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なぜ電車だと読書に没頭できるのか

帰省していた岡山から、東京に帰ってきた。いつもなら飛行機や新幹線で帰るのだが、今年は鈍行列車での帰省に挑戦してみた。

ずっと前から憧れていたのだ。長時間の列車、ガラガラの車内で文庫本を読みながら、ふらりと思い立った駅で降りてみて、新たな出会いを求めて自由気ままにさまよう。そんな旅に憧れがあった。

今回は仕事もあるので、1泊2日で寄り道はほぼ無しの旅だったけども、それでも初体験でなかなかに面白い旅だった。宿泊に浜松で1泊、観光目的で掛川に途中下車もしたものの、ほかは2日間ずっと移動していた。電車での移動時間はゆうに12時間。


この12時間、何をしていたかというと、読書をしていた。途中ウトウトしてしまった時間も多少あったが、かなりの時間スマホを見ずに読書できていたと思う。ホテルでも読書しようと思っていたのだが、普通にYoutubeやネットサーフィンをしてしまっていた。

結局、電車での移動中が1番読書ができていた。自分はずっとこうなのだ。読書に関して言えば、家よりも移動中のほうが集中できたりする。なぜなのだろうか。


列車は日常と非日常の間

読書とは、全く違う「他人の世界」に踏み入るようなものだと自分は思っている。

おもしろい本というのは、その本の中に登場する人物の世界に引き込むパワーがある。小説であればキャラに、評論本であれば筆者に。彼らの構築する世界にどっぷりと浸かりにいく。気がついたら、自分は現実世界にはいない。それが読書であり、だからこそ、読書とは、日常でも行える究極の非日常の体験だと考えている。

もちろん、映画や音楽を楽しむこともすごく良い体験だ。でも、そこには外部からの強い刺激がある。そしてその刺激(映像や音)に自分が関わる余地はない。一方通行なのだ。

しかし、読書は違う。本に書かれている文字を読み、それを自分の頭の中で解釈する。そして、自分の頭の中に世界が構築される。この時、文字という視覚情報で得た小さな情報を頼りに、自分で世界を作っていく。一方的な用に見えて、実は作者と自分の共同作業なのだ。


そんな風に考えたとき、自分が電車で読書に集中できる理由が少し分かった気がした。

電車の中って、日常と非日常の間のような空間だと思うのだ。完全な「日常」である「家」と、「見知らぬ土地」という「非日常」をつなげる空間。行っていることは間違いなく非日常なのだが、その中身は何も面白みの無い移動時間。そんな曖昧な時空。

読書をするときって、この曖昧さがすごく大事な気がする。家のような日常空間だと、そもそも没入するまでが難しい。日常の中の凡人としての自分が強すぎる。かと言って、映画館やライブハウスみたいに、自分を殺して、入ってくる情報だけを受け取ればいい、そんな心持ちでは、自分の中に本の世界が構築できない。

だからこそ、電車だとすっと読書に集中できるのかもしれない。日常と非日常、もっと言えば自己がふわりと浮いているようなあの空間で読書し、没入するのが、なんとも言えない感じがするのかもしれない。

そんな小難しいことを思いながら、何冊かの本を読んだ2日間でした。


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