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その名はカフカ Kontrapunkt 2

その名はカフカ Kontrapunkt 1


2014年6月プラハ

 以前はプラハではさして暑くなることもなく過ごしやすい季節だと認識されていた六月も、ここ数年は最高気温の記録も上がってきて、今年は早くも猛暑が予測されていた。それでも六月が始まったこの日はまだ涼やかだった。そんな日の午前中だったが、エミルは事務所の受付に座って、約半年ぶりに訪ねてきた厚化粧の女を前に、なんて暑苦しいのだろうと呆然としていた。女はあんなに冷え込んでいた十一月には極限まで短くしたミニスカートを穿いていたのに、今日はタイトなロングスカート姿だ。その服装も暑苦しいが、やはりこの厚化粧が暑さの一番の原因だな、とエミルは分析した。
 女は不機嫌であるということを隠そうともせず、腰に手を当て、その姿からはまず想像できない、限りなくバリトンに近いテノールでわめきだした。
「大学生の夏休みは忙しいんだ、学校でも無理を言ってすべての教科の試験を五月に繰り上げてもらって、自由の身になってはるばるやって来たって言うのに、明日からは別の予定があるって言うのに、なんでおばちゃんはいないんだ」
「ペーテル君、落ち着きなさい。泣いても叫んでも、レニは出てこない。今日はブルノに行っている。とりあえず座ったらどうだい?」
 どうやら今回はレンカの甥っ子が女装してるのだという事実を隠すつもりはない様子のペーテルは、エミルの言葉に従い来客用の椅子の一脚を受付カウンターのほうへ引き寄せると乱暴に腰を下ろした。厚化粧の顔が目の前に迫って来て、ますます暑苦しいな、とエミルは自身の椅子を少し後ろへずらした。
 ペーテルはエミルを軽く睨みつけて、乱暴な口調で話し始めた。
「全くなんて運が悪いんだ、よりにもよって秘書君しかいないとはね」
「ペーテル君、君はよっぽど僕のことが嫌いなんだね。僕にはエミルという名前がある。何を好き好んで僕を役職名で呼ぶのかな?」
 エミルの言葉にペーテルは良くぞ聞いてくれたとばかりに身を乗り出した。
「そうなんだ、僕は君が嫌いなんだ。天才的に何でもこなす君を好きになれるわけがないだろう。癪に障るね。父さんも君のことを褒めていた」
 へえ、ペーテル君のお父さんが評価してくれているのか、と思いながらエミルは
「僕には君のような言語習得能力はない。君のほうが僕よりずっと優れているように見えるけどね」
と返した。ペーテルはエミルの言葉につまらなさそうに応じた。
「別に特別なことなんかじゃない。言語は慣れだ」
「今、いくつぐらいの言語が話せるの?」
「数えたことはないし、数えてもあまり意味はない。方言くらいの違いで分類上は違う言語っていうのも、かなりできるからね。小さいときにチェコ語を習得したおかげで勉強しやすかったからスラヴ語全般は網羅している。もちろん全ての言語を訛らず出身を隠したまま話せるようにはしている。ハンガリー語訛りなんて、大して知られてはいないだろうけど。ゲルマン語は今のところ英語とドイツ語だけ、あとロマンス語でいくと…」
そこまで話すと言葉を切り、ペーテルはエミルを改めて睨みつけ
「僕のことはいいんだ。そんなことより、君がいかに僕にとって気に食わない存在なのか教えてあげたい。せっかく来たのに、からかい甲斐のある人たちも今日はいないことだしね」
と言った。ペーテルの言う「からかい甲斐のある人たち」というのはレンカとアダムのことだ。二人ともペーテルを相手によく半分本気で怒っている。
 エミルは大きくため息をついて椅子の背もたれに身を任せた。
「じゃあ聞かせてくれたまえ、僕の何がいけないんだい?」
「君がおばちゃんに採用された時、君は今の僕と同じくらいの歳だった。そして君はありとあらゆる企業秘密を教えてもらったんだろう。それに比べて僕はどうだ。何も教えられないまま、おばちゃんの個人的な失態の後始末にしか使ってもらっていない。どう考えても不公平だ」
「レニが君にバイトをさせているのは、君が勝手に押しかけて来たからだろう?」
エミルの言葉に、ペーテルは「黙らっしゃい」とでも言うように目を見開いてエミルを見据えた。ぶ厚いマスカラの乗った睫毛で風を起こしそうである。
 実際、レンカがペーテルにお使いを頼むようになったのは、四年ほど前、当時高校生だったペーテルが事務所の入っている建物の前で張り込んでいたことに始まる。この時とばかりは、住所を知っているはずのない甥を事務所の前で発見して、レンカも動揺していた。「何か面白いことをさせてくれないと家には帰らない」というペーテルに、レンカは悩んだ末、個人的な所用を頼むことにした。カーロイとも相談した上で、ペーテルには極力「裏の事情」は説明しないですむように気を使っていた。「知らなければよかった」、「知らないままなら安全だった」、という事例は世の中にたくさんある。レンカの棲息している領域はその最たる世界だ。エミルは、きっとペーテルの神経を逆なでするであろう「知らされていない、というのは君を守る意味もあるんだよ」という言葉をかろうじて飲み込んだ。
