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異能俯瞰演義-ヤタガラス、人魂を狩る-

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 小島花菜実ハナミは、鬼の顔をしていた。

 夜空を炎が赤く染めている。アスファルト道路に改造バイクだったものが散乱し、熱と煙をふりまいていた。白いジャージ姿の男たちはまだ生きている。舗装の上に横たわり、震えながら呻いている。そのうちの一人が炎を睨んで悪態をつくのが聞こえた。

 炎がその男を踏みしめた。軽く、どこかいたわる様に恐る恐る。しかし、なにかで目にしたような仕草でしっかりと、呻く男の背にローファーをねじこんでいる。

 夜風になびくミニスカートからのぞく、炭のように明滅する太腿。学校指定のジャージらしい蛍光ブルー地に白のストライプの長袖。その袖口から見える、肉を引き裂くような長い鉤爪。風と焔を孕んで暴れる黒髪と赤く輝く二本角。憤怒に歪む口唇からは赤黒い牙が生え、焼けた鉄のように光輝を放つ両目が辺りを睨み回していた。

 まさに鬼女。般若。あるいは悪魔デビル。横たわる男たちの頭にそんな怪物たちの名が閃いたかはわからない。ただ呻き、喘ぎ、少しでも彼女から逃れようと芋虫のように這っている。

 少女は自らが作り出した光景を黙って見ている。身にまとった炎も、燃え盛るバイクの残骸も、深夜の照明としては十分すぎる。変な形に折れ曲がった足を抱いて泣く男の姿も、アスファルトに薄い血のりを残してうつ伏せになっている男も、彼女からよく見えているはずだ。

 怪物に襲われた仲間たちを助けようと、炎の外から男たちが怒声を上げる。だが誰も炎の中に踏み入ろうとはしない。いくら拳を夜空に突き上げても、巨大なバイクを転がしてみても、牙を輝かせて睨む金の瞳が彼らを寄せ付けない。

 少女は動かない。ただじっと男の背中を踏み、じっくりと彼を炙っている。男の悲鳴が少しずつ大きくなってきた。自分の体を這いまわる人魂に気づいたのだろう。少女はそうしながらただじっと、男たちを睨み据えていた。

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 数Ⅰの教科書の上へコピー用紙が舞い込んできた。畳の上の小型プリンターが紙片を吐き出すたび、一枚一枚がふわりと舞い上がっては膝の前に滑り込んでくる。

「一昨日の記事だ」

 低い男の声が新聞の内容を読み上げる。

 群馬県某市内で火傷を負った男性が発見され、病院へ搬送された。男性が倒れていた現場は国道沿いの道路上。宅地と農地が近接する場所であるが車どおりは少なく人目もつきにくい。男性が倒れた瞬間を目撃したものは誰もいなかったらしい。男性は軽度の火傷を負っていたが命に別状はないとのことで、警察はひき逃げ事件として捜査を続けているという。

「で、そっちはちょっとまえのネットの書き込み」

『心霊写真を撮影した』と自称する一連の書き込みと、夜の住宅街で撮影されたらしい写真が一枚。写真には大きめの家とその庭が写っているが、その庭の隅でぼんやりと火のようなものが燃えている様子もある。何かを燃やしている炎ではない。ただ火が燃えている。周囲から浮いているかのように。

 同様の写真がさらに2枚ほど。どちらも荒い写真で、ぼやけていたり見切れていたりしているが、焚火の火くらいの炎が宙に浮いている写真なのはわかった。

 顔を上げる。囲炉裏で炭が赤々と燃え、天井からぶら下がる自在鉤で鉄瓶が揺れている。その反対側に敷かれた座布団の上で、御犬様はフンッと鼻をならした。

「どうやら、やんちゃな妖怪がいるようだ」

 牧羊犬はこっちをまっすぐ見ながらそう言うと、手元のノートパソコンを前足で押出してその画面を見せてきた。モニターには夜空を撮影した写真が三枚並んでいる。どれも星か夜景を撮影しているが、端っこに燃える火の塊が写っていた。

「おそらく火を扱う。ある程度の飛行も可能だ」
「親近感がわきますね」

 書類を板張りの床に置き、百八十度まわして御犬様へ向けて押し戻す。小さな目がちらりとそれを見て、すぐにこちらに向いた。

「キミに比べれば大したものじゃない。それに、うかつだ」
「こうして有名になっちゃってるから?」
「そう。妖怪はこの世に自分一人だと思っている。だから大胆になってしまうんだ。こういう手合いが出るたびに、テレビで超能力もののドラマやらなんやらをやり続ける必要があると思うよ」
「……効果あるんですか?」
「想像力を育てることさ。大切なのは」

 御犬様は座布団を降りると、四つ足でトコトコと縁側に歩いていく。

 この庭にも春の終わりの気配がある。上城神社から見える街や多摩丘陵の山々の新緑は徐々に濃くなってきている。雨戸を開けた大きな窓から薄暗い本殿の中へ柔らかい日差しが入ってくる。すぐ外の庭先では御犬様の弟子が菜園の手入れをはじめていた。額に汗をにじませながら、少年らしからぬたくましい腕でタンポポの根を抜いている。

「警察が動いたようだ。数日中にこの妖怪を確保するだろう」
「逮捕とか、するんですか?」
「別の名目でね。こいつがしでかしたことは科学的に立件不可能だから」
「法律も憲法もあったもんじゃないですね」
「人間が罪を犯したら罰せられる。どこがおかしい」

 菜園から声が上がった。

「無理やりだろうと、その妖怪は法の裁きを受けるべきだ」

 農作業を続けながら三間坂はきっぱりと言い切る。しかし御犬様は彼に向かって首を振った。

「不当逮捕には違いないよ。妖怪による超常現象を警察が立証できないからといって、その横暴が許されていいわけはない」
「建前やめてくれよ。警察にそいつを抑えられる前に自分の手元に置きたいんだろ」

 三間坂は引き抜いた雑草の束を抱えて縁側に戻ると、前髪をかきあげて汗をぬぐいながらこちらを見た。

「僕はこいつの懐柔は反対だ。けど御犬様は、僕と玖条ならこいつを引き込むことが出来ると踏んだ」
「なんで俺なんだ」
「この妖怪の動きはとても拙いんだ」

 御犬様が首を一振りすると、壁の棚からタオルが一枚飛び出した。三間坂は慌ててそれを受け取ると、御犬様へ一礼して顔をふいた。

「幼く、経験が浅く、無鉄砲。玖条くんには馴染み深いんじゃないか」
「穴があったら入りたくなる評価です。……つまり、俺と似たもの同士な気がするから説得できるだろう、と?」
「あと、お前が金で動く高速のアシだってこと」

 一息ついた三間坂が畳んだタオルでこっちを指した。御犬様もこちらへ向けて頷く。

「渡りに船だとは思わないか玖条君。君はカネが必要。ぼくはヒトが必要。仕事としても難しくない」

 仕事。その言葉に耳が熱くなった気がした。

「鳴君と協力して、この妖怪の確保を頼みたいんだ。警察に捕まる前に」
「……俺はド素人ですよ? 三間坂の足を引っ張るだけです」

 踊り立つ心臓をなだめながら三間坂を見上げる。春の日差しを背に立つ彼の表情はよく見えないが、渋い顔をしているのは間違いない。

「御犬様も弟子に経験を積ませたほうがいいでしょう」
「そう思うんだがね。しかしほら、もし女性だったりしたら。ね」
「ああ……」
「なんだよ」

 透き通った、しかし剣呑な声が降ってくる。視線も同伴だったようだが、気にせず御犬様の手元を見た。御犬様はノートパソコンのキーボード上で小石をいくつか踊らせている。カタカタと舞う小石がキーを叩いているようだった。

「どっちにしろ二人で行ったほうが良い。幼い妖怪に対しては警官より年の近い同類が必要だ。そこへいくと玖条君の物腰の柔らかさは武器になる」
「……俺、対人交渉は不得手ですよ」
「我が弟子より格段にマシだと保証しよう。なにより、君はお金が必要なんだろう?」

 地震かな、と思った。しかし囲炉裏の上の土瓶は動いていない。どくどくと、自分の心臓が動いているだけだった。

「まぁ……はい。そうです」
「だろう? だから君に頼みたい。経験にもなる。君の懐も潤う。悪いことなしだ」
「妖怪として仕事をうける」

 三間坂が縁側から上がってきた。すらりと細身の長身が、身をかがめて梁をくぐる。

「大問題だ」

 苛立たしげにそう言いながら囲炉裏端の座布団にあぐらをかき、御犬様を睨んだ。

「玖条はまだ妖怪の恐ろしさをわかってない。そんな奴に仕事させるなんて、僕は反対だ」
「鳴君。それはぼくらが判断することではない」

 狼犬が負けじと牙を剥いて迎え撃つ。

「玖条君が決めることだろう。君は干渉が過ぎる」
「わかっている。ただ僕の立場をはっきりさせたいだけだ」

 資料を取り上げてしげしげ眺めると、三間坂は紙片をぴしりと揃えて御犬様へ向けた。

「玖条は足を担当してもらう。料金はその分だけだ。妖怪の相手は僕がする。割のいい仕事じゃないってことをわかってもらおう」
「やれやれ・・・・・・玖条君、何か意見は?」

 困ったように眉を寄せる狼犬と、鋭い目つきの三間坂が同時にこちらを見た。これもいわゆる「良い刑事と悪い刑事」による話術というやつなんだろうか。

 先日の取引で四百万は手元に残ったが、一千万円にはまだまだ足りない。そして俺が妖怪でいられる時間があとどれくらい残っているかもわからない。妖怪でいる間は、たとえ少額でも稼いでおきたい。妖怪を相手にする危険はわかっているつもりだ。痛い目にも遭っている。だがその危険は、今回に限って無さそうに思える。そうなるとこの機会は逃す手はない。

