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その名はカフカ Kontrapunkt 12

その名はカフカ Kontrapunkt 11


2014年6月グラーツ

 狙っていた盗難品がリュブリャーナから車で持ち出されたからと言って、それを更に車で追いかけて、追いつき次第奪い取る、というのはあまりに短絡的で計画性に欠けており、アダムの中では選択肢の一つにもならなかった。それに、イリヤ・ドリャンに連絡が入るのは遅ければ遅いほどいい。アダムは、盗難品の取引の直前までは手を出さないでおくのが理想的ではないかと思った。リュブリャーナからグラーツまでの最短ルートはスロヴェニア北東部のマリボルを通過する高速道路A1だったが、盗難品を積んだ車は別ルートを選んだようだった。
「リュブリャーナから出た方向からして、まずほぼ真っすぐ北にオーストリアに抜けるようだな。オーストリアに入ってくれさえすれば、こっちのほうが何かと有利だ。そこからはかなり確実に動きが追える」
と言ってから、あまりに西に寄ってもらうとそれはそれで厄介だがな、とアダムは助手席のレンカにというよりも自分に言い聞かせるかのようにつぶやいた。話しながら、ここからの自分たちの取るべき対策を考えているのだろう。レンカは返事をせず、窓の外を見た。
 暫く黙って運転していたアダムは
「レニ、お前かなり機嫌悪いだろ」
と言った。レンカは右を向いたまま
「別に。私ってそこまで名前だけの存在だったのかって、改めて思っただけよ」
と答えた。
「お前を除け者にしたつもりはない。この一日半での事態の進行は俺でも驚いたぐらい速かった。それに、あの優男がいる組織を全面的に疑っているというのを、確実な証拠を掴むまでお前に知らせたくなかったというのもある」
「それ、気を使うところ?」
「分からん。少し頭をよぎった程度だ。とにかく細かい進捗状況をお前に伝えている時間がなかった」
 納得できない話ではない。エミルとアダムが一日24時間一つの仕事に全力を注いだら、このくらいすべてが早く進んでもおかしくはない。しかもルツァは今までリュブリャーナで日々裏社会の人間たちを観察してきたのだ。彼の協力を得れば、盗難物の隠し場所の特定など、そんな難しい話ではなかったのかもしれない。
 レンカは、今の彼女が不機嫌に見えるとしたら、原因は他にあることを自覚していた。アダムはカーロイに対して、他の誰に対するよりもぶっきら棒な態度を取る。それは彼らの間の完璧な信頼関係の現れであり、レンカはいつも二人が話すのを見ては疎外感を感じていた。この二人だけではない。アダムとカーロイ、ティーナ、サシャの四人と自分の間には、どうあがいても乗り越えられない壁があり、この四人がどんなに自分を大切にしてくれても、自分は死ぬまで四人の間の絆に嫉妬し続けるのだろうと思ってきたし、この日のカーロイからの電話で、それを再確認した気持ちになっていた。
 アダムは、再び黙ってしまったレンカは本当に機嫌が悪いのか、それともまた何かを不安に思っているのか判断がつかず、手を握ってやりたいと思ったが、運転中にすることではないなと諦めた。そしてふと、握ってやりたいのか、それとも単に自分が勝手に握りたいだけなのか、という疑問が湧いて、アダムは自分のその疑問に少し戸惑った。

