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その名はカフカ Kontrapunkt 6

その名はカフカ Kontrapunkt 5


2014年6月ニュルンベルク

 他に見どころはたくさんありそうな街なのに、よりにもよって動物園の、しかもイルカショーを選ぶとはな、と心の中でぼやきながら、ラーヂャは観客席の最後列に腰を下ろした。まだ次のショーまでは10分ほど時間があったが、最前列は既にカメラを構えた観客で埋まっていた。また今日も暑くなりそうだな、と思いながらラーヂャはひしゃげた木綿の帽子を押さえて空を見上げ、無精ひげがまばらに覆う顎をしごいた。
 南ドイツのバイエルン州にあるこの街にはこれまで縁がなかったが、約束の時間よりも早く到着したラーヂャは、今では美術館として一般に公開されているルネサンスの巨匠アルブレヒト・デューラーの生家へ向かった。ラーヂャはもともと、著名画家の高品質な画集を制作する印刷技師であり編集者であった。彼の作っていた本は全て専門家やマニア向けで、素人の興味本位では手の出ない値段だった。百部以上刷る本はまず出さなかったし、本物のリトグラフだけで構成された画集などは片手で数えられるほどの部数しか出版しなかった。それでも買い手はすぐついて、ラーヂャはその仕事を愛していたし、満足した人生を送っていたはずだった。
 しかし、90年代の半ば頃、ラーヂャは出張先のブリュッセルで蒸発した。魔が差した、としか言いようがないと今でも思う。その後すぐに自分ための偽造パスポートを五種類ほど作った。それまでのキャリアで習得した技術を駆使すれば、そんなものを作るのは朝飯前だった。すると瞬時に裏社会からの注文が殺到するようになり、偽造書類のエキスパートになった。パスポートにICチップが導入されてからは少々複雑にはなったが、その頃には自分に足りない技術を補足する共同制作者を得ていた。
 デューラーの家は興味深かったが、約束の時間に遅れないよう、ラーヂャは時間の余裕を持ってニュルンベルク動物園へ向かった。ラーヂャは至って几帳面な性格で、時間を守ることも注文通りに品物を作り上げるのと同じように、当然のことだと考えていた。そして必ずしも依頼主が「注文通りである」と言って喜ぶとは限らないのと同じように、約束をした相手が時間通りに来ることも期待してはいなかった。だから五月のキツネの付き添いにも、言われたこと以上のことはしなかったし、処理すべきところは全て余すところなく仕上げた。
 イルカショーが始まった。ラーヂャの座っている最後列はほとんど空いていたが、最前列から数列は観客でいっぱいで、ラーヂャの手前の列にもまばらに人が座っていた。イルカと調教師の登場に皆が拍手する。これもまた興味深い動物だな、とラーヂャはイルカの滑らかな肌合いに感心した。ショーに見入ってはいても、自分の隣に約束の人物が現れたことには当然気がついていた。
「あんたなら気に入ると思ったのよ」
と言うその人物に、ラーヂャは
「ボスにそんな風に気を使ってもらえるとは嬉しいね」
とイルカを目で追いながら言った。
 ボスがラーヂャの左側に腰を下ろすと、ラーヂャはやっと顔をボスのほうに向けた。この日は黒髪のおかっぱにノースリーブの真っ赤なワンピースを着ていた。年齢相応に落ち着いた格好をするという発想がこの人にはないのかね、とラーヂャはいつも思う。
「何だいその頭。『パルプ・フィクション』でも観たのか?」
「分かる?昨日ちょうど観なおしたのよ。坊主にしとくと便利よ、いつでもいろいろなウィッグを選べるから」
 軽口をたたいた後、二人とも暫く黙った。そして最初に口を開いたのはボスだった。
「本部が甚く気にしているわ」
「そんなに目障りなのか、あの女」
「東の雑魚の一人だと思ったからキツネに適当に任せておいたけど、どうもそういう存在じゃないらしいのよ。後ろにはいろいろ隠れていそうだとは言われていたけど」
 ラーヂャは彼女をボスと呼ぶが、彼女のボスは組織の総長だった。あまりに肥大した組織は総長の下の幹部たちに地域別の管轄が分け与えられ、幹部全員が「ボス」と呼ばれる存在になっていた。彼女はその中の一人で、今は東欧を任されていた。任されて初めて、「東は東、と簡単に一括りにできない」と頭を悩ませていた。今問題にしているハルトマノヴァーという女がその代表格で、まるで東と西の中間地点に立って、晴れることのない濃い霧を漂わせているかような存在だった。
 ラーヂャはボスの表情を追いながら口を開いた。
「なあ、あれは本当に殺ってもいいもんなのか」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「本部が、女には利用価値がある、と思っている可能性はないのか」
 二頭のイルカが同時に跳ねて、観客は一斉に歓声をあげた。ボスはラーヂャの質問には答えず
「あんたがどうしてキツネをかばうことにしたのかは知らないけど、何かやらかしたんでしょ?女は逃したし、女はあたしたちが誰だが認識している。そういうことよね?」
と聞いた。ボスの言葉にラーヂャはニヤっと笑うと
「俺は直接あんたたちのところに属してるわけでもないからな。自分の法則に従ってやらせてもらう。殺りたきゃ殺りゃいいんだ、だが俺の技術の価値を知ってるあんたたちは絶対に手を出さない」
と答えた。
 ボスは一瞬悔しそうな表情を見せたが、すぐにその表情を引っ込めた。
「写真、撮った?」
「女の、か?」
そう聞きながら、ラーヂャはジャケットの内ポケットから電話を出すと、少しいじってからディスプレイをボスのほうへ向けた。
「小生意気な顔の娘ね。全然可愛くないじゃない。あたしとしては始末しちゃっても全然惜しくないけど」
「見てくれの良し悪しの話をしている場合か。呆れるぜ」
本当に呆れたようにそう言うと、ラーヂャは素早く電話をしまった。
「それ、あたしと本部に送って」
「送らない」
 ラーヂャの返事にボスは彼を鋭く睨みつけた。
「どうして」
「さっきから言っている。俺はあんたらの組織には属していない。その代わり、いつも的確な助言をしてやってるじゃないか」
「いつも全部は教えてくれてないけどね。言うことだけ言って、あとでフォローすべきところに気がついても、あんたは手を出さない」
 ボスはいくらか視線を和らげると、ラーヂャの表情から何かを読み取ろうとするかのように彼の顔を見つめた。そしてまた言葉を続けた。
「キツネをバルカンに送りたいって言ってたけど。今あの辺で何が起こっているのか、こっちには何の情報もないのよねえ」
「情報をつかんだ奴、あの地域に興味のある奴は今、こぞってあっちに向かっている。あの女も然り、だ」
ボスの目が一瞬光った気がしたが、ラーヂャは話を続けた。
「だがキツネが行くべきところは女のところじゃない。今、皆が皆、脇目もふらずリュブリャーナに向かっている。そしてそいつらは、大きな見落としをしている」
「どういうこと?」
「奴らの目的物は分散してるってことだ。キツネにはその見落としを拾わせてみる」
「へえ、キツネで務まるかしら」
 イルカがボールで遊び始め、また歓喜の声が上がった。ラーヂャは、しまった、いいところを見逃した、と思いながら
「どうせボスは何の価値も見出してない案件なんだ。キツネにやらせてみて、駄目だったら駄目だったで、何の損もないだろう?」
と返した。
 ボスはため息をつき、イルカのほうへ目をやった。
「分かったわ。あんたとは長い付き合いだけど、最終的にあたしが不利になるようなことは一度もしたことがない。キツネだって、いなくなっても全然損な人材じゃないし、せいぜい肝試しに精を出すがいいわ」
 二人とも暫く黙って、イルカショーに見入った。イルカは調教師が発するリズムに合わせて踊っている。見事だな、とラーヂャは再び感心した。
 ボスはショーを見ながら、おもむろに腕時計を外すと、ラーヂャのジャケットの左ポケットに滑り込ませた。
「今朝の戦利品。あんたならいい値で買い取ってくれるところ、知ってるでしょ」
「相変わらず手癖が悪いな。そろそろそういうの、やめたらどうだい」
「無理よ。よくハリウッド女優が万引きしたとか、ニュースになるじゃない。それと同じよ。お金に困ってるんじゃないの、習性なのよ。やらないと頭がおかしくなりそうになるの。体が言うことを聞かないの」
 ラーヂャは「ショーの最後まで見られないのは何とも惜しいな」と思いながら、挨拶もせず席を立ち、出口へ向かった。
 ボスは「こんな日差しのきつい日に黒髪のカツラ被って屋外で約束するとは抜かったわ」と思いながら、ラーヂャを目で追うこともせず、イルカの動きに見入っていた。


