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その名はカフカ Kontrapunkt 14

その名はカフカ Kontrapunkt 13


2014年6月ブルノ

 ハルトマン病院長は午前中の外部での所用を済ませると、彼の病院内での仕事場が入っている病棟へ向かった。彼の病院の敷地内には各診療科に分けて病棟が連立していたが、病院長は敷地内の一番奥まった病棟に、病院長室や病院長が同席する会議だけに使われる会議室などを集めた一角を作り、入り口もその建物の病院として機能している部分とは分けて設置していた。そしてそこにも独立した受付を設け、常に人を置いていた。
 この日も病院長はいつもと変わらぬ笑顔で受付に立ち寄り、受付嬢に挨拶をしたが、彼女は少し困った顔をして立ち上がり
「病院長、おはようございます」
と、挨拶を返しただけで、先をどう続けてよいのか分からないようだった。
 病院長は笑顔を崩さず、優しい口調で
「どうかしましたか?」
と聞くと、受付嬢は困った顔のまま、
「ご来客なのですが、お名前もいただけず、先生と約束もしていないけれど、いくらでも待つ、とおっしゃって。態度も身なりもきちんとした方なので、問題は無いかと思いましたが。あの方を、ご存じですか?」
と言って、右手の廊下の突き当りに設けてある来客用のベンチのほうを示した。
 病院長はその来客を目にして、一瞬「おや?」とでも言うかのような顔をしたが、すぐに受付嬢のほうへ向き直って
「大丈夫ですよ。大事なお客様です」
と言ってもう一度微笑み、来客のほうへ急いだ。
 病院長が足早に近づいていくと、来客用のベンチに座っていたレンカは素早く立ち上がり、深く一礼をした。病院長は、受付嬢から顔が見えないところまで来ると、再び驚きを隠せないといった表情を浮かべた。
 病院長は
「お一人ですか?」
と聞きながら、レンカの背後に目をやった。今までレンカが一人で病院長の前に姿を現したこともなければ、アダム・ジャントフスキーが事前に連絡をせず病院長を訪問したこともなかった。しかも契約書を更新したのはたった一週間前のことだ。
 病院長の心に最初に浮かんだのは、アダムに何か起きたのではないか、という懸念だった。
「何か問題でも?」
と重ねて聞いたが、レンカは何も言わなかった。それとも何も言えないのだろうか?と思いながら、病院長は
「お話があるのですね?私の事務室にご案内します」
と再び朗らかな笑顔を見せ、レンカをエレベーターのほうへ促した。
 エレベーターに乗り、病院長が病院長室のある階のボタンを押した時、レンカはやっと
「突然お邪魔して、申し訳ございません」
とかすれた声で言った。病院長は
「お疲れのようですね。午後一時までは私も時間がありますから、休んでいかれると良いでしょう」
とだけ返し、エレベーターを降りて病院長室の前まで来ると、鍵を開け、ドアを押さえてレンカを先に通した。
 レンカが初めて見る病院長の事務室は広く、病院の中の一室とは到底思えない、古城の主の書斎のような雰囲気だった。ただ、その贅沢さも嫌味ではなく、レンカは「病院長はセンスのいい人なのだろうな」とぼんやり考えた。
 病院長は来客との懇談に使っている丸テーブルにレンカを案内し
「何かお飲みになりますか?暑いですから、何か冷たい物でも?」
と聞いた。レンカは少し眉を寄せると
「常温のお水をいただけますか?水道水で結構です。私は極端に熱い物も冷たい物も口にしませんので」
と遠慮がちに言った。
 病院長は何も言わず部屋の隅の簡易なキッチンのほうへ行くと、ペットボトルからグラスにミネラルウォーターを注ぎ、レンカのほうへ持って来た。
「冷蔵庫には入れていなかったものですよ」
とだけ言って、またキッチンに戻ると、湯を沸かし、お気に入りのハーブティーを淹れ、盆にティーポットとカップを二つ乗せて、テーブルまで運んできた。
 病院長は
「これは今から十分ほど置かなければなりませんし、お話が終わるころには室温くらいに冷めているかもしれません。強制はしませんが、よろしければ後ほどお召し上がりください」