 結局、盗難物の取引の舞台はグラーツであるというのは確実な情報らしいというルツァからの連絡で、アダムは盗難物の運搬者を先回りしてグラーツに入ることにした。南オーストリアの協力者から、運搬している車は彼らの選んだ少々遠回りのルートを更に脇道に逸れたり戻ったりして進んでいる、という報告も入っていた。
「これもカモフラージュのつもりなのか?取引まで時間があるということなのだろうが」
と、報告を聞いたアダムは少し苛ついた様子で言った。
 道中、できる限り多くのグラーツ周辺の協力者に電話をかけ応援を要請したアダムとレンカがグラーツに着いたのは午後四時を過ぎた頃だった。
「本拠地にできる場所はあるの?」
と聞くレンカに、アダムは
「ティーナがほぼ買収している店がある。そこの店主もティーナの情報屋だ。さっき声をかけた情報屋の何人かも来ているはずだ」
と答え、車を降りると先に立って歩きだした。
 五月にアダムがティーナと会ったカフェのマスターは相変わらず掴みどころのない男だったが、アダムから連絡が入るとすぐに店を閉め、皆を迎える準備を始めたようだった。声をかけた協力者のうち、すでに五名ほどが集まっており、アダムとレンカが姿を現すと、瞬時に話し合いが始まった。
 目的はあくまで盗難物を手に入れることであり、相手を攻撃することではない。もし購入者のほうにレンカの顔が利くようなら、購入者が盗難物をイリヤ・ドリャンの部下たちから買い上げた後、その購入者と交渉する、という可能性も考えられる。しかし現時点ではその購入者が誰なのかは分かっていない。確実なのはその売買が行われる前に盗難物をこちらの物にすることだろう。
「そのスロヴェニアからの一味と交渉するとして、それも金で解決するんですかね?」
と一人の協力者が聞いた。アダムは即座に
「それはないだろう。道理にかなわない。あの組織はこちらの要求に応えず、盗難物を所持していることを隠していた。そして今、それを他に渡そうとしている。奴らに金をやる、というのはあり得ない」
と答え、暫く黙って考えているようだったが、なぜ今まで思いつかなかったのかといった表情で再び口を開き、忌々しそうに
「購入者に渡すのもなし、だ。手に入れたら最後、そいつは絶対に手放さない。考えてみろ、ドリャンがいくらでも払うと言った俺たちではなく、他に流す理由を。盗難物には購入者が外に出したくない、そいつにとって不利な情報が含まれているんだ」
とまくしたてた。
「つまり、あのころ戦争で罪を犯した人、ということ?」
というレンカの一言に、室内が静まりかえった。アダムはレンカのほうに顔を向けると
「そしてあのドリャンと何らかの関わりがあるんだろう。何にしても、今回のゲームは金では解決できない」
と今度は静かに言った。
 その場の全員にコーヒーをふるまった後、カウンターにもたれて終始黙っていたマスターが
「そろそろグラーツ入りしてもいい頃じゃないですか、運搬の奴ら。もう五時を回ってますよ。購入者と接触する前に抑えたいなら今すぐ行動を起こすべきでは?」
と言った。アダムは勢いよく立ち上がると
「うちの連中ももっと集まっているはずだ。全員にドリャンの部下がグラーツに入り次第、とにかくひっ捕まえろと伝えろ」
と言って協力者たちを外へ急き立てた。そしてレンカのほうを振り向くと
「お前はここに残れ。心配するな、そんなに時間はかからない」
と言って出て行こうとしたが、もう一度立ち止まると
「そんな顔するな、何がそんなに不安なんだ」
と困った顔をして聞いた。レンカは「自分はどんな顔をしているのだろう」と思いながら
「いってらっしゃい」
とつぶやくように言った。
 アダムが出て行って、カフェの中で一人になると、本当に手持ち無沙汰だった。マスターが淹れたコーヒーは、レンカの分だけが手を付けられずに残っていた。
 レンカは「自分だけが残らなくてはいけない根本的な理由は何だろう」とぼんやり考えた。武装していないからだろうか。そう思った瞬間、指先がポケットに入れてあるIMCOのライターに当たった。五月の爆発の後、エミルに不審な顔をされながらも返してもらったライターだった。
「外に出るくらい、いいじゃない」
声に出して言ってみた。本当に、外に出るくらい何でもない気がしてきた。今回の仕事が始まって以来続いている得体の知れない不安を押し殺し、レンカは腰を上げた。
