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その名はカフカ Kontrapunkt 3

その名はカフカ Kontrapunkt 2


2014年6月イフラヴァ

「今回も滞りなく終わったな。先生に本当に引退されたらどうするかっていう課題は残ったがな」
と、アダムが助手席に座るレンカに言ったのはブルノとプラハを結ぶ高速道路D1が小都市イフラヴァを目前にした辺りだった。
 ブルノでハルトマン病院長とお互いの弁護士を交えた会議を済ませたアダムとレンカは、ブルノ郊外在住の弁護士を自宅へ送り届けた後、車でプラハへ向かっていた。一年に一度開かれるこの会議は契約書の更新と前年六月からの一年間に発生した迷惑料の金額の決定を行うものだった。レンカが病院長と結婚した際、婚姻誓約書とは別に毎年更新の契約書が作成された。レンカがハルトマン家の者であることで自動的に発生する警察などの公的機関での免除特権、病院長に直接連絡すべき事項の規模、病院長の守備範囲からは外れる領域などが記載された契約書は病院長の弁護士によって作成され、レンカの弁護士が綿密な確認を行って発行されたものだった。レンカが特別目立った事件などを起こした年には迷惑料を支払うことになっていたが、病院長にとっては些細な金額で、実質形式だけのものだった。
 会議では主に話し合うのはお互いの弁護士で、場合によってはアダムと病院長が口を挟むが、レンカは一切言葉を発しないのが常だった。レンカはただ、その場を観察していた。法律上は彼女の配偶者とされている病院長は、広くは近隣諸国の政界にまでも影響を及ぼすとされ、一般社会からでは見えない次元でとてつもない権威があると言われるが、その柔和な外見からは全くそのような雰囲気は感じられなかった。感じさせないようにしているのだろうな、と思う。きっと人となりを知れば興味深い人物なのだろうが、自分はその立場にはいない、というのがレンカ自身の考えだった。だから挨拶以外の話はしない、という法則を勝手に作って、それを貫き通していた。
 レンカの弁護士はやはり古くからアダムを知る人物で、小柄で気品のある女性だった。七十代も後半に差しかかった弁護士はこの日、「隠居を考えはじめた」と別れ際に切り出したのだった。
「いつまでも外見が変わらないからな、あの人は。年齢のことをすっかり忘れていたが、とっくに隠居生活に入ってもおかしくない歳になってたんだよな。ことあるごとにプラハに呼び出していたのも悪かったよなあ」
アダムは前方を見つめたままつぶやくように言った。レンカは運転席のほうへ少し首を回すと
「誰か引き継ぐ人、いるかしら。先生に若い人を紹介してもらったとしても、私たちみたいなのが相手だと身が持たないかもしれないわね」
と返した。アダムは何か考え事を始めたかのように返事をしないので、レンカは言葉を重ねた。
「誰かアダムの協力者の人たちでいないの、弁護士の人。あの人たちって、本職はいろいろなんでしょ?」
「あのな、情報屋がなぜ情報屋のままであり続けるのか考えたことあるか。俺たちに関わり始めた理由はそれぞれ違う。昔の部下だったり助けてやった人間だったり様々だ。お互いに信頼関係にあるのも事実だが、それなりに支払っている。今の協力関係以上に関わりたいと思っているなら、とっくの昔に名乗りを上げているはずだ。なぜそれをしないのかって言うと、今くらいの俺たちとの距離感が居心地がいいということに尽きる」
そこまで言うとアダムは車線変更をした。
「休憩だ。昼飯にするぞ。随分と遅くなったがな。エミルからは特別何も報告はないか」
アダムに言われて初めて、レンカはブルノを出てから電話を手に取っていないことに気がついた。確認してみると、エミルからはSMSが一通来ているのみだった。
「ペーテルとお昼食べに行くって。その後、駅まで送っていくみたい」
「なんだ、小僧が来てるのか。あまりエミルの邪魔をしないように言っとけよ」
そう言ってD1からイフラヴァへの出口となっている右へ緩やかにカーブした車道へハンドルを切ったアダムをレンカは横目で見た。ペーテルにはいつも不機嫌な態度しか取らないのに、会えないとなると少し寂しそうだな、と思った。それは自分も同じか、と思いながらレンカは視線を前方へ戻した。車道の両側に広がる芝生と植木の初夏の緑がまぶしかった。