と言って、微笑んだ。そして
「さあ、お聞かせいただけますか、貴女がなぜ今ここにいらっしゃるのかを」
と、レンカを促した。
 レンカはうつむいたまま、深く息を吸い込むと
「あの、私との、契約の解消を、お願いに参りました」
と、青ざめながら言った。病院長は表情を一切変えず
「どうされましたか。恋でもされましたかな?」
と言った。レンカは瞬時に顔を上げ、病院長の顔を見つめた。この日レンカが初めて病院長のほうへ正面から顔を向けた瞬間だったが、眉を寄せたままのレンカは病院長を睨みつけるような形になってしまい、レンカは自身の行為に狼狽した。
 病院長はそれでも笑顔を崩さず
「冗談ですよ。気分を害されたのなら申し訳ない。実際、我々の婚姻関係は貴女をそういった意味で制限するものではない。貴女は今の境遇のまま、百万人の恋人を持つことも可能だ。では、何が貴女にそのような決断をさせたのか、話してくださいますか」
と言った。レンカは
「これ以上、頼ってばかり、ご迷惑をおかけしてばかりでは、申し訳ないと思い……」
としどろもどろに始めたが、文章の最後まで言い切らなかった。と言うよりも、どう文章を終えてよいのか分からなかった。
 病院長は
「ジャントフスキーさんと話し合った上での決断ですか?」
と聞いたが、レンカは答えず再度うつむいた。
 病院長は、そろそろですねと言いながら二つのカップにハーブティーを注いでから、改めてレンカのほうを向いた。
「それがジャントフスキーさんの決定なら、私は喜んで同意します。この契約は私と貴女のものではない。彼のものです。しかし、貴女は彼に断りなくここまで来た。何があったのかは私には分かりませんが、感情にまかせて飛び出してきてしまった、そんなところでしょう」
 レンカは病院長の声の中に、先ほどまでとは違う表情を感じ取り、再びゆっくりと顔を上げた。病院長の顔は微笑んだままだったが、瞳の奥に静かな、しかし底知れない厳しさのようなものを読み取り、レンカは背筋が冷たくなるのを感じた。
 病院長は表情を変えず、話し続けた。
「私は貴女のことを何も知りません。ジャントフスキーさんからも、ご同僚の親類のお嬢さんで、一緒に仕事をすることになった、としか説明を受けていません。それでいいのです。もし彼が連れてこなかったら、私は一生、貴女のような人に関わることはなかったし、興味を持つこともなかったでしょう。私の目には、貴女は自分の人生が狂ってしまったのは全て他者の責任であると思い込んでいる意地っ張りな人間にしか見えない」
 レンカは何と答えて良いのか分からず、ただ病院長の顔を見つめた。
「なぜこのようなことを聞かされなくてはいけないのか、とお思いでしょうね。もしくは一年に一回、黙って数時間顔を合わせただけで、私の何が分かる、と思っていらっしゃるかもしれませんね。ここからは、私は助言のつもりで話しますが、年寄りの戯言、と忘れていただいてもかまいません。少なくとも今日この病院の敷地を出る時くらいまでは、覚えていてくださると嬉しいが」
 そこで病院長は一旦言葉を切ったが、レンカが何も言おうとしないのを見て取ると、再び口を開いた。
「ご存じの通り、私は四十年以上も前、一度祖国を捨てました。ジャントフスキーさんのお父様のお力を借りて、この国が未だかつてないほど自由を失った時代に。私は何も「こんな恵まれた時代に生きて、何が苦しいというのだ、現代の若い者は」などという説教をしようと言うのではありません。昔から、自分の苦労話を自慢話にしてしまうような年寄りにはなりたくないと思っていましたしね。貴女も、時代も環境も違えど、随分と辛い経験をされたのでしょう。そういった人生の上で起こる辛く苦しい体験は、比較の問題ではありません。あなたの苦しみは私の苦しみより軽い、だから苦しそうな顔をするな、などとは誰も他者に向かって言うことはできないのです。問題は、その後です。その経験をその後の人生に活かせるか否か、そこに懸かっています」
 病院長はレンカが話について来ているのか確認するかのように彼女の目を覗き込み、また続けた。