「ともかく、二人の話はわかりました。その上でこの仕事をやらせて欲しい」
「素晴らしい。頼むぞ玖条君」
「ただし」

 御犬様と三間坂は揃って片眉を上げた。

「料金は成果報酬にしてもらいたいですね」

 いまの自分にどこまでできるか。それを試してみたいと思う。割の悪い仕事でも、俺の頑張り次第で稼ぐ余地を広げられるのかどうか。妖怪として稼ぎを得ることが自分にできるかを確かめたいのだ。

 ■

 山と地上が近づくにつれて日が山に隠れていく。目指す丘の上は山が作る影の中にあり、なんだか水の中に潜っていくような息苦しさを感じた。背に乗せた三間坂が強く肩を掴んでくる。その指は少し震えているようだった。

 生身で空を飛ばされるのは怖いだろう。自分でも恐ろしいことをやっているんじゃないかと考える時があるが、あえて考えなければ思い至らない。そうなりつつある。

「そろそろ降りる。飛ばすぞ」

 答えを待たず、地表に向けて加速する。大地がどこまでも続く巨大な壁のように目の前へ迫ってくる。その中央に着地点の丘がある。そこに生える木々や草花が見え、その間にあるわずかな隙間に吹く風を感じる。擁壁やガードレール、獣道にまで視線を巡らすが誰もいない。着地を見とがめられることはない。翼を羽ばたかせて最後の加速をかけ―――

「到着した」

 林の中に膝をついた。木の葉や枯れ草が風で舞い上がる。飛んでる最中に曖昧だった手足の感覚が戻ってくると、背の上にまたがっている三間坂の重量で潰れそうになる。

「おい、着いたぞ」
「え!あ!ああ……」

 ようやく飛び降りた三間坂は、ふらふらとケヤキに寄りかかって溜息をついた。

「どうした。陸路だと2時間強のところ20分足らずで着いたんだぞ。喜べ」
「……次は電車つかう」
「そっちも3時間かかるらしいぞ」
「うぅ……」
「おかしいな。前に乗せた時は大丈夫だったろ」
「前よりも荒っぽくなってる……」
「離着陸時はしかたないんだ。見つからないためにはこの速度がいちばんっぽいんだ」

 何か言いたそうにしていたが、そのまま目も口も閉じて深呼吸を始めた。とりあえず三間坂を置いて林の開けた方角へ向かう。

 背後に山を背負い、左右に低い丘を従える広場があった。狭い林道が張り出したような場所で、展望台のように開けている。ガードレール際は雑草が伸び放題だ。人が頻繁に訪れるところではないのかもしれない。

 正体不明の妖怪を見つけ出して話し合いに持込み、可能なら御犬様のところへ連れて行く。簡単に見つかればいいが、そうでなければしばらくこの辺りに通うことになる。そのための離着陸場としてここは悪くなさそうだった。

 遠くの山々のてっぺん辺りが赤く染まっている。その下へ行くほど夜の暗さが濃くなっている。車のライトで輝く街道沿いの街はもうとっぷりと暮れている。

 念のため、目を凝らす。御犬様が調子づいているというあの妖怪が、夜の闇にまぎれて飛んでいるかもしれない。ここから眺めるだけで見つけられたら儲けものだ。しかし、さすがにそこまで簡単ではない。見えるのは街の灯ばかりだった。

「おい、気を付けろ」

 復調したらしい三間坂が林から姿を現した。言葉に険はあるが、口調は静かだ。体調不良のせいだろうか。

「平気か」
「……大丈夫だ。それよりも、うかつに見るな。見てる最中のお前、すごく目立つぞ」
「え、どんなふうに」
「顔面が燃えてる」

 思わず両手で顔をさぐるが、熱いわけがない。飛んでる最中もそうだが『妖怪』でいる最中の自分の姿がいまいち自覚できない。

 フード付きパーカーとマスクで顔を隠しながら、三間坂が隣に並ぶ。素肌が見えるのは眼元と両手だけだ。三間坂は周囲をちらりと確認してからこちらを見た。

「辺りに誰かいるか」
「無人。降りてくるときに見た。ウチのあたりだとまだ遊び歩いてるやつらがいそうなもんだけど」
「この山、何もないからな。家や学校からも遠そうだし、遊び場向きじゃない」
「ウチの学校の裏山がこれくらい深ければ嬉しいんだが」
「……はじめるぞ」

 両手をパーカーのポケットに突っ込んで顔を伏せると、三間坂は体をこわばらせた。たん、と右のかかとでアスファルトを叩く。すると右のつま先から白い光が真っすぐに走り出て、ガードレールを越えて茂みの中に消えた。

 左目を閉じ、右目だけで街を見ようと試みる。そっと、じっくり焦点を合わせていく。夕暮れに沈んでいく街の暗がりが徐々に、はっきり見えてくる。その真っただ中を三間坂の『視線』が伸びていった。

「とりあえず、一昨日の事件現場あたりを見る」

 三間坂はそう言いながら『視線』を長く伸ばす。白く細いラインが住宅地を越えて農地に入ったあたりで延長を止めた。ゆっくりと『視線』が左に傾いていく。雨に濡れた車のフロントガラスをワイパーが撫でるみたいに。雨滴のかわりに、白いひし形の小さな模様が残っては消えていく。よく見れば、そのひし形は直線で描かれた『目』のようだった。左に傾いて行った線が街を通り過ぎて山に至ると、今度は右へと傾いていく。

「なにかわかったか?」
「―――いいや」

 集中しているためか声が小さく、歯切れも悪い。フードをかぶって俯いているせいで横顔はうかがえない。覗き込んでやろうかとも思うが、きっと怒るのでやめておく。

 視線を街に戻す。街、とはいうが地図の線が描かれているわけじゃない。ただ街道と小さな駅を中心に建物の密度が高い部分があるだけだ。そこを中心として、そこから離れるほど建物はまばらになり、かわりに農地が増えていく。昼間見れば青々としているだろうが、夕暮れでよく見えない。ただ街の光と農道の街灯でおおよその街の形はわかった。

 ふと、何かが農地の上にちらついた。

 あわてて三間坂に視線を送るが、うつ向いて集中したままだ。再び街の方を見て、そこから右の方を見る。電気の明かりがどんどん少なくなり、闇が濃くなっていく方角。その闇の中を、火の粉がちらちら光っていた。

 左目を抑え、右目に集中する。すると暗闇が薄れ、視界全体がぼんやりと明るくなった。農道が見え、その脇に菜の花かなにか背の低い植物が規則的に並んでいるのが見える。その上空を小さくて丸い火の玉がふわふわと飛んでいた。

 そこへ三間坂の『視線』が向かってくる。白い飛沫を上げながら、細く長大な線が地を舐めつくしていく。火の玉はそれに気づいているのかいないのか、ゆったりと空を漂っている。

『視線』が押し寄せる。多角形の『目』の飛沫が上がる。火の玉はその飛沫の霧の中を飛び、『視線』とすれ違った。

 頭を振って焦点を戻し、横の三間坂を見る。彼は相変わらず集中していた。

「おい、三間坂」

 返事の代わりに片手が小さく上がり、すぐに降りる。黙っていてくれということだろうか。『視線』は変わらず進み続け、そのライン全てが人家を通り過ぎて農地にたどり着くと動きを止めた。三間坂はゆっくりと息を吐き出しながら顔を上げる。それに併せて『視線』が高速で縮んでいき、最後には三間坂の右足に吸い込まれて消えた。

「―――で、何か用だったか?」

 フードとマスクを外して素顔を表す。両頬に、白く光るひし形で描かれた無数の『目』が輝いて、こちらを睨みつけてきた。

「いや、用も何も。お前見えなかったのか?」
「何が」
「火の玉」

 街の方を見るとかすかにだが、まだ火の玉が浮いているのが見える。三間坂は溜息をつきながら俺の視線を追い、すぐに目を見開いた。

「……いつから見えてた」
「三間坂の視線が帰ってきた辺りから」
「まさかむこうに気づかれてたのか?」
「それは無いと思う。逃げるそぶりがなかったし」

 三間坂は何か言いたそうにこちらを見るが、すぐに火の玉の方へ向き直る。

「しかし、まさかこんな早く見つかるとはな」
「俺の手柄だな」
「……」
「追加料金」
「…………」

 三間坂の視線が泳ぐ。頬に広がる全ての目も一緒になって視線がふらつく。成果報酬制にしてもらって正解だった。御犬様も同席のうえで一筆書かせたのだ。三間坂も認めないわけにはいかないだろう。

「さ、どうする現場担当者。見つけて終わりじゃないだろ」
「―――ああ。そうだな」

 両頬をパンと叩き、三間坂の目に鋭さが戻る。

「やつを追う。僕を乗せてってくれ。顔と住処を確認したい」
「わかった。追加料金その二」
「僕に言っても覚えてやらないぞ」
「薄情な」

 だが有難い忠告でもある。いま俺は仕事をしているのだ。なにかあったら記録を付けるものだろう。しかしペンもメモ帳も持ち歩く習慣がない。携帯すらない。何か、何か持っていなかったか。

「後にしてくれ。いまは急がないと」
「……仕方ないな」

 残念ながらシャーペンの芯一本すら無かった。さすがにこの位のことなら忘れることは無いが、今後を考えると筆記用具くらいは持ち歩くべきか。

 片膝をついてうずくまり、一呼吸する。全身が燃え立ち、翼となって広がっていく。あの人魂の火とは全然違う、黒く燃え盛る炎。火炎が羽毛になって空気を掴む感覚を肌に感じる。いまの俺はどんな姿をしているんだろう。

 三間坂は肩車の要領でこっちの頭をまたぎ、背骨の上に腰を落ち着けた。

「いくぞ」
「おう」

 黒炎を地面に叩きつけるように加速する。三間坂が小さく呻いた。上空へ上がっても太陽の姿は無く、西に広がる山々の背に赤い空を残して落ちてしまっていた。

 眼下に視線を戻す。火の玉は徐々に住宅街へ向かっている。街の灯に惹かれているようだ。

「見えてるか?」
「大丈夫。もう少しこのまま、様子を見たい」
「わかった。風に乗るから少し動くぞ」

 辺りには北から吹く強い風がある。翼を広げると全身を掬い上げられ、さらに上へと運ばれる。とんびの姿を想像して、すこしだけ流れに翼を傾ける。すると、ゆっくりと円を描く軌道に乗れた。

