【発売前無料公開①】ネブラスカの田舎オタク、ヤクザ映画にハマる - 893(ヤクザ) -
ハリウッド映画化計画進行中! 今や日本の「YAKUZA」は、「忍者」や「アニメ」に並ぶ世界的人気コンテンツに。手に汗握るハードボイルド・アクションと大爆笑コメディが完全融合した「理屈抜きに面白い」エンタメ小説の極北!
米国の田舎ネブラスカ州出身のオタク青年、トミー・ケントはヤクザに憧れて来日する。だが、わらじを脱いだ新宿・歌舞伎町の組には任侠道のかけらも残っていなかった?
青い目のIT世代ヤクザが世界最強の武闘派集団、「富拳一家」を築き上げた立志伝の始まりである。
『893(ヤクザ) - 米国人オタク、日本「YAKUZA」の世界でのし上がる -』
10月11日(火)の単行本発売開始(紙・電子)を記念して、今日から1章から5章までを毎日連載で公開いたします。(4章~5章までは10月31日(火)までの期間限定公開となります)
イントロダクション
江戸時代の博徒(ばくと)以来、ゆうに200年を越える日本のヤクザの歴史において、最大最強の組織とうたわれた武闘派集団――。それが、本邦最初にして最後の特定危険指定暴力団と称された、富拳(とみけん)こと富井拳人(とみいけんと)が率いる富拳一家である。
元はといえば、北九州のローカルヤクザの一つに過ぎなかったこの組を、わずか10年あまりで世界屈指の一大組織に育て上げ、並み居る有力親分衆を押しのけ日本ヤクザの頂点へ、そして世界のヤクザのトップにまで上り詰めた伝説の侠客(きょうかく)・富井拳人であるが、表舞台に現れることがほとんどないため、彼がアメリカ生まれのいわゆる「青い目のガイジン」であったという事実を知る者は少ない。
本名トーマス・アーサー・ケント、通称トミー・ケント略して「トミケン」が、いかにして裸一貫からこの日本に根を下ろし、いわゆる「切った張った」の血なまぐさい抗争から脱却し、メタバースやNFTなどのITを駆使した〈Super Intelligent Criminal〉によって自らの一大帝国を築き上げたのか――。
本作品はアメリカ時代の彼の生い立ちから、日本に渡ってからの下積み時代、そして、ヤクザとして栄華を極めた黄金期、さらには世界に君臨する現在に至るまでの道のりの前半部分に焦点を当て、トミー本人の口から直接語られた内容を可能な限り忠実に記録したものである。
そして、この壮大なストーリーの背景には、我々の想像を越えた、とてつもない秘密が隠されているのだ。
家族のぬくもりが一切ないドツボの少年時代
俺の名前はトーマス・アーサー・ケント。
トミーは、ガキの頃からのニックネームってヤツだ。
「戦争の世紀」と呼ばれた20世紀がいよいよ終盤に差しかかろうという頃、アメリカ合衆国のほぼ真ん中に位置するネブラスカ州の、そのまた真ん中あたりの名もない片田舎で俺は生まれた。
アメリカの中心と言えば聞こえはいいが、別名「Cornhusker State」、つまり「トウモロコシの皮剥ぎ屋」と言われるネブラスカの中でも田舎扱いされる土地だけに、俺が生まれた町も、カルチャーや最新流行なんてものからは程遠い、見渡す限りトウモロコシ畑しかない、「レッドネック」と呼ばれる白人の貧しい労働者階級が住民の大半を占める寂(さび)れきった町だった。
たいていのヤクザの生い立ちがそうであるように、俺の少年時代もご多分に漏れずの、ひと言でいえばドツボってヤツで、まさに不幸を絵に描いたような暮らしぶりだった。
俺が6歳のとき、自動車修理工だった親父が女を作って家を出て行った。
残されたのは親父に殴られいつも身体(からだ)のどこかに青アザを作っていたオフクロと、それぞれ三つ年が離れた姉貴と妹。
