『君たちはどう生きるか』を読んで
小説、『君たちはどう生きるか』を読んだ。宮崎駿の作ったアニメ映画の方ではなく、1937年に出版された原作のほう。
現代でもこうした名が残っている作品。前から気になっており、宮崎駿のアニメ映画を視聴したことを契機に、とりあえず読んでみようと手を出してみた。
正直、説教臭い作品だろうなと思っていた。戦時下に入る直前の時代に出版という、そういう情勢込みで、評価が高くなり現代に残っている、「ありがたいお話」みたいな本かなと。
全然違った。普通に小説としても面白かったし、1つ1つのエピソードが含蓄がある、素晴らしい作品だった。絶対にこんなことは言いたくなかったけど、「子供に読ませたい本」としてエントリーしてしまった。子供たちにこれを読ませて「君たちはどう生きるか?」と問いかけたい、厄介なおじさんになってしまった。
1人の少年の成長譚としておもしろい
この物語は、「コペル君」と言われる15歳の少年の物語だ。物語の本筋としては、学校や家庭での出来事に対して、コペル君が感じたことを記述するのが中心になっている。
このコペル君が心動くエピソードが非常に感動できる。きっと子どものころ読んでも、純粋に小説として面白く読めたと思う。物語として成立している。
キャラが複数人いて、そのキャラたちが織りなすドラマがあって、それを経て主人公が成長する。これで面白くならないわけがない。また、コペル君が良い主人公なのだ。賢くて純粋で、いいヤツ。でも、単なるいいヤツで終わらないのが、名作たるゆえんなわけで。
ネタバレになるから、詳しくは書かないが、物語の終盤、コペル君は大きく落ち込む。強く精神的なショックを受け、それもあって体調を大きく崩して数週間は寝込むほど。
その落ち込む原因とは、誰かに強く非難されたりとか、傷つけられたとか、そういう外的なことが原因ではない。自分の情けなさ、人間としての醜さに強くショックを受ける。
本当に大事な場面に勇気が出ずに、「頭では分かっている正しい行為」が実行できない。そんな情けなさに、彼はショックを受ける。
夏目漱石の『こころ』はじめ、やぱり名作文学というのはこうした要素が絶対に出てくる。醜い自分との対話。それに直面したときの内省。こうした要素を描いた本がなくならないのは、みんな誰しもこういう経験をし、思い悩むからなのだろう。
『こころ』の先生や、今作品のコペル君みたいな劇的な体験なんかしたことない、感情移入ができない。そんな風に思う人もいるだろう。なんだか、悲劇のヒロインぶっていて嫌だな、と若い頃の自分も思ってしまったときもあった。
そんな人には、ぜひ今作品を読んでほしい。落ち込むコペル君に対して、お母さんがかけた言葉。彼女が編み物をしながら語るエピソードは、何でもない、どこにでもある話だ。でも、だからこそ感動する。人の心を動かすものがある。
彼女は「石段の話」として、過去のある出来事を語る。神社の石段を苦労して登っているおばあさんがいた。その荷物を持ってあげようとした。けれでも、上手く声をかけるタイミングがつかめず、おばあさんは一人で登りきってしまった。その気まずさを、お母さんはずっと覚えていると。
ただ、それだけだ。なんてことはない。現代風に言えば、電車でお年寄りに席を譲ろうとしたけど、タイミング悪く声をかけられなかった、それを後悔している、というだけである。
でも、お母さんはそれをずっと覚えている。後悔もしている。でも、嫌な思い出でもない、そう語る。
どんな些細な日常の、ありふれた出来事でも、そこから何を学ぶか。何を感じるか。些細な出来事だからこそ、物事の本質が現れており、その後悔を人生の糧にする。「学び」の本質が詰まった、非常に良いエピソードだと思う。
バッサリとカットして紹介したが、本当にこのシーンのお母さんの語り口、雰囲気、コペル君の心情、最高のシーンなので、ぜひとも読んでほしい。
こんな「叔父さん」になれるだろうか
コペル君の成長譚として魅力的な小説だが、この作品は大人が読んでも面白い理由がある。各エピソードの最後に、コペル君の叔父さんが、コペル君に語りかけるように書いたノートの文章が挿入される。これが、この本の魅力を大きく上げている。
コペル君を見て、ぼんやりと思う大人の感情を、叔父さんがすぐに代弁してくれるため、気持ちよさがすごい。「そうなんだよ、子供ってこうなってほしいし、こういう経験からこう学んで欲しいんだよな」という気持ちを即座に叔父さんがノートに書き記してくれる。落ち着いた大人の文章で、ゆっくりとコペル君を諭す叔父さんの文章に、ウンウンとうなずいてしまう。
また、叔父さんというポジションにいるのがコペル君に対して語るのが良い。これが父親とかだったら、説教臭さを若干感じてしまうような気もする。叔父という、近すぎず遠すぎずな立場の大人だからこそ、スッと受け入れられるのだろう。
私事だが、自分にも甥っ子がいる。まだまだ子供な年齢だが、そろそろコペル君の年に近づいてはきている。果たして、自分はコペル君の叔父さんのような、素敵なアドバイスを甥っ子にできるだろうか。全く自信がない。
人生経験をもう少し積み重ねれば、ということでもないだろう。コペル君にお母さんが話をしたように、本当に大事なことは、人生で経験したこと自体ではなく、そこから何を学び、どう考えたか、ということだから。お母さんの石段の話のように、学び、それを活かす機会は日常にあふれている。
そうした日常から学びを得た人たちのことばだから、説教臭くないし、コペル君や自分にも届くような、まっすぐで良い言葉になっているのだろうなとも思う。自分も彼らを見習い、考え続けなければいけない。
少し説教臭い終わり方になってしまった。こういうことを書いてしまうと、嫌だなぁと思って読むのを避ける人がいるかと思うので、これくらいにしておく。
自分は書き方が下手クソだから、どうしても説教臭くなってしまうけども、小説自体はもっと素直に楽しめる物語。ぜひとも、気軽に読んでみてほしい。
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