 ペーテルは再び口を開くと
「おばちゃんは、どうやって君を発掘したんだ?おばちゃんから声をかけたんだろう?」
と聞いた。
「それが、よく分からないんだ。後で聞きもしなかったしね。僕は高校生の時から独学でプログラミングを勉強していた。それからネットの世界ではちょっとばかり有名なゲーマーだったんだ。もちろん偽名でやってたから、安全だと思ってたんだけどね」
 一般人が利用するオンラインゲームアカウントのセキュリティの裏に不正に侵入できたりする人たちには、身元をしっかり暴露していたんだろうなあ、と今になって思う。しかしそういった方法でレンカがエミルを発見したとして、どうして彼女が欲しいと思ったのがエミルだったのかは、具体的に説明されないままだった。
 大学二年の学年度が始まったばかりの十月のことだった。エミルが帰宅しようと学校から出て百メートルほど歩いたところで、声をかけられた。相手は何だか物悲しそうな表情の若い女性で、エミルに「あなたの才能を活かせるような仕事を提供できる気がするから明日面接に来て欲しい」と言いながら面接場所の住所を書いた紙切れを渡してきた。今のエミルだったら、まず言葉を濁した上で相手の身元を徹底的に調べ尽くして、その後の相手の出方を窺うのだろう。しかし、その頃のエミルにとっては「効率よく稼げる職を在学中に手にしておくこと」が最優先事項で、向こうが自分の才能に目を付けて声をかけてきたという事実にも気をよくして、翌日指定の場所に出向いたのだった。
 エミルが面接に行ってみると、かの物悲しそうな女性は一人ではなく、彼女の後ろに、厳つい顔でがっしりとした体格の中年男性が控えていた。そして仕事の概要を説明された後、もう自分にはこの仕事を選ぶ以外に選択肢は残されていないのだと思い知った。彼らの活動内容の片鱗を聞かされただけでも、「これで逃げたら、ただじゃすまされない」世界だと理解できたが、それ以前に、その女性から言葉では説明しがたい、「この人を支えていきたい」と思わされる何かを感じ取ってしまっていた。
 その面接の際に、エミルは「あなたは僕を秘書として雇いたいと言う。ではそちらの方はあなたの会社でどのような役職なのですか」と、背後に控える男性を見て尋ねた。男性はボディガードと言ってしまうには存在感がありすぎたし、目の前の二人を冷静に「どちらが上司か」という目で見たら、どう考えても男性のほうが立場が上だったからだ。エミルの質問に、二人は顔を見合わせ、今まで考えてもみなかった、と目で言い合っているように見えた。そして男性のほうがエミルのほうに向きなおってニヤリと笑い「俺はこの姉さんの助手だということにしておこう。あんたの上司は、あくまでこの姉さんだ。俺たちは同僚だな。どうだ、力になってくれるか」と言った。
 そうして、エミルはレンカとアダムのもとで働き始めた。アダムが必要とあらば「自分は社長の助手である」と悪びれずに公言するようになったのも、この時からだった。
 エミルは回想と共に一瞬宙に浮いた視線をペーテルのほうへ戻して、再び話し始めた。
「君は僕のことを天才的だと言ってくれるけど、僕ができることは努力して身につけた、後天的なものが多い。レニのところで働き始めてからできるようになったことも、たくさんある。例えばレニが仕事で使う外国語とか、レニが望んだから始めた射撃とかね。良すぎる視力とか聴力とか、身体的に生まれ持ったものも手伝ってはいるかもしれないけど、本物の天才っていうのはこんなもんじゃない」
 穏やかに、まるで自分自身に言い聞かせるように話すエミルに感化されたのか、ペーテルも先ほどまでの興奮状態は急にどこかへ行ってしまった様子で静かに言葉を返した。
「じゃ、本物の天才って、どんなんなの?」
「天才はほとんどの場合が狂人と紙一重なんだ」
「そういう人、知ってるの?」
「僕の妹」
エミルの返事にペーテルは訝しげな顔をした。
「何に関して天才なわけ?」
「彼女は驚異的なハッカーだ」
「なんだそれ、犯罪者じゃないか。今、いくつ?」
「十八。目を離すと本当に犯罪を犯しかねない。僕は彼女の才能を先天的なものだと見ている」
 エミルの両親は十年ほど前に失踪していた。以来、妹と祖母と三人で暮らしている。もしかするとレンカがエミルを選んだ理由の一つに、この家庭環境があるのかもしれないな、とも思う。きっと似たようなIT技術者候補なんて、他にもたくさんいたのだ。危険に晒すかもしれない家族は、小さければ小さいほどいい。そしてエミルには、彼の選択に反対する大人の存在が皆無だった。
「じゃ、おばちゃんも、天才なのかな」