「やつは宅地に入った」

 三間坂の顔は見えないが、体のどこからか白い線を地上に向けて垂らしている。線はすばやく道を走っていき、人魂の背後で菱形を作ると追跡をはじめた。のろのろ飛んでいく焔を、じりじりと菱形が追う。

 この辺りの宅地は大きい。上城町の狭苦しい住宅街と比べるとかなり広々としていた。どれも農家なのだろう。母屋と別の小屋をいくつか持っているお宅ばかりだ。人魂はそれらを眺め降ろすようにゆったりと通り過ぎ、さらに繁華な方へ向かっていく。

 徐々に家と家の間隔が狭くなっていく。だんだん馴染み深い配置になってきた。2階のベランダから顔を出せば隣の家の窓の中が見えそうな距離だ。人魂の速度が落ちる。三間坂の白線が少し震えて急停止した。人魂がその場でくるくると回る。カラス除けのビニール飾りみたい。回りながらゆったりと火の粉を散らし、細い道の間に降りていく。電灯の光が届かない暗がりでぽっと火が燃えたかと思うと、そこに人影が現れた。人影は辺りを見回しながらそっと歩きだし、街路灯の明かりに出ると何食わぬ様子で歩き出した。

「着地だ。やつのいた影に」

 うなずいて翼を絞る。翡翠カワセミの狩りを思い出しながら一気に急降下。耳元でごうごうと炎の音がする。首にかかる三間坂の重みが震えるのを感じた。空を抜ける。山が消える。街の灯が迫る。木々の影、建物の影。そして、細道の影。

 音もなく塀の傍らに着地し、素早く翼をたたむ。三間坂はするりと背を降り、曲がり角まで駆けた。白い線を引く右手が壁をなぞっている。三間坂の目はまだ奴を追い続けているようだ。

 少しの間、二人して塀の影に潜む。夜の暗さもあって物陰の暗さが布団のように重い。そうしているうちに金属の擦れる音が聞こえてきた。さーっと鳴って、カタンと終わる。たぶん人魂の主が金属の門を通ったのだ。

 三間坂が隠れる姿勢をやめて歩き出した。後ろ手に手招きしている。頷いて立ち上がり、その後に続く。

 住宅街の道路は程よく狭く、人家の暖かさに包まれている。庭の柵からはみ出したネギ坊主が街灯の光で白く輝いていた。三間坂が一軒の家の前で立ち止まった。「小島」と白抜きの毛筆体が刻まれたプレートを塀に掲げたその家は、屋根付きガレージのある少し大きめの一軒家だった。

「顔を隠せ」

 言いながら三間坂はフードとマスクを付ける。

「何もない」
「じゃあ頭燃やせ」

 言われた通りに飛ぶつもりで全身に力を籠める。暗い夜空がぼんやりと明るく見えるようになる。これでいいのかと思いながら三間坂の顔を覗うが、家の方を見つめていて顔色が見えなかった。

 一軒家の二階に光が灯る。そこにちらりと人影が覗き、だがすぐにカーテンを閉めた。

「残念。顔が見れるかと思ったのに」
「気づかれなかったのか?」
「ああ。顔が外を向いてなかった」
「あいつがそうなのか?」
「間違いない。それと」

 三間坂は小さく玄関の方を指さし、そのまま通りを歩き出していった。

 家の玄関ポーチは明かりも無く、さっきの塀の裏みたいに暗い。だが今の視界なら見える。玄関扉のそばに傘立てがある。黒い大きな傘にビニール傘。それと少し小さめの、淡い水色の傘。そこに三間坂の菱形が張り付いている。彼の白い線が傘の握り手をなぞっており、「1-B 小島花菜実」と書かれたテープが張られていた。

 小走りで三間坂に追いつく。三間坂はちらりとこちらの顔を見た。頬から伸びる白線がするすると目じりに落ちて消えていく。

「身長と体重は見た。ガレージには学校名の入った自転車もあった」
「傘、小さかったな。中学生かな?」

 上空から見た時、街灯に照らされてできた影の細さを思い出す。あの影が小さな傘をさすところを想像すると、妖怪というよりは妖精という印象だ。だが、あの影が人を焼いたのだ。

「御犬様に連絡して調べてもらう。その後は張り込みだ」
「張り込み? 俺たちが?」
「他に誰がいる? 奴は人に怪我を負わせた妖怪なんだぞ。目を離すわけにいかない」

 三間坂は鋭く息を吐いてスマホを取り出した。

「まだ七時だ。夜遅くに家を出て人を襲うかもしれない」
「出てくるようなら呼び止めてやめさせる。出てこないなら」
「また明日、だね。僕らも学校があるし、あの子が寝静まるのを確認したら帰るさ」
「徹夜で見張る必要はないわけだな」

 ほっと息をつく。三間坂がこちらを見ながら肩をすくめた。

 ■

 日がゆっくりと西の山々へ近づいていく頃、小島花菜実が黒髪をなびかせて帰ってきた。黄色いヘルメットをかぶって自転車に乗る姿は年相応というよりは小中学年くらい幼く見える。真新しいだぼついたジャージがチェーンに巻き込まれそうだ。彼女の家の前の通りで、三間坂と並んで立つ。三間坂は昨日と同じ上着のフードをかぶる。俺は彼からキャップを借りてかぶった。

 彼女と視線が合った。黒い瞳が揺れ、小さな口が一文字に引き締められる。小島は眉をひそめてペダルをこぐ足を緩めた。

「今だ」

 三間坂の合図で目に力を籠める。視野が広がり、家と家の軒先や電線の隙間に吹く風が見えるようになっていく。横目で三間坂を見る。その顔は白く光る幾何学模様の「目」でびっしりと埋め尽くされていた。

「ひっ」

 小島の小さな悲鳴が聞こえ、ブレーキ音が鋭く辺りに響く。それを合図に込めていた力を抜き、キャップを取った。三間坂も素顔に戻ってフードを外し、深々と頭を下げる。彼女は顔をこわばらせたまま、揺れる目でこちらを見ていた。三間坂が一歩踏み出す。彼女がサドルから腰を浮かせた。

「待て」

 パーカーの袖を引いて三間坂を止める。

「無言で近づいたら怖がるだろ」

 三間坂は無言でこちらを睨んだが、すぐに小さくうなずいた。

「ごめん。驚かせた」

 小島へ向かって小声で言いながらキャップを振って見せる。三間坂も固い表情で頭を下げた。小島は自転車から飛び降りたがその場から動かない。幼いながらも鋭い目つきでこちらを睨み続けていた。
 ここから彼女までどれくらいの距離だろうか。どこまで近づけばアウトになるだろうか。小島のパーソナルスペースは、人魂の妖怪の射程範囲はどこか。そこに無遠慮につっこまなければ大丈夫だと思う。

「小島さん。あなたと話がしたい」

 三間坂も、近所に響かない程度に声を抑えて語りかけた。さきほどの無遠慮な一歩と違い、そっと静かに歩みだしながら。すると小島は自転車をターンさせひらりと飛び乗った。そのまま立ちこぎで走り去っていく。高速で曲がり角へ消える瞬間、小島はちらりとこちらに目を向けた。

 チャーっと自転車のチェーン音が辺りに響く。三間坂は静かに溜息をつき、自分の左足から伸ばした白線を見つめた。

「彼女、やっぱり目が良くない。気づかれなかった」
「初対面の人間になにしてんだ」
「要注意人物なのは事実だ。このまま逃がすつもりもない。追いかけるぞ」

 駆けだした三間坂を追いつつ辺りを見回す。周囲の家々の窓に人気は無い。だがちらちらと見える人影が気になる。追いかけるなら飛んだほうが早いが、こんな住宅街じゃ誰が見ているとも知れない。再びキャップをかぶり、つばを引いた。

 三間坂を追って塀に囲まれた家々の間をジグザグに縫っていく。小島がこちらをまこうとめちゃくちゃに走っているのだろう。だが小島を見逃すことは絶対にない。三間坂の目に睨まれたのだから。

 問題は、俺の体力が続かないということだ。腕時計を見てもまだ三分と経っていないが、もう息が上がり始めている。一方三間坂の肩は鉄でも入っているみたいに揺るぎない。

 無理やり速度を上げ、鉄面皮の横顔を覗いた。

「どうした。もうへばったか」
「―――ああ―――だから―――先回りする」

 息継ぎの間になんとか言い終え、ペースを落とす。三間坂は小さく頷いてそのまま駆けていった。

 ふらふらと足を止め、ブロック塀の前でぜいぜいと息をする。頭がくらくらして喉がひりつく。三間坂が顔色を変えないまま走り去ったのが信じられない。妖怪になると体力も変わるんだろうか?