雑貨屋のレジ係と、長距離トラック相手のダイナーのウエイトレスを掛け持ちしていたオフクロのおかげで餓え死にだけは避けられたが、そこには一家団らんだとか家庭のぬくもりなんてものは、一切なかった。まあオフクロとなると、たまの休みの日となるとタガがはずれたように町外れのバーに出かけ、そこで拾ってきた薄汚(うすぎたね)え中年のオヤジどもを家に引っ張り込んではよろしくやってたもんだ。
そんな家で育った俺の願いはたった一つ。とにかくこの、しけたクソみたいな町から1日でも早く飛び出して、ここではないどこか別の場所で新しい生活を始めることだった。だが、そんなささやかな俺の夢を先に実現したのは姉のバーバラだった。
隣り町で年に一度開かれるフェスティバルで出会ったとかいうカンザスシティ出身の頭のいかれたミュージシャンの子を孕(はら)んで、16歳の誕生日を待たずして家を飛び出していったきり、現在に至るまで消息不明。もしかしたら、そのへんの畑に埋められトウモロコシの養分になってしまったか、あるいはネバダあたりの砂漠の砂の下で人知れず眠ってるのかもしれない……なんて話は俺が生まれた町じゃ掃いて捨てるほど転がってる。いまさらそんな話を聞いてもあんたらは面白くないだろうが、まあ聞いてくれ。
ボッチだった俺と親友ヒューイとの出会い
俺みたいな劣悪な家庭環境で育った子どもたちの多くは、いわゆる悪の道へ足を踏み入れるというのが通り相場だ。喧嘩に明け暮れたりとか、クスリや酒に手を出したり、女の尻を追っかけ回したり、盗んだクルマで暴走族の真似ごとをしたりとか……ところが俺はまったくそういうものとは縁がなかった。断っとくが、興味がなかったわけじゃない。正味な話、やりたくてもできなかったんだ。
その原因は俺の性格とルックスにあった。いまの俺からはちょっと想像するのが難しいかもしれないが、あの頃の俺は引っ込み思案の、いまで言う「陰キャ」で、見た目も全然イケてない典型的なオタクタイプのひ弱なガキだった。
ハイスクールに通うようになっても、女の子たちからはもちろん、男子生徒たちからもほとんど相手にされなかった。あんたらの言う「スクールカースト」で言えば、最底辺層のそのまた下をウロウロしているヤツ、そんな感じだった。
かといって家に帰ったところで、近所に友だちもいなかったし、妹は俺が彼女のバービー人形のパンティの中に爆竹を仕掛けたのが発覚して以来(爆破は未遂に終わった)、俺のことをゴミを見るような目で見て、ろくに口をきこうともしない。まあ、完全なボッチ、孤立状態だったわけだが、人間には自分の「居場所」ってものが必要だ。
しかし、身の置き所も行き場もなく、これといってやりたいこともなく、クソつまらない日々をただ悶々(もんもん)と過ごしていた俺を救ってくれたのが、同級生のヒューイ・ジョンストンだった。
ヒューイってヤツは勉強はできたが、まるでいきなり巣穴の奥から引っ張り出されたウッドチャックの子どもみたいにいつもおどおどしていて、けっして他人と目を合わせようとせず、ましてや自分から人に話しかけるようなタイプの人間じゃなかった。だが、どういう風の吹き回しか、ある日の放課後、帰り支度をしていた俺に、おそるおそるといった調子で話しかけてきた。
「あの……き、君、トミーだよね」
「ああ、そうだけど……」
「ぼ、僕はヒューイ。よ、よろしく」
「よろしく」
ヒューイは、ぎくしゃくとした手つきで俺の差し出した手を握り返すと、ある提案を持ちかけてきた。
じつはいま、学校の課外活動でコンピュータクラブなるものを立ち上げようとしているのだが、設立の認可に必要な人数が足りないので入部してもらえないだろうか――。要するにアタマ数合わせってヤツで、別に俺じゃなくてもかまわなかったのだが、いちばん暇そうで断りそうもない俺に白羽の矢が立ったってわけだ。