その名はカフカ Kontrapunkt 7へ続く


『Péter』 DFD 21 x 29,7 cm、ボールペン
初登場の絵ではコメント欄で「ミッチーだ!ミッチーだ!」と騒がれたペーテル。私としては似てないと思うんですけど…今回はどうでしょうか?



【おまけ】

私がニュルンベルクに行ったのは2015年のこと…らしいです。
なぜ確信がないかと言うと、どこにもその小旅行については記録しておらず、手元には動物園の見取り図があるのみ、だから。

デューラーの家にも、おもちゃ博物館にも行った覚えはある…のにもかかわらず、資料が動物園の地図しかない。
とにかく外付けハードディスクの中の古い写真で、動物園で撮ったらしき写真を探してみることにしました。
しかし、出るわ出るわ、動物の写真…!
一時期、動物園ばっかり行ってたから、どれがどこなのか分からない。当時デジカメで撮っていたので、撮ったところの情報が自動的に写真に含まれているわけもなく、写真は年号別に分けてフォルダに保存されているものの、名前を変更していないので、どれがどれだか。
いやでも、突きとめましたよ。どの写真がニュルンベルク動物園だったのか!
イルカショーの調教師の人たち、ユニフォーム着てまして、ニュルンベルク動物園のロゴが入ってたんです!

以下、イルカショーを、ラーヂャの隣に座った気分でお楽しみください。


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