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その名はカフカ Preludium 14

その名はカフカ Preludium 13


2014年5月ドレスデン

 例年よりもずっと高い気温を記録した日もあった一カ月だったが、その五月も終わろうというこの日は過ごしやすく、午前中のエルベ川のほとりはまだ涼しいくらいだった。ブリュールのテラスで散歩を楽しむ人々を眺めながら、レンカはベンチに座ってカーロイを待っていた。
 来月は事務所ごと出張だと言った後、アダムは「一日休みをやるから、息抜きして来い。何でも好きなことをしろ」と笑いながらレンカに言った。勝手な行動をとったばかりの私に好きなことをしろとは嫌味もいいところだわ、と返したレンカが思いついたのは、カーロイに会うことだった。
 五月末に自身の事業のほうの商談でドレスデンに行く予定だと言うカーロイに合わせて、この日レンカは朝一番の列車でドレスデンに着いた。レンカの単独行動が良しとされていないのは仕事においてだけで、私生活ではほとんど一人で動いていた。アダムと二人で仕事を始めたころ、レンカはアダムに「自分も護身術を習うなり武装するなり、自分の身を守る術を身につけたほうがいいのではないか」と聞いたことがある。そんなレンカをアダムは鼻で笑って「中途半端にそんなものを使えるようになるより逃げ足を鍛えろ。それから自分のテリトリー外の土地に入った時に、自分の正体を匂わせる気配を決定的に消せるように訓練することだ」と言った。
 アダムの言ったことを真面目に実践したレンカは十代の頃よりも足が速くなったし、尾行を瞬時に撒くことも簡単にできるようになった。そして、味方がいないと分かっている街では自分が裏社会に属する人間だという匂いをどんな玄人にも感づかれないくらい消せるようになった。
 ドレスデンにはアダムやカーロイが置いている協力者もいるはずだし、自分の名前も効力はあるはずだけれど、プライベートで来ているのだから大人しくしているに越したことはない、と思ったところで、レンカは彼女に向かって歩いてくるカーロイに気がついた。
 カーロイはレンカにとってオアシスだった。アダムはレンカにとって掛け替えのない存在だが、二人でいるとどうしても砂漠でサバイバルゲームに挑んでいるような気分になってくる。ではその砂漠で、エミルは私にとって何なのだろう?バックパックの中の七つ道具かな、と思いながらレンカは立ち上がり、カーロイに向かって歩き出した。
 カーロイはレンカの傍まで来ると彼女を抱擁し
「レンカ、よく来たね。待たせたかな?珍しく電車は予定通り着いたようだね」
と言った。いつも通りの優雅な話し方だった。
「そう、珍しく遅れは出なかったわ」
とレンカは笑って答えた。そしてカーロイが軽く左腕を差し出しそれにレンカが手を回すと、二人は並んでエルベ川沿いをゆっくり歩きだした。
「今日は散歩くらいしか一緒にできなくて申し訳ないね。会いたければいつでもブダペストに来てくれていいんだよ。この数年、君は本当にこちらには顔を出さなくなったね」
と言うカーロイにレンカは
「ブダペストには姉さんがいるじゃない。だから行きたくないの」
とそっけなく言った。レンカの返事にカーロイは楽しそうな、しかし少し呆れたような顔を作った。
「サンドラは君のことを今も変わらず可愛い妹だと思っているみたいだけどね」
「私は生まれた時からずっと姉さんに対しては反抗期なの。しかもあの人、世界で最高の地位を手に入れたじゃない。妬ましくてしょうがないわ」
レンカの返事にカーロイは声を立てて笑い出した。
「君は私の奥さんになりたいのかい?世界にはもっと良いものがたくさんあるよ。君が本気で言っているとは思わないけれど」
「少なくとも私が初めてあなたに会った時は半分くらい本気でそう望んでいたわ」
 姉のサンドラがカーロイをボーイフレンドだと言って初めて家に連れて来たとき、レンカはまだ11歳だった。語学が苦手な姉がまさか外国人を連れて来るなんて思ってもみなかったし、同じ元共産圏の出身とは言え、カーロイの運んできた空気は当時のレンカにとって、あまりにも洒落込んでいた。その上、職業は警察官だと言う。まだ子供のレンカとも対等に接していてくれている気がして、レンカはその16歳年上のハンガリー人に瞬く間に夢中になった。と同時に、姉がこの人を再び家に連れて来ることは二度とないだろうとも思った。この二人では、あまりにも不釣り合いだ。そんなレンカの思いを裏切って、その二年後に二人は結婚した。
 カーロイは微笑んだまま暫くレンカの表情を観察して、また口を開いた。
「反抗期と言えば、今回の君の一連の行動は、アダムに対する反抗期の表れなのかい?」
 レンカはすぐには返事をしなかった。そして前を向いたまま、おもむろに話し出した。