いまでこそ、コンピュータ(パソコン)のない生活など考えられない世の中だが、その当時はそこが田舎だったこともあり、ほとんどの人間がインターネットはおろか、コンピュータの端末にさえ触れたことがないのが当たり前だった。
俺も正直、コンピュータなんかに興味はなかった。だが、コンピュータをマスターすれば、自分でオリジナルのニンテンドー(日本で言うファミコンだ)のビデオゲームみたいなもんが作れるようになるというヒューイの言葉で、がぜんやる気になった。
とにかくほかにやることがないのをいいことに、授業がないときは部室に行ってひたすらパソコンをいじっていた。学校が休みの日でも校舎に忍び込み、朝から晩まで飽きることなく解説書とモニターと代わる代わるにらめっこしながらキーボードを叩き続けたもんだった。
忘れられないのは、初めて、リボルバーの弾の数を設定して死亡確率を変えられる「ロシアンルーレット」のゲームを完成させたときだ。俺の中ではいまでも最高の思い出になっている。
そうやって1年365日、アホみたいにひたすらキーボードとモニターに向かっているうちに、俺はクラブの誰よりもコンピュータに詳しくなっていた。もともと数字には強いほうだったので、ちょっとした銀行の決済システムのプログラムくらいは書けるようにまでなっていた。
この特技が、あとになってどれだけ俺を助けてくれたことか……。俺が自分の才能に目覚めるきっかけを与えてくれたヒューイには、ほんとに感謝してもしきれないくらいだ。
コンピュータにのめり込めばのめり込むほど、俺はいつでも好きなときに自由に使える自分のマシンが欲しくなった。そのためには金が必要だ。だったら誰かのためにプログラムを書いて金を得るのが手っ取り早い。普通はそう思うだろうが、当時の俺には自分を売り込む営業力ってものがなかった。要するに自分のスキルを金に変えるノウハウがなかったってわけだ。
ヤクザの世界を教えてくれたスズキさん
で、結局俺が選んだのは、ベビーシッターという高校生がよくやる定番のアルバイトだった。アメリカでは、13歳未満の子どもだけを家に置いたまま親が外出することが法律で禁止されているので、親が留守にしているあいだ、彼らに代わって子どもの世話をするというか、まあ、率直に言えば「悪さ」をしないように見張るという仕事が、当たり前のように存在するのだ。
最初に俺を雇ったのは、スズキさんという、日本から来ていた農機具メーカーの駐在員の家だった。
旦那さんは出張が多くほとんど家におらず、基本的に奥さんが家を切り盛りしていたが、いつも夕方の5時になると小型のトヨタで家を出てゆき、夜9時か10時頃に仕事を終えて帰ってくるというのがルーティンだった。
俺が面倒を見ていたヤスオという7歳の男の子は、ほうっておけば何時間でもひたすらレールの上を走るおもちゃの列車を眺めている手のかからない子どもで、ミセス・スズキが帰ってくるまでのあいだ、誰にも邪魔されることなくヒューイが貸してくれたコンピュータ関係の本を読んでいることができた。
ある日のこと。その日1冊目の本を読み終え、ソファの上に置いてあったリュックから別の本を取り出そうとしたとき、ふとテレビの横のビデオラックが俺の目に入った。
この家に初めて来た日のうちに、棚に並んだスズキさんのDVDコレクションのタイトルは一応すべてチェックしていた(全部日本のものだった)ので、それ以上の興味はなくなっていたのだが、その日はどういうわけか、変な気まぐれが起きて、その中の1本に手を伸ばした。
俺が手にしたDVDケースのジャケットには、満開の桜を背景に、むき出しの刀を手にした着物姿の男が、こちらを睨(にら)みつけている写真が使われていた。戦いのあとなのか、頬の傷から流れ出た血が、はだけた着物の胸元から覗く極彩色のタトゥーを赤く染めていた。着物に刀とくれば、サムライかニンジャものかなと思ったが、写真の男はニンジャがかぶっている例の黒いほっかむりもしていないし、髪型はチョンマゲでなくクルーカット(角刈り)で現代的だ。