ぼそっとつぶやいたペーテルに今度はエミルが訝しげに眉をひそめた。
「どうしてそう思うんだい?」
「たまにやることが狂ってるじゃないか。僕、今日おばちゃんがブルノに何しに行ってるのか、だいたい分かってる」
エミルは返事をせず、「一体どこまで知っているのだろう」と探るような目でペーテルを見守っている。
「おばちゃんが結婚したらしいって感づいた八年前、僕はまだ子どもだった。でも、何かがおかしいって、分かるじゃないか。小さい頃あんなに一緒に遊んでくれたおばちゃんが結婚したっていうのに、親は何も言わない、おばちゃんも相手を連れてうちに来るとか、親戚付き合いみたいなのは何も始まらない。だから、高校に入ったくらいの時に自分で頑張って調べてみた」
そこでペーテルは言葉を切ったが、エミルは何も言わなかった。ペーテルはため息を一つついて、話し続けた。
「そしたら何?相手はおばちゃんより二十九歳も年上のブルノの大病院の病院長で、闇の権力者みたいな男じゃないか。そいつ、変態なの?」
「ペーテル君、それは偏見だ。歳の差があまりにも大きい二人の間には真実の愛は生まれないという思い込みであり、世間からの刷り込みでもある。言葉に気を付けたほうがいい」
そう返してみたものの、エミルはペーテルの刺すような視線に耐えられなくなり
「それに、あの二人には、そういう関係・・・・・・は一切ないと聞いている」
と言った。言ってしまってから後悔したが、他に何ができたというのだろう、どう見てもペーテルは叔母の奇妙な婚姻関係に傷ついている、とエミルは心の中で誰に対するというのでもなく言い訳をした。
 エミルがレンカに雇われた時、レンカはすでに結婚していた。しかし、アダムに「どのような事情でレンカは既婚者であるのか」を聞かされた時、少なからず異様な状況だと感じたのも事実だった。
 レンカがアダムと二人で仕事を始めた最初の四年間ほどは、完全に姿を消し去った、スパイのような活動だったと言う。その間にも、アダムとカーロイはレンカができうる限り制限がなく、かつ安全が保障された条件下で仕事ができる環境を探っていた。そこで行き着いたのが、病院長の親族になることだった。
 病院長はアダムの父を恩師であり命の恩人であると仰ぐ人物で、病院長が共産政権時代に亡命できたのも、ひとえにアダムの父のおかげであると言い、恩を忘れていないと言う。恩師亡き今、病院長は何らかの形で恩師の息子であるアダムの役に立ちたいと常々アダムに伝えていたらしい。そこでアダムは初めて病院長を頼ることにした。
 レンカを病院長の親族にする、と言ってもいくつかのパターンが検討された。愛妻家で知られた病院長は、亡くなった妻以上の人物は自分の人生に現れないと固く信じていて、再婚はしていなかった。それでもレンカとの歳の差を考慮して、まずはレンカと歳の近い息子たちの一人と結婚させてはどうかという案が浮かび上がったが、その息子が自身の意中の人と結婚したくなった場合どうするのか、という至極全うな懸念から瞬時に立ち消えた。では、レンカを病院長の養女として迎え入れてもらえば良いのではないか、というのが次の案だったが、それでは今も健在のレンカの実父にどう納得してもらえばいいのか、という問題があり実現させられなかった。
 どうあれ、病院長の配偶者というのが一番理想的なポジションだったことには変わりはない、とアダムはエミルに言った。まるで「病院長の配偶者」という役職名があるかのような話し方だな、と当時のエミルは思ったが、アダムにしてもレンカにしても、レンカの置かれた立場を「地位」としてしか見做していないかのようだった。病院長とレンカは二人きりで会ったこともなければ、交わしたことのある言葉は挨拶程度だと言う。
 何にしても、エミルが一番驚かされたのは、レンカがその「より安全かつ優位に活動するため権威ある人物の配偶者になる」という案を問題なく受け入れた、という点だった。彼女にとっては法によって定められた婚姻制度も、仕事に利用するための手段としてしか存在していないのだという事実が、レンカをますます謎めいた人物に見せたが、エミルがレンカの人となりを知るにつれて、自然と納得がいくようになった。今は「レニらしいな」としか思わない。
 しばし自らの思考に囚われていたエミルは、厚く口紅が塗りたくられた唇を思わず触って指先を汚したペーテルの「ちっ」という舌打ちで我に返った。
「ペーテル君、そんなに煩わしいのなら、顔を洗ってきてもいいんだよ。この事務所には洗面台もあれば、シャワー室もある。僕はその厚化粧より、君の素の顔のほうが好きだな」
と言うエミルに、ペーテルは不敵な笑みを浮かべて
「へえ、そうなんだ。申し訳ないけど、僕は君のような童顔の年上の男には興味がない」
と返した。
 エミルはペーテルがやっと見せた笑顔に安堵して
「それは良かった」
と笑いながら言った。