 なんとか息を落ち着かせ、辺りを見回す。右も左も代り映えしない住宅街が続いている。だが上空から見た時におおよその街並みは覚えていた。

 数分歩くと急な坂道を見つけた。ガードレール越しに、丘の向こうまで続く畑が現れる。坂道を降りて農道に入り、適当な農作業小屋のそばで腰を下ろした。傾き始めたが、まだ日が高い。視界良好というところ。誰かに見られていた可能性はある。

 目に意識を集中する。辺りを舞う羽虫の姿が良く見える。続いて人家の方を見るが、こちらを見ているらしい人影は無い。

 ぐっと足をたたみ、両手をついて地に伏せる。腹の奥底を叩き、内臓の奥のさらに奥、血肉の裏側にある炉の蓋を開けた。黒く燻ぶる炎が瞬時に全身を焼き、髪の毛先まで広がって膨れ上がる。その全てを地面に叩きつけて、飛んだ。

 速度を上げる。誰の目にも止まらないように。速度を上げ続ける。誰が偶然空を見ていようとも。次の瞬間には、周りの景色全てが眼下に置き去りになっていた。

 遮るものの無い空の真ん中では太陽が目に痛い。山々は濃い影の波となってどこまでも続き、じきに人里を飲み込みそうだ。ちらりと振り向くと関東の大都会から目が潰れそうな光を放っている。その全てを頭上から、濃紺の宇宙が覆っていた。

 ほっと一息つく。空を飛ぶようになって何カ月たったか。もう地面にいるより空にいる方が落ち着く。ここなら追われることも無い。体の貧弱さも気にならない。いつでも、どこまでも、好きなところに行ける。
 だがずっとここに居れば飢えるだけだ。いまは飢えないための仕事がある。

 下界に目を凝らし、眼下の街を俯瞰する。白く光る線が徐々に短くなっていくのが見えた。小島がどこかで足を止め、そこへ向かって三間坂が近づいている。あの速度なら五分もあれば白い線が点になるだろう。だが小島は何もせずに止まっているわけじゃないはずだ。自分を追ってくる不審な男二人の様子を見ているだろう。よく見れば、彼女は丘の上の畑にいるようだった。あの位置なら駆けあがってくる三間坂が見える。彼女にしてみれば、追われてもまた逃げればいい。あるいは自分に有利な位置で正体不明の人型怪物を迎え撃つつもりかも。どちらにしても、そうなれば話し合いの余地はないだろう。そのまえに手を打つべきだ。こっちに敵意は無いことをわかってもらわないといけない。

 もう一度、辺りを見回す。三間坂の白線以外、妖怪らしき姿は見えない。小島は人気のない所にいる。派手に飛び回っても問題は無さそうだ。降下しようと翼を絞りはじめる。その時、何かが目についた。

 この高度からだといろんなものが見える。日本の大部分が山だということを実感する。緑と影の塊が壁のように来たから南へ連なっている。平地は遠くの方まで、街の汚らしいモザイクと一緒に続いている。そのモザイクを貫く高速道路に、なにか見覚えのある光沢を見つけた。

 目をこわばらせて光沢を追う。着実にこちらへ向かってくる太い車。目立たない暗色で、大きな鼻を鎧か剣道面のような飾りが覆っている。上城町で見た覚えがある。たしか警察署に停まっていた。

 運転席を見つめる。夕日を反射するガラスの内側に焦点を絞ると、石のように硬そうな額が見えた。黒髪をオールバックに撫でつけ、鍛えぬいた巨大な体で窮屈そうにスーツをまとっている。ハンドルを握る両腕は柱みたいに太い。見間違えようがない。上城警察署の三妖怪の一人。『法力僧』岩見経守。

 御犬様に言われた時から考えてはいたが、実際に彼を正面から見ると背筋が寒くなる。あの鋭い目つきと向かい合うことになったら失神する自信がある。

 羽根を絞って降下する。岩見さんがこっちに到着するまでまだしばらくかかる。それまでに終わらせなければ。
 高空から一気に地上数十メートルの位置まで降りていく。雑草と農作物と裸土が作るまだら模様の中心で小島は立っていた。辺りは人気どころか人家もない。目撃者の心配はなさそうだ。

 街から見えないよう林のてっぺん辺りで翼を広げて減速する。ゆっくりと彼女の上空を旋回する風に乗った。すぐに彼女は気づき、こちらを見上げて口を開けた。何かを言おうとしたみたいだが、唇が震えるばかりだ。旋回をやめ、彼女の立つ農道の坂下へ向けてゆっくりと降りる。途中で下から走ってくる三間坂と目が合った。彼は汗だくでこちらを睨んでいた。

 舗装の上へ着地し、翼をたたむ。小島までおよそ二十メートル程度。彼女は自転車から手を離し、ヘルメットを脱いでサドルにかけた。こちらを睨む目つきは相変わらずだが、逃げるのはやめてくれたようだ。

 住宅街の時と同じようにキャップを脱いで一礼する。すると、小島が小さく首をかしげて応えた。彼女は両手を垂らしたまま、静かに歩き出す。両手の指先がよく見えない。夏の路面の上みたいにゆらゆらと揺らいでいる。

 何かする気だ。思わず両手を上げた。

「待ってほしい。話をしに来たんだ」
「はなし? 男二人がかりで?」
「俺は足なんだ。頭と口は、いま走ってくるほう」

 足音が聞こえてくる。小島に目配せしてから振り返ると、三間坂が必死の形相で緩やかな坂道を上がってきた。

「お疲れ様」
「じゃねえよ!」

 三間坂はそう叫んで隣に並ぶと、激しく肩で息をしながら両ひざに手を付けて俯いた。

「ハァ……お前……サービス精神って……ないのか?」
「どんなサービスをご希望だったんだ」
「坂上ってるおれを拾って飛んでくとかできるだろお前なら!!」

 逆上しているらしく、つかみかかりそうな勢いだ。なんとか落ち着かせようと両手を前に挙げて首を振る。

「悪かった。けど人目があったんだ。かんべんしてくれ」
「せめて……なんか……飲み物……」

 そこまで言ってようやく落ち着いてきたらしい。呆然と立っている小島を目にとめると、三間坂はなんとか息を落ち着けて背筋を伸ばした。

「どうも……お見苦しい、ところを……」
「―――ふっ」

 喉にタンを絡めながら胸を張るその姿を見て小島が噴き出した。彼女は水を払うように手をふるい、指先の陽炎を消す。そのまま右手でこちらを招いた。

 荒い息をする三間坂と顔を見合わせる。どうやら汗は報われたらしい。互いにうなずくと、ゆっくり小島へ向かって歩を進めた。小島も自転車を押してやってくる。彼女は自転車カゴのカバンを漁ると、何かを取り出して投げてきた。さっと三間坂がつかみ取ったそれは、金属製の水筒だった。

「飲めば?」
「……いただきます」

 三間坂は厳かに一礼しつつ水筒の蓋を開け、一瞬考えこむ。すぐに空を向いて口を開け、そこへ水筒の中身を注ぎ込んだ。

「なんかさ。マヌケだよねお兄さんたち」
「俺もそう思う」

 この状態でどの面下げて「人を傷つけることはいけないことなんだ!」とかなんとか説教できるものだろう。

「このダサさはさ。演技じゃないよね」
「これが演技で出せる人に会ってみたいです」
「……うるせー」

 三間坂は赤かった顔をさらに赤くする。ぐっと口を拭い、一礼して水筒を差し出した。

「ありがとう。おいしかった」
「どーも。えーと……サイクロプスさん?」
「サイクロプスはひとつ眼だ。僕は百個の目。百々目鬼どどめきって名付けられた」

 そう言って三間坂は右手を差し出し、その素肌を白く光る幾何学模様の目で埋めて見せた。小島はすこし目を細めてそれを見てから、こちらに顔を向けた。

「あんたは? 鳥人間?」
「そうだ」
「ちがう。ヤタガラスだ」
「いいじゃないか人面犬みたいで。ヤタガラスはなんか偉そうだ」
「人面犬は都市伝説だろ」
「似たようなものだろ」
「ぜんぜん違う。歴史があるんだ。妖怪には」

 汗をぬぐい襟を正し、三間坂は小島を正面から見据えた。

「昨晩、きみが火の玉になって飛んでいたのを見た。それできみが妖怪だと確信したんだ。待ち伏せしたのは申し訳ないと思ってる」

 小島は視線をそらし、自転車のベルを軽くたたいた。

「まさか同類がいるなんて―――」
「ずっと昔からいる。ぼくらみたいな人間が、妖怪として歴史に残ってるんだ。愉快なやつも、人を傷つけるやつもみんな」

 三間坂は汗で濡れたパーカーのポケットからメモ帳を取り出した。ページの中に折りたたまれた新聞の切り抜きを広げると小島の前に掲げる。彼女は目を逸らしたままだ。

「この前、この男性を襲ったのは君だな」

 小島は答えない。ベルを指ではじいて小さな音を立てるだけだ。

「この事件をきっかけに警察が動き出した」
「警察にも妖怪がいるんだけど、その人がじきにこの辺りを調べ始めると思う。彼は今日にも到着する」

 小島と三間坂が同時にこちらを見た。

「誰が来る」
「岩見さんだ。上から見つけた」
「そうか……。不幸中の幸いだな」

 明らかにほっとした表情で三間坂は頷いた。

「あたし……」

 一方、小島は微かに声を震わせていた。

「捕まるの……?」
「君が妖怪だとバレれば」

 メモをしまい、三間坂は再び正面から彼女を見つめた。

「だからというわけじゃないが、約束して欲しい。もう妖怪として行動するな。君のためにならない」
「妖怪には妖怪の法というのがあるんだそうだ」

 詰め寄りそうな三間坂の肩を引く。

「妖怪はとても数が少ないらしい」
「うん……。いままで一度も出会ったことない」
「そう。だから妖怪がいくら強くても人間には勝てないんだって」
「でも……でもあたしは」

 三間坂が再び前に出た。

「種も仕掛けも無く、火の無いところに煙を立てることが出来る。君は確かに強い部類の妖怪だ。でも君には帰る家があり、いまの生活がある。そうだろう? そこを狙って誰かが、必ず君を追い詰める。その時きみが今後の人生を自由に生きていける保証はない」

 妖怪の数は常人と比べて少ない。生存競争とは数の勝負だ。どれだけの異能を持っていたとしても、好き放題に横暴して無事に生きていくことは難しい。疫病の妖怪なんてのがいるとしたら、人間の数の優位も問題ないかもしれない。しかし数が問題なくなる時。それはこの世でひとりぼっちになる時ということなのだろう。

「―――それ、どういうことよ」
「結論から言って、君は拘束される。逃げても親や友人を人質に取られる」
「そんなっ……」
「君は強い妖怪に捕まって、時限爆弾のようなものをつけられると考えてくれ。そして組織に絶対忠誠を誓うまで放してもらえない。この組織っていうのは国や非合法組織だ」

 小島の顔色が悪くなっていく。自転車のベルに添えられた人差し指が細かく震えはじめた。彼女は気づいただろうか。自分が多くの敵を作ってしまったことに。
 三間坂はその姿を見て一瞬、言葉に詰まった。だが一瞬だけだ。