 入ろうと思えばどんな店にでも入れる。黙って気配を消していればいいだけだ。しかし余計な神経を使わずに休めるところがあるのならそれに越したことはない。この日もアダムが選んだのはイフラヴァの中心街から離れた住宅地にある彼の協力者が経営するレストランだった。その協力者の祖父の代から続くという店は手入れが行き届いていて古さを感じさせなかった。アダムとレンカが中へ入ると、カウンターの近くに立って馴染みの客と世間話をしていたオーナーがニヤっと笑って、二人のために取っておいたテーブルを目で指し示した。他のテーブルとは一定の間隔をおいてある窓際の席だった。
 二人が席に着くと若いウェイトレスが手際よくメニューを持って来て飲み物の注文だけ取ると、素早く立ち去った。
 メニューを見ながら
「何か食いたいもんあるか」
と聞くアダムに、レンカは
「自分の分だけ頼んでよ。私、そこから付け合わせだけもらうから」
とそっけなく言った。アダムは目だけ動かしてレンカのほうを見た。
「俺に一人前食べさせないつもりか」
「じゃ、ちょっと多めに盛ってもらえばいいじゃない。私を食事に連れて行けばこうなることくらい分かってるでしょ。何か食べようとしてるだけでもマシだと思ってよ」
 アダムが「駄目だ」と言えばいいのだ。一言、「それじゃあ駄目だ」と言ってくれれば、自分もわがままを言うのをやめるようになるのではないか、とレンカは思う。こんな風にアダムに甘えきって子供っぽいことを続けている自分が時々嫌になる。ただ、自分のこういう部分を残しておくから、自分を敵だと見做す外部の人間に対して、強い態度でいられるのだという気もする。少し複雑な気分になりながらレンカはアダムを見つめた。そして暫くして、吹き出した。
「何がおかしい?」
「私、あなたほどスーツが似合わない人、他に知らないわ」
「こういうものに似合うとか似合わないとかがあるのか。これでもオーダーメイドなんだぞ。既製品だと俺の肩が入るのがない」
「どうせ一年に一回、この会議の時くらいにしか着ないから、似合ってたら逆にもったいないかもね」
「似合うかどうかは別として、お前も走りにくい格好はあんまりするなよ、逃げ遅れたらどうする」
 レンカは動きを止めて、口を半開きにしたままアダムを見つめた。アダムは小さくため息をついた。
「劇場の舞台鑑賞っていうのは、そこまで無駄に洒落込んだ格好をしなきゃいけないもんなのか」
「……何の話?」
「俺だって四六時中お前を監視させているわけじゃない。せめてプラハ市内だけは充分すぎるくらいの安全性は保っておきたいと思っているだけだ。お前は行きたいところに行きたいときに行けばいい。ただな、お前には俺を安心させる義務があるってことも忘れるんじゃないぞ」
 アダムのこの落ち着き方でいくと、五月にオペラ座の中で何が起きたのかはばれていないのだな、と思いながらレンカは目をそらした。ちょうどウェイトレスが飲み物をトレイに乗せて、食事の注文を取りに来た。
 注文を聞いたウェイトレスが二人のテーブルを離れると、アダムは再び話しだした。
「出発は明日の夕方にする。リュブリャーナまでは車で7時間くらい見ておけばいいだろう。夜中に向こうに入るくらいでちょうどいい」
「どこを狙えばいいのか目星はついてるの?」
「ティーナの情報屋が揃えた資料でまず行けるだろう。エミルが整頓しておいたのを見せてもらっておけよ」
 アダムがグラーツでティーナから預かった茶封筒の中には、リュブリャーナの滞在先の鍵の他には情報収集者による数枚の覚え書きとUSBメモリが一つ入っているだけだった。USBメモリの保存内容は例のごとく故意に破壊されており、エミルぐらいのレベルの技術者でない限りデータを本来の姿で引き出せないようになっていた。
 レンカは弾薬庫の一件の後、痛みに耐えながら自身の仕事の処理に追われ、並行して医者にも通わなければならなかったため、ティーナから来た資料に目を通す時間は全く取れなかった。しかも昨日はカーロイとたった一時間ほどの散歩を楽しむためだけにドレスデンまで行っていたのだ。しかしそれを無駄とは言わない、とレンカは自分自身に言い聞かせた。それがなければ、自分の心は遅かれ早かれ枯渇してしまう。
「それで、物を手に入れる手段は?」
「何でもいいが、相手によって出方を変える。お前が直接交渉に出向くべき相手も、だいたい決めてある。金で物を引き渡すような相手なら金で解決する」
「上限は?」
「ない、らしい」
 ベオグラードでアーカイブから盗み出されたという戦争犯罪の証拠物は、まだ内容も明らかになっていないというのに、そこまで価値を見出されているものなのか、とレンカは改めて驚いた。
「俺たちも長くプラハを留守にするわけにはいかんからな、長くても二週間で方を付けたい。途中で俺かエミルのどちらかが帰る、という選択肢もないことはないが」
「さっさと片付けて皆で帰りましょうよ。きれいなところみたいだけど、私にはいろいろ問題の多そうな街だわ」
 アダムはすぐには返事をせず、何か考えているようだったが、ふと思い出したような顔をして再び話し始めた。
「ティーナは未だに怒ってるみたいだぞ。お前の結婚のことを、俺とカーロイがお前を"処分した"という言い方をしている」
「ティーナはロマンティストだから。勝手に私のこともそうだと思ってるのよ。あの人、元軍人なのに」
「それ、何か関係あるのか?」
アダムの問いに、レンカは一瞬の間をおいて
「元軍人だから、かな、もしかすると」
と言って笑った。
 アダムは、カーロイと会った後のレンカは普段よりよく笑うし楽しそうだなと思ったが、口には出さなかった。
「さっさと食って、事務所に戻るか。エミルもペーテルの子守りで疲れているだろう。順調に走れば、まだ今日中に何か片付けられるかもしれんしな」
そうアダムが言うと、タイミングを見計らったかのようにウェイトレスが注文の料理を運んできた。


