?随分と元気がないように見えるが?」
「覆面をした人たちに目隠しをされて知らない場所に連れてこられたら、誰だって怖いでしょう?」
 マーヤの返事を聞いて、俺もおかしな質問をしたな、とアダムは自分自身に苦笑すると同時に、マーヤの徐々にしっかりしてきた話し方に興味が湧いた。頭空っぽのドリャンのお飾りかと思っていたが、そういうわけでもないらしい。
「そんな風に言うってことは、あんたが仲間に裏切られても驚かない理由を、聞かせてくれるんだな?ここで組織の裏話をしたからと言って、あんたに不利になるような工作をするつもりは一切ない」
 アダムの言葉に答えるために、マーヤはどう話を進めていったらいいのか、暫く考えているようだったが、ゆっくり口を開いた。
「縦にも横にも、信頼関係のない組織なんです。全てはボスの独断で決められて、あとの人間は指示通り動くだけ。雇われているのは忠誠心も何もないけれど、上手いこと楽して稼ぎたい人ばかり。私もそう。元の顔が分からないくらいお化粧をして、ボスの好みのヘアスタイルと服装をしていればお金がもらえるなんて、いい話でしょう?たまに誠実な人も働いているけれど、そういう人に限って、ボスは評価しない。そんなので、どうしてこんな大きな組織がやっていけているのかって言うと、やっぱり田舎だから。貴方がどこの国からやってきたのかは分からないけれど、貴方の目にも、きっと幼稚な集団に見えているのでしょう」
 そこまで話すと、少し疲れたようにマーヤは一旦言葉を切った。そして、まだうつむき加減だった顔をアダムのほうに真っすぐ向けると
「私、二年くらいあの組織で働いてます。でも今まで危険なことなんて、一度もなかったの。今日一緒に来た男も運転しながら、万が一誰かに後をつけられてたらって言って、寄り道しながらグラーツまで来たけど、何かっこつけてるんだろうって思ってたんです。まさか、こんなことになるなんて」
と言って、眉を寄せ、口を一文字に結んだ。
 アダムはマーヤの目を見つめながら
「あんた、しっかり観察できてるじゃないか。その歳でそこまで周囲の環境を客観視できたなら上出来だ。あんなところで人形の真似事をしているのにはもったいないぞ。今回は俺たちが相手だったのが運が悪かったと思え。怖い思いをさせて悪かった」
と言い、一呼吸分の間を置いてから
「マーヤ、この後、イリヤ・ドリャンのもとには帰らないと誓えるか?今後あの組織には一切近づかないと約束してくれるなら、国まで送り届けてやる。申し訳ないが、ここを出るときはまた目隠しをしてもらうが」
と続けた。マーヤは一気に緊張の解けたような顔をすると
「ありがとうございます。私もあそこで働くのはもう飽き飽きしていたの。毎日のようにボスに馬鹿にされながら座っているのも仕事のうちなんて、それこそお馬鹿さんのすることだわ。私、出身はマリボルなんです。あの街の近くまで送っていただけたら、暫く身を隠していることにします。ボスはどうせ私には何の機密情報も漏れていないと思い込んでいるから、しつこく狙われることもないと思います」
と言って、朗らかな笑いを浮かべた。
 アダムはマーヤの笑顔を見て、自身も少し気が楽になったのを感じながら
「よし、話しは決まったな。最後にもう一つ聞きたいんだが、そのきつい香水も、ボスの好みでつけているのか?」
と聞いた。マーヤは急に変えられた話題にきょとんとしながら
「いえ、これは私が好きで」
と答えた。
 アダムは鼻をふんと短く鳴らすと、
「もしこの業界に残りたいと思うのなら、それは今すぐやめたほうがいい。香水なんて、同じものをつけている人はたくさんいると思うだろう?だが、体臭と混ざると同じ商品でも一人一人違ったものになる。玄人は、それが嗅ぎ分けられる。姿を見せる前に自分が誰なのかを暴露しているようなものだ」
と言って立ち上がり、マーヤを送り出す手配をするため、部屋を後にした。


その名はカフカ Kontrapunkt 14へ続く


『Caшa』 DFD 21 x 29,7 cm、鉛筆、色鉛筆
キリル文字の筆記体を頑張ってみたけれど。果たしてロシア語できる人に読んでもらえるものになっているのだろうか…?
あ、この絵はサシャです。



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