「だから君はもう妖怪でいてはいけない。ただの人間として、その力は隠して生きていくべきだ。まだ気づかれていない今が、最後のチャンスなんだ」

 小島はうつむいたまま大きく息を吸い、顔を上げて天を睨んだ。瞳が揺れている。だがこぼれ出しはしなかった。大きく息を掃き出し、彼女はこちらを見た。精一杯こちらを睨みつけてくるが、目が微かに赤くなっている。

「あんたらは警察じゃない。ならヤクザ?」
「そうだ」
「違う! 僕らは……そう……互助団体だ。妖怪の」
「変わらないよ。国の看板背負わずに妖怪として力を振るってる。警察にしてみれば非合法組織だ」
「じゃあ、あんたらの仲間になれば自由にしていいの?」
「いいわけがない」

 三間坂はあらためてメモを彼女の前に突き付けた。

「君は人を襲った。怪我をさせたんだ。どんな世の中だろうと、人間が無抵抗の人を一方的に傷つけて良いわけがない」

 小島は髪を振って三間坂を迎え撃つ。

「証拠あんの? あんなら出して見せてよ」
「証拠はきみ自身だ。人魂の妖怪なんてこの国には他に―――」
「三間坂。待て」

 メモごと三間坂をそっと押しのける。メモを掴む彼の手にうっすらと百の目が浮かびつつある。対する小島の頭からは、黒髪を押しのけて小さな角が見え始めていた。

「少し急ぎすぎじゃないのか」
「どいていろ。お前の仕事じゃない」
「落ち着け。まだ彼女が犯人だと決まったわけじゃないだろ」
「お前……」

 呆れたと言いたげに彼は首を振った。

「いまさら何言ってるんだ。妖怪の数のことわかってるだろ? 彼女以外、人魂の妖怪はこの世にいない」
「そうだ。俺はわかってる。でも彼女は知らない」

 三間坂は顔をしかめ、黙った。状況証拠として三間坂は間違ったことを言っていない。こちらが知る限り、新聞に載った事件は彼女の仕業だ。彼女の様子を見ても、何かしたのは間違いなさそうに思う。けど彼女はそれを咎められるとは思っていなかった。自分はこの世で1人のスーパーウーマンだと考えていたかもしれない。全ては自分の思いのままに運ぶことが出来ると信じていたかもしれない。それは不幸な思い違いだ。しかしその原因は無知だったからだ。

「まずは小島さんにぜんぶ説明するべきじゃないか? 捕まるとか捕まらないは、そのあとで」

 小島の肩が少し下がり、角が見えなくなった。三間坂も腕を下ろす。その手が人の肌色に戻っていく。山から風が降りてきているのに気づいた。杉か何かの香りが少し交っている。

「まぁ、ええと。俺たち二人とも、こんな話下手だけど」

 小島はこちらを見て頷いた。

「うん。聞いてあげる。もっとやばいやつも来るんでしょ?」
「ありがとう。でも少し長くなるかも」
「いいよ。ここでやりあってる場合じゃなさそうなのは、さすがにわかるから」

 小島は肩を落としてサドルに腰かけた。

 ■

 むかしいまし、いまいまし、後の世も変わらず来るもの。生きとし生けるものが生を受け死んでいく時間の中で、その命のおよそ百万に一つが変わりモノになるという。

 アジアはじめ日本ではそれを妖怪や霊、鬼、神仙と呼ぶ。欧州では精霊、悪魔、魔女と呼ぶ。アメリカでは超能力者とも。

 そんな具合に変わりモノ達は呼び習わされ、面白おかしい伝説として現代に伝わってきた。

 変わりモノ達は強い。たった一人で山を焼き、村を押し流すことができる。だが変わりモノ達は増えることが無い。受け継がれもしない。ただ時折あらわれ、気が付いたら消えている。殺せば、死ぬ。つまり常人同様に儚かった。天を覆うモノはいても天を落とすモノはいなかった。

 変わりモノと深く関わった人間達は彼らを恐れ、注視した。時には狩ることもあった。彼らは親しき妖怪は受け入れ、そうでないものは爪弾いた。彼らの役割は増えていく。役職が生まれ、受け継がれていく。顔見知りは一族になり、徒党になり、組織されていった。

 かくして変わりモノは管理されることとなった。お山の大将となって暴れたあの日はいまむかし。人の世の移り変わりの中、大小のチミモウリョウが現れては消えていった。自らの意のままに。あるいは誰かの意の下に。

 ■

『とまぁ、これが僕らの物語だ。小島君』

 手のひらで三間坂の携帯電話が微かに揺れる。スピーカー越しに子犬の笑う姿が見える気がした。

『君がいつ変わりモノ―――つまり妖怪となったかはこれから聞きたいが、それがいつだろうと君もこの物語の一員というわけだ』
「ハハッ」

 自転車のサドルに腰かけた小島花菜実は俯いて笑った。

「あたし程度の妖怪なんていくらでもいたってことね」
『人間、ということならその通りだ。妖怪はそう多くない。自身の正義のために異能を振るうものはそう多くないぞ』
「正義ってなんだ」

 三間坂が不満げな声を上げる。道路際に転がされた石の上で窮屈そうに座っているから、だけではなさそうだ。

「彼女のしてきたことが正義だっていうのか」
『彼女なりの、と言うべきだね。そうだろう小島君?』

 応えるかわりに小島は水筒に口を付けた。

『実は警察の捜査情報の一部を共有してもらってね。これまで人魂や不審火騒ぎに遭った人々に共通点があるのがわかった』
「それは?」
『嫌われ者だということだ』

 思わず三間坂と顔を見合わせる。

『庭の一部を燃やされた家の住民は町内で迷惑な鼻つまみ者として有名だった。星の撮影をしていた男は盗撮で捕まったことがある。そして先日火傷を負った男は地元で有名な暴走族の一員だそうだ。他にもいろいろあるが、まぁ世の中おかしな奴はいるものだなという気になってくるよ。この資料は』

 二人して小島の顔を見る。彼女は水筒を咥えたまま俯いて、表情が見えない。

『警察はまだ小島君にたどり着いてはいない。だがこれらの被害者から、正体不明の妖怪が暮らす生活範囲はおおよそ特定している。しばらく君の周囲は見張られることになるだろうな』
「……玖条さん、だっけ」

 小島がこちらを見上げた。

「人を怖がらせたこと。ある?」
「それは妖怪として?」
「そう」
「ある。けど慣れてない」
「構わない。……お願いがあります」

 水筒をぎゅっと握りしめ、小島花菜実はまっすぐ視線をぶつけてきた。

「あたしが大人しくしてる間、あいつらをやっつけて欲しい」
「ちょっと」
「あんたは黙ってて」

 立上りかけた三間坂を制し、小島はサドルを降りた。

「色は違うけど火ってとこは同じ。あいつらも勘違いするはず」
「御犬様が言った暴走族か」
「そんな上等なもんじゃない。あいつら、ただのサルだ。いや、サル以下かもね」

 小島はざっと地面を蹴った。

「あたしの友達。顔ちっちゃくて目もおっきくて、めっちゃかわいいの。背高くてスタイルも良いから、入学式でみんなと並んでてもめっちゃ目立ったの。だから、目を付けられた」
「言い寄られたのか。その子」
「動画撮ってればよかったよ。笑いそうだったもん。『おう、お前かわいいな。ヤらせろ』。だってさ」
「え―――」

 三間坂が息をのんだ。

「それからほぼ毎日。朝も夕方も付きまとってくるし、校舎の中だっておかまいなし。放課後は高校生どころか三十過ぎのオッサンまでバイクで乗り付けてくるんだよ? 犯罪でしょあんなの!」
「……だからそいつらの仲間を襲ったのか」

 息を荒げ、彼女は頷いた。

「鏡で自分の顔を見るのは嫌いだった。角も牙も、正直怖い。でも今はこの姿が」

 陽炎が彼女の姿を霞ませる。沸騰する蒸気が泡立って消えると、そこには燃える炭の肌をした鬼女がいた

「なによりも頼もしい」

 黄色く明滅する瞳が笑顔に歪む。

「ここんとこ毎晩”化けて”出てやってるの。あいつらすっかり縮み上がっちゃってさ! おかしいったら。学校でも大人しくなったよ。みんな不思議がってるけど、みんな喜んでる」
「その友達は、君のことを知ってるのか?」
「まさか。あの子の家の周りをうろついてるヤツらをちょっと炙ってやっただけ」

 再び陽炎が通り過ぎ、だぼついたジャージ姿の少女が戻ってきた。

「だからいまはやめられない。このまま続ければ、あいつらきっと何もできなくなる! もう二、三人火傷させれば……あ、いや」

 言葉がすぼんでいき、彼女は背を向けた。

「ともかく、続けることに意味があるの。いまやめたら、あいつらすぐに元通りになる」
「だから俺に代わりをやれと?」
「お願い! あたしと友達を助けて!」

 勢いよく振り向き、パンと手を合わせる。それは、とても犯罪の片棒を担がせようという姿には見えなかった。

「その助けてを、なんで大人や警察に言えなかったんだ」

 小島は呆けた顔でこちらを見上げた。

「三間坂ならそう言うだろう」

 思った通り、彼は小さく何度か頷いた。

「俺個人としては、正直手伝いたい」
「じゃあ―――」
「だが手段が不味すぎる。君を探して妖怪がやってくるんだぞ。間違いなく俺が見つかる」
「玖条さんのスピードなら捕まりっこないって!」
「俺とあの警官は同郷なんだ。通学路で顔を合わせることもある」

 小島の合わせた両手がそっと離れていく。

「俺にはできない。ごめん」
「そんな……」
「学校か警察にまかせるしかない」
「無理だよ……。なんでかあいつら、なんど捕まってもすぐ出てくるんだ。学校もなにもしないし」
「は?」