「わざとじゃないの。たぶん去年の秋くらいから、無意識のうちに少し自分だけで動きたくなっていたんだと思う」
「去年の秋?」
 レンカはまた返事をためらっているようだったが、慎重に言葉を選ぶように話し続けた。
「去年の11月に、昔初めてカーロイたちを手伝った頃に会ってた組織の人がプラハに来たの。もちろん今さら会いたくなかったし、私を見つけ出す前に帰ってくれてよかったと思ってる。ただね、それからちょっと思い出すようになっちゃって。アダムに頼りきるようになる前の自分を」
 レンカは一旦言葉を切ったが、カーロイは何も言わなかった。レンカは前を見つめたまま言葉をつないだ。
「それで、今回は狙われているのは私だけみたいだって気がついて、それなら自分だけで処理しちゃってもいいんじゃないかと思ったの、たぶん」
 カーロイは笑って
「君にしては随分と煮え切らない言い方だね」
と返した。そしてレンカがカーロイのほうを見るのを待って再び口を開いた。
「君は頭のいい子だ。自分では成り行きでこの業界に残ってしまったと思っているかもしれないが、それは違う。私自身は今も一緒に仕事ができて嬉しく思っているんだよ。ただ、君に何かあった場合、アダム以上に責任を感じるのは私であると、分かっていて欲しいとも思っている」
レンカは何も言わずに、ただ申し訳なさそうに目を少しゆがめた。カーロイは再び微笑むと
「謝らなくていいんだ、君に苦手なことを強制しようと思っているんじゃないよ」
と優しく言った。
 二人は暫く黙って歩いた。そして再び口を開いたのは今度もカーロイだった。
「そういえば最近ペーテルがサンドラと派手に喧嘩をしてね、家を出て行った。今はブダペスト市内ではあるが、一人暮らしをしている」
「あの二人で、喧嘩になるの?どうせペーテルが一方的に騒いだだけなんでしょ」
「まあ、そうとも言えるが、サンドラも頑張って引き留めた」
カーロイは本当に愉快そうに笑う。
「年齢的には家を出てもおかしくないし、あの子、経済力あるでしょ。もう母親が口を出すことじゃないわ」
「私もそう思う。しかし、レンカは知っているだろう?サンドラは三人の子供の中で、やっぱりペーテルが一番かわいいんだ」
 ペーテルはカーロイとサンドラの子供たちの中でただ一人、完璧にチェコ語を習得した。カーロイもサンドラと付き合い始めて一年足らずでチェコ語が話せるようになったから、やはり父親譲りの才能なのだろう。あとの二人は母親の母語には興味を示さなかった。サンドラも既にハンガリーに住んで二十年以上が経つのに、未だに言葉には不自由している。意志の疎通が容易ではない下の二人より、自分の母語を自在に操るペーテルのほうにより強いつながりを期待してしまうのは、当然と言えば当然なのだろう。
 レンカはふと思い出したように
「心配しないで。私がペーテルに頼んでいるのは、私の個人的な用事ばかりだから。私たちの仕事に関わるようなことは何もさせてない」
と言った。カーロイは笑って答えた。
「分かっているよ。でも、これからどうしようか。あの子は私には何も聞いて来ないが、そうとう感づいているな」
「当り前じゃない、カーロイの子なんだから。私なんかより数千倍賢いわ」
「そして君の甥っ子でもある。実際、君たちはよく似ている」
カーロイの言葉にレンカは目を丸くした。
「何を言ってるの?あの子は腹が立つくらい明るいじゃない。私は見ての通り、陰気な人間だわ」
「あの子も君も、かなり演じているんだ、自分たちでは気がついていないようだがね。ペーテルは実際は君に見せているほど明るい子ではないし、君も実はそんなに陰気な人間ではない。そして二人とも私に対する態度がとてもよく似ている」
 レンカは自分の驚いた顔をカーロイから隠すかのようにエルベ川のほうを向いた。静かな水面が太陽の光を反射して、まぶしかった。顔を川のほうへ向けたまま、レンカは聞いた。
「まだ時間はあるの?」
「あと三十分くらいかな。私と別れた後はどうするんだい?」
 カーロイの問いに
「アルベルティヌムだけは寄っていきたいな。あとは長居せずに帰るわ。明日はまたブルノなの」
と答えながら、レンカはあと三十分、カーロイというオアシスを堪能するため、余計な考えを頭から追い出すことにした。
 カーロイはレンカの思いをくみ取ったかのように、先ほどまでの話題を続けることもなく、ただ微笑んでレンカの隣を歩き続けた。



その名はカフカ Preludium 〔了〕


その名はカフカ Kontrapunkt 1へ続く


『Un preludio per la nostra Kavka』 Bamboo (Hahnemühle) 21 x 26 cm、水彩



『その名はカフカ Preludium』全体の解説記事を書きました。よろしければご覧ください。


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