 レンカは外に出て、カフェのすぐ横の路地に入った。誰もいなかった。まっすぐ歩いて、次の角を右に曲がって、またしばらく歩いて、更に左に曲がると、少し広めの路地に出た。その路地の左手にある車道に続く小さな家と家の間の隙間のような、幅が広めの短い通り道から、車道の路肩に車が駐車されているのが見えた。レンカはその車が気になり、その通り道の脇の家の陰から覗き込んだ。ちょうど車から乗っていた二人が降りるところだった。一人はレンカがイリヤ・ドリャンとの会見で会ったドリャンの側近の男で、もう一人は女だった。名簿には秘書だと表記されていた気がする。
 二人は車の外で話し始めた。警戒している様子などまるでない。まさかスロヴェニアを出てからここまで監視されてきたとは夢にも思っていないのだろう。レンカは、グラーツはそんなに大きい街ではないとは言えオーストリア第二の都市だというのに、まさかこんなに自分の近くに出現するとは、と驚くと同時に、皆は何をしているのだろう、アダムに知らせなくては、と思い、やっと自分のうかつさに気がついた。今の自分には、通信手段は電話くらいしかない。エミルが一緒にいないと、耳にイヤホンを突っ込んでおくことさえ怠ってしまう。さすがに電話をかけるとなると、目の前の獲物に気づかれるのではないか、しかし一旦目を離したら獲物に逃げられそうで、その場を離れるのは気が進まない。やはり小声で電話をかけてみようか、と思った瞬間、
「今ここで君にできることは何もない。大人しくしていようね」
と耳元にささやき声が聞こえ、何者かがレンカの体に腕を回して後ろから抱きすくめ、もう片方の手で彼女の口を押さえた。口調は随分と違うが、声は五月にオペラ座で脅迫された時に聞いたものと同じだった。
 声の主は全く手に力を入れていないというのに、レンカは身じろぎもできなかった。そうしている間に、ドリャンの部下たちは車を離れた。女のほうが大きめの鞄を持っていた。しかしレンカの頭は目に映る情景よりも、今の自分の置かれた状況をいかに打破するかに集中していた。自分を捕えている人間は武装しているのだろうか?暴れたとしても、レンカの腕力では敵わないのではないか?
「レンカから離れろ」
 背後からアダムの声が聞こえると同時に、レンカの体は解放された。振り返ると2メートルほど後ろにアダムが立っており、レンカを押さえていた男も瞬時に跳びのいたらしく、ちょうど三人で正三角形を形作るような位置に立っていた。男は長めの茶褐色の髪を一つに束ねており、細身の体で、顔は声の雰囲気よりも若く見えた。日が傾いた夕暮れで、路地に日の光は届いていなかったが、男の目は不思議な琥珀色の光を放っていた。
「一体お前はここで何をしている?」
と男に言ったアダムは怒っているように見せてはいるが、声にも表情にも棘がなく、それがレンカを混乱させた。自分が襲われそうになったのに、アダムはなぜ襲撃者を捕えず、自由にさせておくのだろう?
 男は口元に楽しそうな笑いを浮かべると口を開いた。
「アダム、君には今、僕にお説教するよりももっと大事な用事があるんじゃないのかい?」
「あの二人は今頃、情報屋どもが取り押さえている」
「この人が……カフカの中心なの?」
 男のほうに気を取られていたアダムは、レンカの言葉に彼女のほうを振り返り、レンカが放心した表情で男を見ているのに気がつくと、まるで心の中で舌打ちをしたような顔をして男に
「消えろよ。得意だろう?」
と言った。男は柔らかに微笑み
「言われなくても」
と言うと同時にすっと傍の路地に入って姿を消した。
 レンカは目を大きく見開いたまま、無表情でアダムのほうを向き
「私……あの人と一緒にいたんでしょう?あの二日間。私、覚えてるの、あの人の目。私が覚えていて、具体的にどこで会ったのか思い出せないなんて、それしか、ないじゃない」
と言ってアダムの返事を待ったが、アダムが何も言わないのを見てとると
「アダムも、カーロイも、知ってたの?知ってたのね?そうなんでしょ?」
と鋭い声を上げた。
「レニ、大声を出すな」
そう言ってアダムはレンカのほうに手を伸ばしたが、レンカは
「来ないで」
と言って後ずさりを始めた。アダムは半ば懇願するように
「馬鹿、一人になるな」
と言いながらレンカを捕まえようとしたが、レンカが
「馬鹿で結構よ」
と言い放った瞬間、彼女の目を見て、動きを止めた。
 レンカは素早く踵を返すと、走り出した。


その名はカフカ Kontrapunkt 13へ続く


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