 三間坂が眉間に眉を寄せて携帯に呼びかけた。

「御犬様。どういうことだ」
「詳しくはわからん。だがこういうのはだいたい血族がらみだな。そのやんちゃ坊主共の肉親があちこちにいるんだろう」
「なんとかできないのか?」
『地元の有力者が相手となると、厄介だよ』
「御犬様。頼むよ。こっちで必要なものがあれば僕が揃える」

 三間坂が勢いよく立ち上がって俺の手から携帯をとった。

「彼女達をこのままにしておけない。大人が動かないなら、動ける奴が動くしか―――」
『落ち着きたまえ鳴君。焦れば君も警察の厄介になるぞ』

 三人で携帯を取り囲む。御犬様のうんうん唸る音が聞こえる。その唸り方に妙な芝居臭さを感じた。
 これは御犬様のポーズだ。あの大妖怪が小島を惹きつけるための演技だ。彼はもう手段を考え出している。果たして、三間坂の我慢が限界になる寸前で御犬様の唸りが途絶えた。

『よし、わかった』
「どうするんだ」
『僕から警察の妖怪に交渉してみる。小島君がおとなしくするのが、彼らにとっても重要だからね』
「でも、ここの警察は……」
『今日そこに行ってる岩見という男になんとかさせる。妖怪対策の名目があれば地元警察を動かすことくらいできるさ』

 小島は疑わしげな顔で三間坂を見た。三間坂は笑顔で頷いて見せる。

「岩見さんって人は正直、めちゃくちゃ強くて真面目な人だ。暴走族の話を聞けば必ずなんとかしてくれる」
「上城でも生身で単車追いかけてたからなあの人」
「うっそ……。どんな人なの」
「見れば一発でわかる」
「森の賢人って言葉がぴったりだよ」
「ゴリラじゃん」
『小島君はしばらく大人しくしていてくれ。その条件で、警察にお猿さんたちを牽制させよう』

 小島は少しの間、視線をさまよわせた。俺を見て、三間坂を見て、水筒を見た。三間坂が再び頷く。小島もゆっくりと、頷き返した。

「……わかった。できれば自分でやりたかったけど、我慢する」
『素晴らしい。君の忍耐に報いるよう全力をあげる』

 本当に御犬様に交渉ができるのか、はっきりしたことはわからない。だが話が通るなら、岩見さんは間違いなく協力してくれるだろう。

『すぐに警察は連絡するとしよう。鳴君も玖条君も戻ってきてくれたまえ』
「わかった」
『あ、帰りに焼きまんじゅうと釜飯買って来て』
「だとさ玖条」
「通販で買う方が安いですよ」
『出来立てが食べたいんだ。お金は払うよ』
「わかりました。では」

 三間坂が携帯を折りたたんでしまう。携帯の光が消えると、辺りの闇が濃くなった気がした。もうこんな時間だったのか。三人で顔を見合わせ、肩をすくめる。

「遅くなっちゃったね。家まで送ろう」
「いらない。一人で平気だから」
「不審者が出たらどうする。もう燃やしちゃダメなんだぞ」
「あんたについて来られるよりマシよ」

 いうが早いか、小島は自転車にまたがった。

「それじゃ……次はいつ来るの?」
「警察の捜査が終わったら様子を見に来る、かな」

 袖にされて唖然とする三間坂へ視線を送ると、襟を正して頷いた。

「そうだな。いちど御犬様にも会って欲しいし。玖条に迎えに来させる」
「あたしも飛べるよ?」
「きみと玖条じゃスピードが違う。ここから御犬様の神社まで三十分で行けるよ」
「……東京のはずれって、言ってたよね?」
「速さでこいつに勝てる妖怪はいない。たぶんね」
「上には上がいるって、ほんとなんだねー……」

 小島はため息を一つつくと、ペダルに足をかけた。

「じゃ。また」
「また」
「気を付けて」

 ひらりと手を振ると、小島は立ちこぎで坂の下へと消えていった。去り際の横顔は笑ってはいた。出会い方を考えればずいぶんな進歩だと思う。それでも、どこかひっかかる笑顔だった。妙にこわばった、緊張した顔だったのだ。

 ■

 耳慣れない音が鼓膜を揺らし、尻が地面から浮きかけた。音楽を提供してくれていたイヤホンがけたたましいサイレンに変わっている。教科書を寝袋の上に放り、イヤホンから伸びるコードを手繰って小さな機械を手繰り寄せる。持ちたくないと願い、結局御犬様に持たされることになった携帯電話だ。

「もしもし」
『玖条君。至急飛んでくれ』

 有無を言わさぬ口調。差し迫った声音は久しぶりに聞くものだった。

「どこへ」
『小島君だ。彼女が人に手を出したようだ』

 小島の笑顔と、鬼女の顔が脳裏で重なる。

「警察は?」
『最寄りは岩見君だ。高速道路でこっちに帰るところだったらしいから、現場到着まで十五分はかかる』
「……なら岩見さんに任せるべきでしょう。俺が行く意味がない」
『いまわかる限りだが、何人も怪我させているらしい。だが考えにくいことだ。この二日間静かだったんだぞ』
「彼女に何かあった、と?」
『事情がわからないまま警察に主導権を取られるのは癪に障る。君もそう思わないか』

 あの時、彼女は手を合わせて頭を下げた。人を傷つけて欲しいというお願いであることを除けば、邪気の無い仕草だったと思う。警察が現地を離れた瞬間、凶行に及ぶような子ではない。もしそうだったとしても、騒ぎを聞けば駆けつける組織がいることを彼女はもう知っている。何かが腑に落ちないのは確かだった。

「三間坂は?」
『別件だ。お兄さんを追っている』
「……わかりました。現場に行って、何があったか確認します。報酬はあとで相談でいいですか?」
『頼む』
「通話はこのままつけっぱなしでお願いします」

 素足のまま靴を履き、キャップとマスクをひっつかんでテントの外へ転がり出た。外の林は夜の闇の中だ。木々の向こうに上城町の夜景が微かに見えている。林の中を見る人間はどこにもいない。キャップをかぶりマスクをつけ、胸の奥の炉を開いた。

 着火、飛翔。即、千メートルの高度まで上がる。

 月が明るい。じきに満月になりそうだ。頭を巡らせて目標を見定める。小島の住む町はここからじゃ山陰になっていて見えないが、その方角の空が微かに明るい気がした。

 翼を思い切り広げ、冷たい空気を叩いて加速する。夜空の真ん中で遮るものは無い。背に荷物も無い。

「御犬様、聞こえてます?」
『やあ。どうした?』
「確認です。小島が人を襲ったって、警察が知らせてきたんですか?」
『いいや。現地で岩見君の指揮下に編入された警官の無線を盗み聞きした』
「そうですか……。で、具体的に何が」
『その警官は岩見君の指示で住宅街を監視していた。そうしたらバイク事故が発生したらしい。現場付近で人魂のような炎を見たという話だ』

 事故という言い方はしているものの、聞いた限りでは彼女が人を傷つけたように思える。

 小島花菜実に何があったのか。いまは考えても、もう仕方がない。彼女は罪を重ねた。完全に人に手を出した以上、御犬様と警察の密約も無効だ。彼女は捕まってしまう。

 眼下の夜景が後ろへ吹き飛んでいく。地上の闇の中でいくつもの光の塊や帯が過ぎ去っていく。その寒々しい光景が頭を冷やした。羽根を二度、撃つ。腹の底に大きな音が響き、速度が上がる。

 だがそれを考える必要はない。緊急とは言え仕事が入った。金が手に入る。現地に飛んで、現場を目で見て報告する。それだけで俺の目的は達成できる。そのついでに、厄介な知人の状況を知るのもいいだろう。

 黒々とした夜の山陰を越えて北上していく。下から炙るようだった街の灯がまばらになっていく。月に照らされた木々の波が後方へ消えていく。

 大きな山体を越えると、山肌の開けたところに赤い光が見えた。何かが燃えているらしく、黒い煙が夜風に巻かれてなびいていた。斜面を登るアスファルト道路だ。周囲に家はまばらだが、大きく走りやすそうな道だ。その中心辺りに火元が見えた。速度を落として風に乗る。

「御犬様、着きました」
『聞こえるよ。様子は?』
「バイクが燃えてます。一台だけじゃない。三台はある」
『彼女はいるか?』

 道路上にバイクが3台転倒している。けばけばしい塗装や長いパイプのようなパーツが転倒によって壊れ、辺りに散らばっていた。それらの金属が燃える車体の炎を映して煌めいている。それらの中心に立つ、陽炎を帯びた人影。

「いた」

 風がゆっくりと彼女の正面に吹いていく。風にまかれる炎と煙の間から、黒髪をなびかせる少女の姿がはっきりと見えた。

 彼女と目が合う。小島花菜実は、鬼の顔をしていた。

「間違いない。彼女だ」
『警察は?』
「遠巻きに見てます」 

 転倒車体と彼女の炎が混ざる熱の壁。その手前に暴走族と警官数名が一緒になって喚き散らしている。小島はそれを等しく睨みつけた。かかってくるなら来いとでも言いたげに。

『玖条君。彼女をその場から移動させろ。じきに岩見君が到着する』
「……人前に降りるのは抵抗あります」
『事後処理でどうとでもなる。いまは彼女をどうにかすべきだろう』

 本当にそうか。それはいま俺がすべきことか。小島はいまも人を踏みつけて焼いている。まるで地獄の鬼のようだ。あんなものを俺はどうにかしなければいけないのか。警察に任せておけばいい。じきにあの法力僧がたどり着く。鬼だろうが悪魔だろうがねじり上げて締め落とす怪力僧が。

 だがどういうわけだろう。鬼の向こうに見えるのだ。陽炎の中に、今にも泣きそうに目を潤ませてこちらを見上げる少女の姿が。

「あー……」

 吐息に似た声が自分の喉から漏れていくのが聞こえた。

 鬼は冷たい目で男たちを見ている。陽炎の少女は目を赤くして震えている。どちらも鋭く、強い。自分の助けなんか必要ないほど力強く見える。それでも、どうしても陽炎から目が離せなくなった。