いったい、この男は何者なのか……。
あれこれ想像するより、この目でビデオの中身を確かめたほうが早い。
俺はDVDをプレイヤーにセットしてテレビのスイッチを入れた。ミセス・スズキから、テレビを見たければ好きに見ていいと言われていたので、テレビがオッケーならDVDもかまわないだろうと勝手に解釈したのだ。
その映画には英語の字幕なんてものはなく、当然そこで交わされている日本語はチンプンカンプンだった。どうせすぐに飽きるだろうと思いながら、ぼんやり眺めているうちに、いつの間にか俺は物語の中に引き込まれていった。
映画は、小雨が降る暗い夜道で、一人の男(ジャケット写真の男。主人公の「ヒデ」)が大勢の男からタコ殴りにされているシーンから始まる。
地面に仰向けに倒れて苦しむヒデに向かって、口々になにか言い捨てながらその場を去っていく男たち。
それを遠目で見ていた若い娘がヒデのもとに駆け寄ってきて、心配そうに声をかけて助け起こす。
数時間後、見知らぬ家のフトンの中でふと目覚めるヒデ。そのヒデの様子を一晩じゅう見守っていた娘の顔に笑みが浮かぶ。
ヒデはあわてて家から出ていこうとするが、娘がそれを引き止める。娘は自分の父や、兄らしき男になにかを訴える。しばらく考えた末「イエス」とうなずく父と兄。
それから何日かして、怪我からすっかり回復したヒデは助けてもらった礼に、娘の家の商売を手伝い始める。娘の父や兄たちと仲良く働くヒデ。
あるとき、そこに人相の悪いギャング風の男がやって来て、ヒデの姿に気づいてギョッとする。
アジトに帰った男は、自分のボスや仲間たちにさっき見たことを報告する。
翌日、ギャングが数人、店にやって来て暴れ回り、店の中をめちゃくちゃに破壊する。止めようとした父親は、殴られ重傷を負う。
出先から帰ってきて、事の顛末(てんまつ)を知ったヒデは、すぐにギャングたちに報復攻撃を加えに行こうとするが、それを娘と兄が必死で止める。ヒデはグッと怒りをこらえ、二人の言うことを聞く。
だが、ことはそれでは収まらなかった。ギャング団は、その後も店に押しかけてきては暴れ、最後はだまし討ちのようにしてその店を乗っ取ったうえ、ボスは店の娘を力ずくで自分の愛人にしようとする。無理やりボスに犯されたのを苦に自殺を図る娘。しかし間一髪のところで娘は自殺に失敗する。助けたのはヒデである。
ヒデは、すべては自分が引き起こしたことだと考え、責任を取るため書き置きを残して娘一家のもとを去り、たった一人でギャング団と戦うことを決心する。
深夜、刀を手に敵のアジトに向かうヒデ。ひたひたと歩くヒデの前方の暗がりから一人の男の影が現れる。娘の兄である。二人は黙ってうなずき合うと、自分の腕に刀で傷を付け、あふれ出た互いの血をすすり合う。どうも、固い結束の契りを交わす儀式のようだ。
二人は二言三言、短く言葉を交わすと、何十人という敵が待ち受けるアジトに切り込んでいく。バッタバッタと痛快に敵を切り捨てていく二人だったが、やはり大勢にはかなわない。敵の一人に追い詰められ、いよいよこれで最後かというヒデを危機一髪、自分の身を挺(てい)して助けたのは、さっき兄弟分になったばかりのアニキだった。
ヒデのほうを見て、大丈夫かというように微笑みかけるアニキだったが、そのアニキの口からふと、泡まじりの鮮血がほとばしったかと思うと、アニキの首ががくりと前へうなだれる。アニキはヒデをかばって死んだのである。
