見出し画像

近未来建築診断士 播磨 第4話 Part5-2

近未来建築診断士 播磨

第4話 無自覚な従僕たちのマンション
Part.5『観察と考察』 -2

【前話】

 いつもより大きなARグラスをかけて顔を上げると、牧野氏の鏡面バイザーに自分の姿が写った。ぼくの物は大きいが透明で、氏のそれはサングラスのように目元を隠している。

「装備品確認、はじめます」
「お願いします!」

 牧野氏が大声で応えると、高所作業要領のチェックリストが浮かび上がり全身の装備各所がポイントされた。そこに表示される文言をぼくが読み上げ牧野氏が復唱すると、赤いチェックマークが緑に変わっていく。胸部サポーター、各部筋力アシスタ、コルセット一体型バッグ、安全帯、安全靴。装備品オールグリーン。異常は見当たらない。

 だが体調チェックで黄色信号がでた。牧野氏の体温と心拍数がやや高い。緊張のせいだろうか。

「牧野さん、体調はいかがですか。具合が悪いとかは?」
「大丈夫ですよ。多少緊張してるかもしれませんがね!」

 氏はまたも大声で笑って応えた。今朝からずっとこの調子でいる。

 無理もない。頷きながらそっと嘆息する。これから地上50mの絶壁に出るのだ。高所恐怖症の彼にとって、それはどれほどのストレスなのだろう。

「落ち着いていきましょう。こないだのようにしていれば大丈夫ですから」
「はい!さっさと終わらせましょう!」

 腕の端末を叩いて牧野氏の装備とこちらの装備をリンクさせる。グラスの片隅に彼のスーツ状態を示す概略図と、カメラからの視界が表示された。薄汚れたスーツを着るぼくの姿が映っている。

「視界共有良好。では19階外壁の清掃作業を始めます。牧野さん、エレベーターホール外壁ドア、ロック解除願います」
「はい!」

 彼は安全靴の音も高らかに外壁に向かう鉄扉へ歩みよる。管理システムのオートロックが反応し、インターホンの表示が赤から黄色に変わった。

『こちらはメンテナンスバルコニー入り口です。ごよ』

 滑らかな女声が案内するのを遮り、牧野氏はインターホンスイッチを押した。

「4階3号室の牧野です。外壁清掃に出るので、鍵を開けてください」
『かしこまりました』

 丁寧な応答音声が会釈するように消え入ると、デッドボルトが重い音を立てて収まる。バラクラバをかぶる牧野氏にはわからなかっただろうが、解錠で出来た隙間へ向かってかすかに風が吹きはじめた。

 彼はすり足で後退ると、執事かなにかのように頭を下げてドアを指す。うなずき返して鉄扉の前に立ち、一気に押し開いた。

 視界内の情報量が桁飛ばしで増え、目がくらむ。眼下に広がるのは滲んだモザイクタイルの如き町並み。多摩川の広く急な水の流れが蛇行し、低中層の新市街を両断する。カーテンドームの細いワイヤーフレームと、それに覆われる黒々とした都心ビル群が見え、その上を丹下宇宙港へ行き交う往還機が銀色に輝きながら飛んでいく。

 室内と室外の気圧差で生まれた強風が、ぼくの体を外へ運びだそうとばかりに背中へ吹き付ける。安全靴を軽くふんばり、腰から安全帯のフックを取り出してドアから身を乗り出す。腰の高さよりやや上の壁面に張り渡されたワイヤーへそれをかけると、更に一歩踏み出した。

 地上約50mの絶壁は、上下左右180度内に一切の障壁がなかった。頭上と足元には軽量グレーチングが申し訳程度の天井と床を形づくっているが、メッシュ状のそれは視界をほぼ妨げない。見上げれば宇宙まで、見下ろせば大地まで視界が通る。

 思わず膝をついた。想像はしていたが、本能的な恐怖心は抑えようがなかった。

 グレーチングの外周へ手をかけてハンドルを起こす。細い金属棒が軋みながら立ち上がり、これまた申し訳程度の落下防止手すりが出来上がっていく。

「播磨さん?もういいですか?」
「もう少しです」

 応える声が震える。牧野氏が息を呑む音が聞こえたので、慌てて風よけマスクを引き上げて口元を覆った。

「まだまだ寒いですね。作業服のヒーターを使いましょう」

 氏は無言だ。その視界は未だにエレベーターホールの壁を表示している。いけない。ぼくが出鼻をくじいてしまった。
 そっと立ち上がり、鉄扉を外壁に固定して室内を覗くと、ふたたび牧野氏と目があった。

「準備できました。モップをください」

 室内に向けて手を差し伸べる。牧野氏はゆっくりと、爆発物でも持っているかのように動き出し、そっとこちらの手を掴んだ。
 グラスに表示された彼の視界がいよいよ扉の外へ向けられる。しかしそこに表示されたのは、どこまでも広がる都市の風景ではなく『現在作業中』の文字が等間隔でプリントされた緑色の布だった。

「おお」

 彼は小さく呟き、そっと鉄扉から外を伺う。上も下も、建物の全周囲が仮設ネットのような視界遮断ホログラフに覆われ、適度な閉塞感を演出していた。

 ぼくを真似て安全帯を壁にかけ、静かにグレーチング足場へ靴を載せる。ゆっくりと体重を移動し、落下防止手すりを掴んだ。三度、あたりを見回すと、牧野氏は静かにため息をついた。

「これなら、大丈夫、そうです」
「でははじめましょうか」

 モップを受け取りつつそっと端末をいじる。視界に透過率7割でAR仮設ネットが表示された。

【続く】

サポートなど頂いた日には画面の前で五体投地いたします。