 風に巻かれて上昇する。炉の扉をめいっぱい開けて、夜空の空気を吸い込む。風に乗って舞い込んだ火花を少し吸い込んでしまう。火種が次の炎を育てる。炎は風を吸って育っていく。

 下の方で怒号が聞こえる。ちらりと見下ろすと、白ジャージの一人がこちらを見上げて指さしていた。その男から視線を滑らせ鬼女を見やる。燃える目が呆然とこちらを見ていた。揺れる瞳の中に自分の姿が映っているのが見える。夜空を舞う鳶だ。巨大な全身は黒い炎に象られ、輪郭は曖昧。紫とも白ともつかない火花が尾を引いて軌跡を描く。

 風をかき分けて少し上昇する。小島を包む炎に向かっていく風を見つけ、全身をそれに乗せる。それまでのゆったりした飛行から、落下よりも高速の急降下へ。下の人々が騒ぎだした時にはもう、彼女の顔が目の前にあった。

「じっとしてて」

 本当に、心からの願いと共に呟く。滑空から両足を前に突き出し、炎のあしゆびで彼女の胴を捉えた。小島が何か言おうと口を開きかけるが聞いてはいられない。速度を落とさず、彼女を傷つけず、その華奢な体を夜空の上に持ち上げた。

 何かが視界の端で光った。横目に飛び込んできたのは、遠くから疾走してくる赤い明滅。目立たない暗色で、大きな鼻を鎧か剣道面のような飾りが覆う大型車。回転灯を頭に乗せた車窓から身を乗り出す、筋骨隆々の大男。口の端から火炎を吐くように無数の漢字を迸らせてこちらを睨むのは、見間違えようもなかった。

「岩見さん―――」
『くそっ、もう来たのか!』

 岩見さんは助手席から半身を出し、左手を腰だめに構えている。弓で狙われる鹿ってこんな気分だろうか。暴力を蓄えたその二の腕を見てぼんやりと考えた。撃たれる。正拳突きに撃ち落される。

「降ろしてっ!!」

 小島の叫びで我に返り、体を捻った。微かな読経の音がわき腹を通過していき、分厚くまとっていたはずの炎の体が爆ぜて消えた。痛みは無い。衝撃も無い。だが翼は力を失い、風が指の間をすり抜けて行った。

 落ちる。

 振りぬいた腕をゆっくりと納め、車内に戻っていく岩見さんの姿が見える。小島花菜実が悲鳴を上げた。彼女はこっちのつま先を掴もうともがきながら離れていく。眼下には彼女の街。上城に比べればずっと暗く、心細い夜景。

『玖条君ッ』

 イヤホンから御犬様の喝が響いた。ひゅっと息を吸い、胸の炉を奮い立たせる。全身の火勢が戻り、姿を取り戻したあしゆびが小島の胴を掴み上げた。

『撃たれたのか?!』
「大、丈夫」

 声が出にくい。一瞬のうちに口の中がカラカラになっていた。

「大丈夫、だ。持ち直した。小島花菜実も無事だ」
『君は彼に捉えられた。すぐにそこを離れるんだ』

 言われなくても逃げる。小島は捕まえて目的は達成した。これ以上、下から狙い撃ちにされるのは御免だ。

「了か―――」

 そう答えて加速しようとして、背骨を引っ張られる感覚に襲われた。ぐいと、骨の一つをわしづかみにされて引かれているような吐き気。

『どうした?』
「……やられたかも」
『なんだって?!』

 下を見る。暗闇と、其処此処で光る人家の火。震えながら足につかまっている小島花菜実。そのさらに後ろを見ると、きらきらと輝く帯が伸びている。帯は俺の背中から遠くへ向けて伸びている。よく見ると帯は一行の漢字が並ぶ線だった。どう読むかはわからないが『真言』や『経』と、見覚えのある字がいくつかある。これは、経文だ。

 目を凝らして地上を見る。経文の細い帯はピンと緊張してその車に続いている。サイレンを鳴らし赤色灯を瞬かせて道を走るそれは、間違いなく岩見さんの車だった。

「捕まってる。岩見さんのだ。撃ち落すつもりはなかったんだ」
『落ち着け玖条君。岩見君の即席モノなら、君は焼き払える』
「……え?」
『全力全開で飛ぶんだ。岩見君は器用だが万能ではない』

 確かに経文は細く頼りない。大男の手で背中を摘ままれている感覚はあるが、その力をつないでいるのはただ一本の線だ。炉を開けてやれば焼き切れるだろう。しかし―――

「だめだ。小島が焼かれる。全力は出せない」

 脚にしがみつく少女が震えている。鬼の形相が抜け落ちてしまった小島の姿は、ただの少女でしかなかった。

「御犬様。悪いが一度降りる。小島を降ろしてから焼く」
『落ち着け玖条君。君の炎は―――』

 返事を待たず下降する。目指すは暗闇の中。人家からも街灯からも離れた田畑のど真ん中。見覚えがある気がする。たぶん三間坂と走り回ったどこかだろう。

 地表数メートルで減速し、まずは小島の脚を地面に乗せる。足から伝わる重みがほぼなくなっても小島はこちらの脚を離さない。よく見ると呼び先が白くなっていた。

「もう降りた。離してくれ」

 彼女ははっとこちらを見上げるとすぐに腕を放し、よろよろと後ずさってしゃがみ込んだ。

 十分に離れたことを確認し、もう一度上昇する。また小島と目があった。鬼の面影は無い。親に置き去りにされた犬猫の風情だ。

 このまま上昇して帰るほうがいい。小島のことは岩見さんが面倒見てくれるだろう。背中につながる経文の糸を辿ると、岩見さんがじわじわと近づいてくるのがわかった。

 大きく息を吸い、吐く。一瞬あたりの田畑が明るくなり、岩見さんの感覚が消えた。もう一度首を廻して背を確認する。辛気臭い念仏の音は消えてなくなっていた。

 一息ついて下降する。小島がじっとこちらを見ているのに気付いた。

「岩見さんが……あの警官がじきにくる」
『玖条君、すぐにそこを離れろ』

 割れたアスファルトに体重を預け、炉を閉じた。辺りの闇がどっと目に押し寄せて小島の顔が見えなくなる。少しして、夜空がぼんやり明るくなるのを感じた。

『玖条君、早く―――』

 イヤホンを外して胸ポケットに放り込む。

「いろいろ聞きたいことはある。でも……」
「捕まるんだよね。あたし」

 以外に落ち着いた声と共に目の前で火が灯る。小島花菜実の右手指五本が火を灯し、目の前に掲げられていた。

「あんなクズ野郎どもはお咎めなしで、あたしは警察に捕まっちゃうんだ」
「……そうだな」

 三間坂の言っていたことは脅しではない。妖怪として人を傷つけた彼女は警察の道理によって裁かれる。御犬様のところに彼女を連れて行く手もあるが、御犬様が警察から彼女をかくまうために支払う対価はどれほどのものだろう。もしそうなったら小島は、御犬様に途方もない貸しを作ることになる。どっちにしろ彼女の未来は決まったようなものだ。

「今夜のことも、そのクズ野郎どもとやらが原因か」

 小島は口の端を釣り上げて見せた。爪の先から火を切り離して人魂を作ると、ひらひら手を振ってみせた。

「あのデカイ人。岩見さん。あの人は頑張ってくれたんだと思う。でもダメだった」
「奴らを抑えておけなかったのか。あの人が?」
「抑えてたよ。でもあの人が帰っちゃったとたん、ぜーんぶ元通り」
「……よっぽどの美人なんだな。君のお友達は」
「夕方、友達から電話が来た」

 小島は畑の際でしゃがみ込んだ。ぽつぽつと開く口は小さく、注意深く聞いていないと聞き洩らしそうな声だった。

「電話かけながら涙声なの。そんで声が聞こえないほどうるさくってさ。バイクの音だよ。あいつらが戻ってきたんだ。あいつら全員であの子の家の周りをぐるぐる回ってるの」

 たぶん岩見さんは御犬様との交渉に応じたんだろう。ひょっとすると小島花菜実の名前を渡したかもしれない。岩見さんは情報を元に、彼女達に付きまとう連中ににらみを利かせたのだろう
 岩見さんがうかつだったのか。それとも監視役が街を離れた瞬間に元通りになった暴走族の連中の理性を疑うべきか。どっちにしろ関係ない。彼らはしたいようにして、その結果小島は鬼にならざるを得なかった。

「どうしてあそこまでしたんだ?」
「どうして、って?」
「上から見た。ほとんど殺しに行ってたろアレ。いままでは火傷程度だったのに―――」
「情けは人の為ならずって、わかったんだよ」

 ボッっと音を立てて人魂が増え、小島は立ち上がった。

「あんな奴ら。終わらせちゃった方が世の中のためだってね」
「……それ、使い方間違ってるぞ」
「あたしはあの警官と戦う」

 少女が目の前を横切っていく。一歩ごとに火の粉が舞い起ち、少女は鬼へと変わっていく。

「あたしの生活を守ることが罪だってんでしょ? そんなこと言うやつら、片っ端から燃やしてやる。みんな踏みつけてやる」

 だん、と合成革靴を叩きつけると、鬼女は舌を見せて振り返った。

「玖条さんはもう帰った方がいいよ。生活、あるんでしょ?」
「……御犬様、聞いてたか?」
『最早、如何ともしがたいな』

 イヤホンをつけると、ため息交じりの声が響いた。

『岩見君は君も逃さないだろう。さっきはなんとか直撃を免れたが次はないだろうな』
「俺もそう思います」
『だが手はある。その場は小島君に任せて、君は林へ向かうんだ。木々の間を飛べば、さしもの岩見君も追いつけまい』
「いいですねそれ」

 目に力を籠め、小島の向いている方を見る。パトカーのサイレンはいつの間にか消え、林の向こうで大人しくなっていた。

「来るよ。行くなら早く行って」

 闇の中を巨体が駆けてくる。身長二メートル近い大男がとんでもない速度で走ってくる。規則正しい呼吸は時計の針みたいに鋭く、汗のにおいもごく薄い。彫刻のような筋肉でスーツを張り詰めさせ駆けてくるその姿は、生きた仁王像とでも言うべきだった。

「行かないよ」

 そうして、林の中に開かれた農道のど真ん中に、岩見経守が現れた。斬るような鋭い目つき。真一文字に結ばれた口元。額も鼻筋も名前の通り岩みたいに固そうで、おまけに今夜は眉間の皺がひび割れのように深かった。

「なら、手を貸して玖条さん」

 小島花菜実が両手を軽く上げ、十本の指全ての爪先に着火する。星明りの中で、細い膝がぶるぶる震えていた。

「あたし一人じゃきつそうだから」
「俺加えても同じだよ、きっと」

 それを見ながら深く、深く息を吸い込んだ。岩見さんはこちらへ向けてまっすぐに走りこんでくる。その視線は鬼と化した小島に向けられている。この暗闇で、俺のことまで見えているのだろうか?