怒りに燃えるヒデは、狂ったように敵をぶった切っていき、最後にボス(親分)と一騎打ちの勝負になる。で、まあ、最後はこの手の映画では鉄板のパターン、お約束どおりヒデはボスをやっつけたあと、全身傷だらけでアジトを出ていくわけだが、そのままハッピーエンドというわけではない。
建物の外では大勢の警官が列をなして待っていて、その警官たちのあいだを、手錠をかけられ胸を張って歩いていくヒデの後ろ姿に重なるように、「終」という文字がスクリーンに浮かぶ。それが「THE END」を示すことは直感的にわかった。
そして、そのときに見た「終」という文字が、俺が最初に覚えた漢字となった。瞬(まばた)きすることも忘れるほど画面に見入っていた俺は、映画が終わってもしばらくその場で呆然としたまま身動きできなくなっていた。
(なんてクールなんだ……)
クールなんて表現じゃ物足りない。大げさではなく、俺はそれを運命の出会いだと感じた。それくらいその映画は俺に強烈なインパクトを与えた。本当にいい映画っていうものには、言葉なんかわからなくても人は心を打たれるもんだ。
オツトメ、ゴクローサンデス
その日をきっかけに、俺は日本のヤクザ映画の虜(とりこ)になり、スズキさんの家に行くのを心待ちにするようになっていた。ミスター・スズキもかなりのマニアらしく、DVDコレクションのうち、ヤクザ映画が4分の1を占めていたが、すべてを見終わるのにそう時間はかからなかった。
一作一作、どれも名作揃いだったが、ほとんどの映画に共通しているテーマが仲間同士の絆だ。俺はそこが気に入った。
日本のヤクザ組織は、すべて家族の形態をとっている。組織のトップである組長は、一家の長であることから「親分」と呼ばれ、その部下たちが「子分」になる。
日本には「Enka(演歌)」と呼ばれる、アメリカで言えばカントリー&ウエスタンとか、ソウルミュージックみたいな音楽のジャンルがあるのだが、その演歌界のキング、いわば日本のジェームズ・ブラウンとも言えるサブロー・キタジマ(北島三郎)のヒットナンバーに『兄弟仁義』という歌がある。
「仁義」というのは、ヤクザの世界において非常に重要な概念で、これを英語にすると「ヒューマニティ・アンド・ジャスティス」とか「モラルコード」あるいは「デューティ」みたいな言い方になる。どれもいま一つビシッとこないのだが、いまのところはそんな感じで理解しておいてくれるとありがたい。
で、この『兄弟仁義』だが、歌詞をそのまま引用すると、日本の音楽権利団体がうるさいので大雑把に翻訳するが、こんな感じになる。
ここでちょっと補足させてもらうと、日本のヤクザには「盃(カップ)を交わす」という儀式がある。これにはいくつかタイプがあるのだが、通常、この盃は親子のあいだか、兄弟のあいだで交わされる。「義兄弟」というヤツはこれだ。
それまで赤の他人だった者同士が同じ盃で酒を飲むことで、血縁以上の強い結び付きを互いに確認し合うわけだ。そして、いったん親子や兄弟の縁を結んだら、子は親のために、兄弟は兄弟のために自分の命をかけて敵と戦う。
見れば見るほどヤクザ映画の世界に引き込まれていった俺は、映画の中で飛び交う日本語を、直接聞き取りで理解できるようになりたいと切望するようになった。しかしそうなるには、スズキさんの家でDVDを眺めているだけでは全然足りない。そこであるとき、一計を案じて俺はミセス・スズキに切り出した。
「じつは僕、日本語を学びたいと思っているんです。もしよかったら、その勉強のためにお宅のDVDを貸していただけないでしょうか」
「あら、あなたが日本に興味があったなんて全然知らなかったわ」と目をパチクリさせるミセス・スズキに、俺は一つウインクして「奥さんがあまりにも魅力的なので、日本語で口説いてみたくなったんです」と言った――。
というのは嘘で、「いつか日本に行くことが僕の夢なんです」などと瞳をキラキラさせて答えた。
