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いらぬ心配

いまより楽に生きられる方法。

それは、こころに浮かぶ「余計なこと」を瞬殺すること。

私は、子供のころから心配性です。かなり筋金入り。

家族のことを、ことさら心配する。

「今日は寒いのに、上着持って行かなかったから風邪ひくんじゃないか」
「職場や学校で嫌な思いをしてないか」
「今日は思いのほか暑いので、つくったお弁当が腐ってないだろうか」


仕事においても、とにかく、いろいろと心配する。

「この方法では成功しないのではないか?」
「社長はいいと思ってくれるだろうか?」
「俺にはこの役割は務まっているのか?」


人間関係も、いつも心配している。

「俺は部下に、いいと思ってもらえているか」
「部下が不満に思ってることはないか」
「あの人に嫌な顔されたら、どうしようか」


心配性の中でも、割と重症かもしれません。


いらぬ心配=無駄づかい

「いらぬ心配」という言葉があります。辞書でひくと「気にする必要のない心配のこと」とあります。

私の場合、先ほどの例の中で、仕事と人間関係における心配ごとは、間違いなく「いらぬ心配」に該当することが、わかってきました。

以下にその理由を、Q&A方式でおとどけします。


Q:この方法では成功しないのでは?

そう思うなら違う方法を検討しろ。その時間がないなら諦めろ。一生懸命やったなら自信を持て。もし、ダメでも「失敗」という結果として受け入れて、次に進め。反省すべきところがあれば、胸に刻んで進め。


Q:社長はいいと思ってくれるだろうか?

自分がいいと思ってるなら、社長がどう思おうが心配するな。どうせ、社長がいいと思わなければ、やり直させられるだけ。それが雇われ人の宿命。顔色うかがいばかりするな。すれば間違いなく、周囲や部下から信頼を失う。


Q:俺にはこの役割は務まっているのだろうか?

務まってるかどうかは、評価する人が判断する。お前が心配することじゃあ〜ない。務まってれば続けさせられるし、務まってなければクビになる。

それが雇われ人というもの。心配してもしょうがない。

与えられた役目を一生懸命やるしかない。心配する時間があるなら、仕事に使え。心配する気持ちがあるなら、好きなことでも考えろ。なぜなら、その心配は明らかに無駄だからだ。


Q:俺は部下にいいと思ってもらえているか?

それは部下が決めること。いいと思ってもらえてるかを心配する前に、チームのため、部下のために出来ることをしろ。

「いいと思ってもらうこと」に気をつかってたら、結局、いいと思ってもらえない。部下たちに最初はいいと思われても、結局どこかのタイミングで「人気取りだ」って言われて、最終的にウザがられる。

それよりも「やることちゃんとやってください」って部下は思う。逆に、やることちゃんとやってさえいれば、部下に信頼され、場合によっては慕われることもある。


Q:部下が不満に思ってることはないか?

その心配をする暇があるなら、部下に直接聞け。定期的に聞け。そして部下が言いやすい環境をつくれ。以上。


Q:あの人に嫌な顔をされたらどうしようか?

恋愛なら仕方ないが、それ以外だったら心配してもしょうがない。嫌かどうかは「あの人」にしか分からない。もし嫌な顔されたり「嫌だ」と言われたら「そうですか」と冷静に受け止めて「どこが気に入りませんか?」と聞いてみろ。

あるいは「出直してきます!」と、さっさと尻尾を巻いて逃げ帰れ。相手があっけにとられるぐらい、堂々と逃げてみろ。逆に相手がビビるから。

そんな心配する時間があるなら、嫌な顔されることを前提にしとけ。んで「されたらどうしよっかな?」という代替案を、軽〜く考える時間に使え。

「嫌だ」と思われたら、それは、もう、どうしようもない。自分に何か落ち度があったら、謝って、もう一回チャンスをもらえ。それしかない。

あなただって「嫌なものは嫌」って、思うし、言うでしょう。


つい語気が荒くなり、「自分で自分に喝を入れている状態」になってしまいましたが、要するに「いらぬ心配」は、気持ちと時間の無駄遣い。

家族のことは、まあ、ご愛嬌ってことで。許してあげましょう。心配が好きな人もいますから。どっちかっていうと、「してもどうにもならない心配」ですけど。


「いらぬ」を捨てる。

いらぬ心配
いらぬ正義感
いらんこと言う

特に下の二つは、トラブルの元になる。
正義感と発言


こころの断捨離

自分のこころに浮かぶ「いらぬ」は、瞬殺する。その癖をつけたい。

日頃から「こころの断捨離」をしてる人が、人生たのしく、そして、楽に生きられるのだと思います。

自分のこころに浮かぶ「いらぬこと」を考えてみてください。

浮かんだら、すぐ捨てましょう。




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