その名はカフカ Kontrapunkt 3へ続く


『Snažím se na tebe koukat ve skutečné podobě』 水彩用紙 20 x 28 cm、水彩色鉛筆、水彩
レンカの次にエミルをよく描いている気がします。もう少し平等に他のキャラも描いていきたい…



【補足】
ペーテルが「チェコ語を習得した」点について、「母親がチェコ人なんだから当然なんじゃないの」という意見の方もいるかと思われますので、余計かもしれませんが、ちょっと私なりの補足をしておきたいと思います。

ペーテルは父親がハンガリー人でハンガリーに住んでいるので、母語、もしくは第一言語はハンガリー語となります。母親は母語をチェコ語とするチェコ人なので、ペーテルにとってチェコ語は「継承語」となります。周囲の様々な事例を見ても、継承語を保つのは全く簡単ではありません。どんなに幼いころから両親が努力しても、どちらかの言語が優勢になることが多いようです。特に、聞く話すだけでなく、読み書きまで両言語とも完璧、というのはかなり難しいと思われます。
身近な例をあげると、チェコ人と日本人の間に生まれ、チェコに住んでいる子どもに日本人の親のほうが日本語を習得させようと日本語で話しかけても、子どものほうは意味は理解できても日本語で話すのが面倒くさく、返事をチェコ語で返す、といったことが起きたりしています。
そして両親の母語がそれぞれ違う、もしくはそれ以外の理由で、幼いころから二つ(もしくはそれ以上)の言語を習得させようと試みると、その子の言語を使った深い思考をするという能力が充分に発達しない可能性もあるとも言われます。
継承語を保つ難しさは何も両親が複数の母語を持つ場合だけではなく、家族全員が母語を同じくしているのにもかかわらず、子どもが幼いうちに外国(母語が第一言語として話されていない国)へ移住した場合にも発生します。

で、ここで主に何が言いたかったのかと言うと、ペーテルの言語習得能力は私の妄想が作り出した理想像なので、こんなに優秀なのですよ、ということでした。

…今回、本編だけで6000字超えてます。長文失礼いたしました。


豆氏のスイーツ探求の旅費に当てます。