ミセス・スズキは天井のほうを眺めながらしばらく考えていたが、やがて「うん」とうなずくと俺に聞いた。
「トミー、あなたはどんな映画がお好み?」
まさかヤクザ映画が好きだとも言えないので、怪獣ムービーだとか、学園モノに戦隊モノ、あとはアクション映画が好きだと答えると、彼女はフフンと笑って、ちゃんと返してくれるなら気になったものを選んで持って帰っていいと言ってくれた。
俺は飛び上がらんばかりに喜んで、次に来たときに必ず返しますと返事をすると、彼女が目を離した隙にヤクザ映画だけを10本ばかりピックアップして、リュックに詰め込んだ。
帰り際、ミセス・スズキが俺に古びた1冊の本をくれた。彼女が学生のときから使っていたという和英辞典だった。ちなみにそのときにもらった辞典はボロボロになって、いまでも俺の手元にある。
スズキさんから借りたDVDは、学校のパソコンを使って即座にコピーした。コピーガードなんか、俺のスキルをもってすれば一瞬で外せる。かくしてミスター・スズキのヤクザ映画コレクションを俺は全巻コピーして、いつでも好きなだけ見られるようになった。
こうして、俺の灰色だった日々は、パソコンに続いて新しくヤクザ映画が加わったおかげで、さらにいっそう明るくなった。
外国語を覚えたいなら、その国の恋人を作るのがいちばんだって言うが、俺にとっての恋人がまさにこのヤクザ映画だった。
同じ映画を何度もくり返し見ているうちに、少しずつ登場人物がなにを言っているかわかるようになってくる。最初に覚えたのは人やモノの呼び方だ。
「オヤブン」「コブン」「アニキ」「キョーデー(兄弟)」「オヤジ」「オジキ」「アネサン」「クミ」「カンバン」「ダイガシ」「ワカガシラ」「ドス」「シマ」「チャカ」「ハジキ」「ケンカ」「デイリ」「チョーエキ」「ムショ」「オトシマエ」……わからない言葉は、ミセス・スズキがくれた辞書で調べて、出ていないものはネット検索して推測した。
日本語っていうのは、聞こえたとおりにアルファベット表記すると、案外簡単に調べることができるのだ。そんなふうにして、まるで乾いたスポンジが水を吸い取るような感じで、俺は日本語を覚えていった。日本には「好きこそものの上手なれ」というコトワザがあるが、まさにそのとおりだった。
そんなある日のことだ。いつものように、スズキさんの家でヤスオと留守番していると、ふいに玄関のドアが開いてミスター・スズキが帰って来た。予定より早く出張が終わったらしい。
「トミー、久しぶりだね」と声をかけてきたミスター・スズキに、俺が「オツトメ、ゴクローサンデス」と日本語で返すと、彼は一瞬目を丸くして「たまげたな」と俺を見て、ひとしきり腹を抱えて笑い出した。ちなみに「お務め、御苦労さんです」は刑務所から出てきた者を出迎えるときの決まり文句だ。
「そんな日本語、いったいどこで覚えたんだ」と首をひねるミスター・スズキに、じつはあなたのコレクションのヤクザ映画で覚えたのだと答えると、彼は「なるほど」というようにうなずいた。
「君が熱心な日本映画ファンだっていうのはワイフから聞いていたけど、まさかヤクザ映画のファンだったとはなあ」
「ファンじゃありません」俺は首を横に振って言った。
「オタクです」
俺の答えに、ミスター・スズキの大きな笑い声が居間に響き渡った。
「気に入った!」
彼はそう言うと、もっとたくさんのヤクザ映画を日本から取り寄せて俺に貸すことを約束してくれた。
俺は日本に行って立派なヤクザになる
そして、その日以来、俺は仕事がない日でもたびたびミスター・スズキの家を訪れ、ヤスオや奥さんそっちのけで、ヤクザ映画について二人で語り合った。
と言っても、ほとんどはミスター・スズキがしゃべっていたのだが、彼の話はとても面白くタメになった。