その名はカフカ Kontrapunkt 4へ続く


『Kavko zlatá, nechoď tam, kam nechceš』 DFD 21 x 29,7 cm、色鉛筆



【追記 カタカナ表記について】

今回登場した街、イフラヴァですが、チェコ語表記だと「Jihlava」となります。「J」は日本語のヤ行の子音(正しくは半母音ですが)に該当しますので、「Ji」はヤ行のイ段となります。そこで考えたのですよ、「ユィフラヴァ」とか?「イィフラヴァ」とか?どう表記するのか。しかしですね、チェコ人のポピュラーな男性名「Jiří」は普段から「イジー」って表記して平気な顔で日本語の授業で書かせたりしているではないか、と思い至り、「イフラヴァ」の表記に落ち着きました。

カタカナ表記の話でもう一つ付け加えておきたいのですが。
私、基本的にヨーロッパ言語の「B」はバ行で、「V」はヴ行(と言っていいのか…)で書き表したいのですが、2019年に正式に「外国名は「ヴ」を使わず、BもVもバ行で統一」とされたんですよね?

そこでぬぐえぬ違和感を無視して、国名だけは「スロニア」「スロキア」と表記して、他の都市名・個人名はBはバ行で、Vはヴを使うという法則で今まで書き進めてきました。

しかしですよ、『その名はカフカ Kontrapunkt 1』を書きながら耐えられなくなってしまって。
スロベニア、と書いたすぐ後マヴリッチ、ヴク、と書いていく。私の中で「納得いきませーん」と叫んでいるもう一人の自分がいる。

そこで、小説の中だけではこの二つの国名もスロヴェニア、スロヴァキア、の表記に統一することにしました(ということで、ここまで書いてきたカフカシリーズ、すべて表記を書き直しましたが、見落としがあるかもしれません。)

その他の記事では"正しい日本語"を書くため、バ行で我慢することにいたします。

確かに私も「ヴィエトナム」より断然「ベトナム」優先したいしなぁ。
うーん、複雑。


豆氏のスイーツ探求の旅費に当てます。