「残念ながら、貴女は成長するのを諦めてしまったかのように、心の中に失望を抱えて、それを支えに生きているようにさえ見える。ジャントフスキーさんは、貴女をとても大切にしておられる。貴女を傷つけないように、少々過保護のように見えるときもあるが、それは貴女たちの問題であり、私が口を出すことではない。私が気になるのは、貴女が彼の好意を受けるのを当然のことのように考えている点です。その環境に慣れきってしまい、貴女という個人は、非常に弱い性質の存在になってしまっている」
 レンカは病院長の話を聞きながら、何度も目をそらしたくなったが、それは病院長が話している間は許されないような気がした。
「私がジャントフスキーさんに初めて会ったのは革命後、国に戻ってすぐのことでした。立派な青年だと思いました。あの頃はまだ、プラハで警察官をしていましたね。彼のお父様が亡くなってからも、その後の彼の活動は追っていましたが、98年を境に、まったく消息が分からなくなっていた。それが2004年頃でしたか、また連絡をくださって、その二年後に、貴女のことでご相談を受けました。初めて私を頼ってくれたと、大変嬉しかったのですよ。ジャントフスキーさんが頼りたくない私に協力を要請したのも、全ては貴女のためなのです。私には、なぜ彼にとって貴女がそのように大切な存在なのかは分かりませんし、分かる必要もないのでしょう。私が納得いかないのは、彼が大切にする貴女が、このように自立していない、弱い人間だということなのです」
 病院長は再び言葉を切ると、まるでその瞬間まで目をそらさなかったレンカに「よく頑張った」とでも言うかのように微笑んだ。
 レンカは呆然として
「すべて、見えているのですね」
とだけ言った。多忙な病院長に、一年に一回の会議以外にレンカとアダムを観察する暇などあるわけがなかった。そして今、レンカはアダムとの間に何らかのわだかまりがあるからこそ、アダムに頼っている最大の証拠である病院長との関係を断たなくては、という発想でこの日ここに現れた、というのも病院長にはお見通しなのだ、と恥ずかしく思った。
 病院長は、レンカの言葉にはあえて答えず、話を続けた。
「厳しい言い方をしましたが、私が貴女に伝えたいのは、強くおなりなさい、ということです。私の名前を纏うことによって、貴女の生きる世界でも、随分と強い立場になったのは事実でしょうが、私が言っているのは人間性のほうです。私もこの婚姻が永遠に続くものだとは思っていません。死別するのが一番厄介です。順番から言えば、私が先だが、貴女の仕事のほうが危険が多い。何とも言えませんね。とにかく、私たち二人が健在のうちに、解消しなくてはなりません。こうしてはどうでしょう?あと二年で、この契約も十年となります。その二年後には、貴女のご希望通り、状況がどうあっても契約を解消しましょう。しかし、その二年が経つ前に、貴女は充分強くなったと、私が判断したならば、すぐに解約に同意します。これは、私から貴女への宿題のようなものです」
「つまり、あと二年の間に何が何でも強くならなくてはいけないのですね」
 レンカはそう答えると、微かに微笑んだ。それはこの日彼女が病院長に見せた最初の笑顔であり、病院長が彼女を知って以来、初めて見る笑顔でもあった。
 病院長は嬉しそうに
「しかめっ面をしているだけが強さではありません。貴女はこんなに綺麗に笑えるのだから、次に敵対者を前にした時は、笑顔で打ち倒しておやりなさい」
と言った。レンカは少し困ったような、しかし楽しげな笑みを浮かべると
「私が普段、敵を睨みつけてばかりいると、どうしてご存じなのですか?」
と聞いた。
 病院長は
「私も半分は裏社会の人間ですからね、いろいろ情報源はあるのですよ。さあ、お茶もちょうどよく冷めた頃ではないですか」
とだけ言うと、満面の笑みでレンカに自慢のハーブティーを勧めた。


その名はカフカ Kontrapunkt 15へ続く


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