義理と人情、任侠、テキヤと博徒の違いといったことから、主役と脇役から見たヤクザ映画の味わい方なんてのも彼が教えてくれた。
たとえば主役で言えば、俺が敬愛してやまないヒーロー、健さんこと高倉健、鶴田浩二、菅原文太、渡哲也、小林旭、松方弘樹……。
そして主役を引き立てるためになくてはならない名脇役たち。池部良、安藤昇、嵐寛壽郎(かんじゅうろう)、里見浩太朗、長門裕之、そしてアメリカでも人気のサニー千葉こと千葉真一……。
こうやって思い出すだけでもゾクゾクしてくるような俳優たちの特徴や役どころを、ミスター・スズキはほうっておいたら一晩じゅうでも語り続けた。
池部良が、大学出のインテリで作家としても優れており、ヤクザの存在そのものには反対の立場をとっていたので、最後は必ず死ぬ設定にしないと仕事を請けなかった話だとか、安藤昇がホンマもんのヤクザ、しかも組長だったといった話も全部、ミスター・スズキから教わった。
ミスター・スズキが俺に与えてくれたのはヤクザ映画の知識だけじゃなかった。俺が自分のパソコンを手に入れるため、このバイトをしているのだと知ると、俺のコンピュータスキルを活かせる仕事を紹介してくれた。最初はデータ入力などの簡単な仕事だったが、徐々に俺の能力の高さがクライアントの知るところとなった。
最後のほうは、いっぱしのシステムエンジニア並みの仕事まで任せられるようになり、時給に換算すれば一般的な高校生の5倍から6倍は稼いでいた。
おかげさまで、俺は当時としては相当ハイスペックなパソコンを手に入れ、腕に磨きをかけることができたし、ミスター・スズキに頼らなくても、日本から好きなだけヤクザ映画のDVDを取り寄せることができるようになっていた。
コンピュータ関係の仕事のほうが忙しくなり、ベビーシッターとしてミスター・スズキの家に行くことがなくなったあとも、彼との交流は続いた。
高校卒業まで残り半年を切った頃のことだった。ある日の夜、ミスター・スズキと二人で『網走番外地』を見たあと、ミスター・スズキがふと俺に聞いた。
「そういえば、前から不思議に思ってたことがあるんだけれど……」
「なんでしょう」
「最近じゃ、日本でさえ若者がヤクザ映画を見なくなってきてるっていうのに、アメリカ人の君がどうしてこんなにヤクザに惹かれるんだろう、ってね……君がヤクザをすごくクールだって感じるのはわかるよ。でもほかに、なにか理由があるんじゃないのかなって」
そう言われてみて、俺は自分がヤクザ映画にハマった理由を考えたことがなかったことにあらためて気づいた。
アメリカにだって、マフィアやギャングをテーマにした映画は死ぬほどある。なのにどうして、行ったこともない国のヤクザ映画をこんなにまで愛してしまったのか……。
しばらく黙り込んだまま、宙を睨んで答えを探す俺に、ミスター・スズキがなにか言いかけたとき、ふいに寝室のほうから息子のヤスオが走り出て来て、彼の首根っこに抱きついた。
「おやすみ、パパ」
「おやすみ、ヤスオ」
挨拶を返しながら息子の頭を愛おしそうに撫でてやるミスター・スズキの背中を眺めているうちに、俺はハタとあることに気づいた。
そうだ、俺が日本のヤクザ映画に求めていたものは、理想の父親像であり家族だったのだと。前にも言ったように、オフクロや俺たち家族を捨てて出ていったクソ野郎のおかげで、俺は父親だとか家族のあたたかみってものを知らずに育った。だからこそ、世界のサブロー・キタジマが歌っているように、血のつながった家族よりも、強く男らしい親分の下で、固い絆によって結ばれている日本のヤクザに憧れを抱いたんだ。
そのとき俺は、心に決めた。
日本に行って立派なヤクザになることを――。
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