見出し画像

audibleが「自分語り」にしか聞こえない…

audibleの無料体験期間中なのだが、どうにも聞く気がおきない。シャワーを浴びる時とか、移動中に聞くために登録しているのだが、いつものYoutube動画を聞いたり、音楽を聞いたりしてしまう。

コンテンツの内容以前に、ある感想が頭に浮かんで、どうしても集中できないのだ。一生懸命喋ってくれているナレーションさんに申し訳ないと思いながらも
「こいつずっと自分語りしてて鬱陶しいなぁ…」
ということばがどうしても脳内を占めてくる。


何を当たり前のことに違和感を持っているのだろうと自分でも思う。ありとらゆる本なんて、言ってしまえば筆者の「自分語り」といえる。例えそれが世に判明している知識を語る内容にしても、それを一冊の本にしてまとめて、世間に発信しているのは筆者なのだから。

しかし、不思議なことにこんな感想を抱くのはaudibleのときだけ。普通に文字媒体で本を読んだり、Youtubeで喋っている配信者の音声を聞いている時ですら、そんなことを思うことはない。もちろん、内容自体に色々と不満を持つこともあるが、そもそも前提として聞く気にならない、というのは滅多にない。


読書は自分の内部の筆者との対話

その理由を考えてみた。本を文字で読むといっても、当然音読をしているわけではない。読書という行為は、筆者が書いた文字を解釈し自分のことばとして再構築する。この「自分のことばとして」というのが大事な気がする。

何も常に意味を自分なりに変換しているわけではない。そのままの意味で捉える時も多いだろう。例えば、「読む」という単語が文中に出たとき、これはひねりのない「読む」という意味だな、と自分の中で解釈し、自分が自分に語りかけているのだ。他人ではなく、自分が発話している主体となる。

なんだか超絶分かりづらいので、もう少し具体例をだそう。ありとあらゆる書籍の中で、「自分語り度」が高いジャンルの1つ、エッセイ。自分はお笑い芸人の若林が書いたエッセイを現在読んでいる。

たしかに、この本で書いてあるのは若林の「自分語り」だ。当然、読んでいる時に、現実の若林が自分に向かって音声で喋りかけてくることはない。自分の中で文字を読んでいるとき、自分の頭の中で若林が喋っている。きっとこんなトーンで、こんなスピードで喋るんだろうなと想像しながら。たとえ若林だったとしても、その若林はもはや自分が生み出した腹話術の人形に近く、決して他者ではない。

だから、すっと聞ける。あとは、自分のなかの喋る若林の内容に共感さえできれば、自分の中にまさに文字通り「心の友」ができあがるわけだ。

きっと、今おもしろいと思っているエッセイも、その作者が一言一句そのまま本の内容を語りあげてきたら、「うっせー」と思ってしまうだろう。実際、エッセイの若林の文章と実際の若林の喋りは、少し違うし。


誰かに音で聞かせるためのことば

一方でYoutubeはどうか。自分が聞いている動画を改めて視てみると、誰かと誰かが対話している内容が多い。きちんと「誰かに向けてしゃべっている」日本語で音声が作られている。当然なのだが。

究極的に言うと、一人で喋るタイプのYoutuberでも、これをしっかりと行えている人の動画を自分は聞いているのだろう。ことばのつなぎ方とか、テンポとか。どんなに理路整然と喋ってるようにみえても、ある程度不完全な「はなしことば」で彼らは喋っている。むしろ、聞き手のことを意識し、わかりやすく喋ろうとすればするほど、書きことばとは乖離した、一種の不完全なことば使いになっているのかもしれない。


書きことばを音声で聞くこと

一方で、audibleでは、完全な「書きことば」をそのまま読み上げているわけで。どんなにプロのナレーションが工夫を凝らそうとも、その成り立ちが違う以上、違和感は多少出てくる。そして、自分にとってのその違和感の感じ方が、「一人語りを聞かされている感じ」になってしまっているのだ。

正直、書きことばと話しことばなんて、そんなに違わないと思っていた。むしろ、整えられた書きことばを音読するというのが、理想的な音声コンテンツの作り方だと思っていた。

しかし、こうも違和感が出てくるとは。素人が試行錯誤しながら喋ることばのほうが、プロが書いた文章を、プロが読み上げた音声よりも耳で聞く分には魅力的だったのだ。


改めて、ことばの繊細さに驚く。1つ1つのしゃべることば、書くことば。その全てに、意識的にせよ無意識的にせよ、相応しいことばが使われているのだと感じた。これを学べただけでも、audibleを聞いてみて良かったなと思う。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?