 息を吐く。鋭く素早く息を吐く。全身が発火し、黒く炎が渦を巻く。鬼女の小さな背が飲み込まれて消え、数百メートル向こうの岩見さんが素早く地に伏せた。

 炎が去ると、元通りの小島が立っていた。ふらりとこちらを振り向いて顔を見せる。口は閉じていたが、歯の根まで震えているのがよく見えた。

「そこで休んでて」

 自分でも驚くほど大きな翼が彼女をどける。小島はよろめいて、畑の土の上に尻もちをついた。

「ヤタガラス」

 岩見さんはゆっくりと立ち上がり、良く通る声で言った。

「迷惑をかけたな。犬神にも合わせる顔が無い」
「いくつか確認させてください。いったい何がどうなってるんです」

 翼で小島を指し、ゆっくりと首を傾げて見せる。

「御犬様は貴方に対応をお願いしたはずですが」
「まったく恥ずかしい限りだ。私の力不足が原因だ」

 岩見さんは軽く頭を下げた。

「連絡を受けた限り、彼女が怪我をさせた連中はこの辺りの住民だ。彼らの父兄に警察のOBもいる。その対応のために地元署を離れたが、ご覧の通りだ。面目次第もない」
「では、貴方は非を認めるのですね。御犬様の要請を果たせなかったことを」
「もちろんだ。後日謝罪に伺う。だが―――」

 彼は静かに顔を上げ、ゆっくりとこちらへ向かって歩き出した。

「彼女は確保せざるを得ない。事情はどうあれ、彼女は人を傷つけすぎた」

 一歩、一歩と距離が縮んでいく。そのたびに何かが全身を押してくるような気がした。

「岩見さん、止まってください。彼女の件は御犬様が預かったはずだ」
「すまない。本当に。だがもう無理なのだ」

 岩見さんの顔は苦々しく歪み、大きな上背は縮こまっている。しかし、打ち込むような足取りは止まらなかった。

「私は秩序に身を置く妖怪として、彼女を捕らえなければならない」
「警察はどうするんです。OBの口利きでストーキング行為を見逃すなんて、汚職もいいところじゃないですか」
「専門の部署に依頼した。早急に対応させる」
「どうして二日間でそれができなかったんです」
「すまない! それしか、言葉がない!」
「止まってください。申し訳ないと思うなら!」
「それはできないのだ!」

 じわりと、岩見さんの目じりに涙が浮かんだ。

「彼女は重軽傷者三名を出した。余罪も十数件に及ぶ。この場で私が捉えなければ、本庁が出てくるだけだ。その子はもう、討伐対象なのだ!」

 討伐対象。御犬様にも、三間坂にも聞かされた。妖怪は人間でもある。だが警察やそれに関わる団体が手に負えないと判断した者は、害獣のように狩りたてられることになる。そこには一切の人権はない。妖怪のしでかすことが科学で証明できないかわりに、妖怪を保護する法律はどこにもないのだ。

「あああああ!!」

 鬼女が叫び、飛び上がった。身を守る様にいくつもの火の玉が浮かび、さらに突き出した十指に鋭い焔が灯る。中の人魂が十、二十と中空へ飛び出したかと思うと、めちゃくちゃな軌道を描いて岩見さんへ突進した。

 大男が静かに腰を落とす。

「唯、務めるのみ」

 夜の闇の中で大男の影は何かの石塊にしか見えない。組み合わせた両手の指で口元を隠し、岩見さんは炎の群れをまともに受けた。着火し、燃焼する。人の姿をした炎が畑を照らす。だが―――

「カァ―ッ!!」

 それも一瞬のことだった。脳震盪が起きそうな気合と共に飛び上がり、長い手足を振って火を吹き飛ばす。猫のようにしなやかに着地したその巨体からは、煙一つ立っていなかった。

「一度は約束を違えた。いまさら信用してもらえないとは思う」

 岩見さんは静かに立ち上がって目元を太い指でこすると、まっすぐに鬼女を見据えた。

「だがチャンスが欲しい。私に着いて来てくれ。悪いようにはしない」

 有無を言いようがない。静かに落ち着いていて、しかし一部の隙も無い声音だった。鬼女はずるりと膝を曲げ、再び畑の土に落ちていった。

 彼女の火が消える。あたりが暗闇で満ちる。岩見さんのため息が重く広がった。

「少しの間、東京の上城署に来てもらう。君を信頼できる所で教育してもらえるよう手配しよう」

 それはどこだろう。八ヶ岳だろうか。高野山だろうか。神室山の仙郷だろうか。いろいろ噂ばかり聞くが、どこだろうと同じだろう。彼女は知らない土地に連れ去られて生きていくことになる。彼女の自由も意思も関係ない。彼女がしでかしたことを考えれば、報いと言えなくもない。

「その前に、少しいいですか」

 全身の炎を広げる。黒い炎が辺りを紫に照らしだした。

「彼女のことは、御犬様とのやり取りが終わった後にして頂けませんか」

 これはやりすぎだ。仕事としてはあまりにも割が合わない。

「そもそも彼女を見つけたのはこっちが先なんですよ。事態はさておき、彼女に関する権利はこちらのものです」

 それでも、彼女がこの先負うもののことを考えると、どうしても納得がいかない。

 岩見経守は静かに体をこちらへ向けた。それだけの仕草で、台風の中に放り込まれたような圧を全身に感じた。

「そうだな。権利の主張は問題ない」
「では譲っていただけるので?」
「そう思うか?」
「……いただけないので」
「ヤタガラス。君がそれを主張するならば」

 大男の吐息が微かに色を帯びる。呼吸と共に馴染みのない文字が彼の周囲に転がり出てつながっていく。

「私と君と。現場担当者同士の交渉だ。そして私は自分の責任の元、彼女を譲るつもりはない。犬神に任せてはおけない」
「はは……」

 思わず笑いが漏れた。御犬様が女子中学生の今後をしっかり守ってくれるかと考えると疑問だ。俺が体を張っても彼女のためにならない結果になる可能性は十分ある。それに本職の、妖怪として生活している人間の本気を正面からぶつけられるのは、初めてのことだ。小島花菜実が受けた衝撃は、こういうものだったのだ。笑うしかない。岩見さんには地元で世話になっている。通学路で話をすることもあるくらい、馴染みがある。頼りにもしている。けど正対すれば、こうなのだ。顔が怖い。体がでかい。握った拳が凶器にしか見えない。一秒でもこの男の前に立っていたくない。それでも―――

「仰ること。よくわかります」

 彼女よりは俺の方が、まだ分がある。そんな気がする。

「やるのか。私と」
「大変、不本意ながら」

 言い終わるまで待っていてくれたのは、彼なりの義理立てだろうか。最後の一言を言い終え、こちらが一呼吸した。その瞬間、彼の踏み込みが光を帯びた。空を飛ぶために強化された自分の目が、信じられない光景を伝えてくる。法力僧と名付けられた熟達の妖怪。その身のこなしを克明に、ゆっくりと伝えてくれる。

 彼の呼気と共に何らかの経文が練り上げられ、その全身を具足のように締め上げる。数十メートル離れていたはずの巨体が大地を蹴って滑り出し、正面から土砂崩れのように降ってきた。引き絞られている右腕は分厚い胴体に遮られて見えない。巨体が迫る。その肉体の影から輝く拳が夜明けのように顔を出す。時間にしておそらく一秒半の正拳突き。間合いも標的もまとめて刺し貫いていく。その速さ。その正確さ。これが職業妖怪―――!

 だからこそ、こっちも飛行計画を立てることが出来た。

 身にまとう炎の全てを大地へ叩きつける。宙に上がり、こちらより百倍遅い彼の拳を追い越して広い背中へと回り込む。自分を打ち上げた衝撃が道路を、畑を、小島花菜実を襲い、吹き飛ばしてしまった。

「速いなぁ」

 彼は背中を炎のあしゆびで掴まれながら、振り返って微笑んだ。自分では頷き返したつもりだが、実際にできたかどうかはわからない。格闘の達人の背中を捕獲したまま、速度を上げて夜空に飛び込んでいくので頭がいっぱいだった。

 梢の線を超える。山の稜線を超える。街の光を踏みつける。周囲に青い線が見えはじめたところで、上昇するのをやめた。

「……壮観だな」

 岩見さんは宙づりのままで腕組みし、ぽつりとつぶやいた。

 正面に黒々と太平洋が広がっている。あとにしてきた陸地は貧相なまでに細く、日本海との間で海にのまれてしまいそうだ。その向こうではユーラシア大陸がもっと濃い暗闇の中に沈んでいた。顔を上げれば弧を描く青い線がどこまで続く。

「君はいつでもこの景色を見に来れるのか」
「用が無ければ来ません。あまり派手に動いて、誰かに見つかっても嫌ですし」
「賢明だな」

 少しの間、地球の丸みを眺める。岩見さんは感心したように辺りを見回していて、なんとなく声をかけづらかった。

「岩見さん。降参してもらえますか」

 ようやく決心してそう言うと、彼は肩をゆすって笑った。

「もちろんだ。君の実力を見せてもらえたのだから、私の成果として文句はない」

 しまった。しくじったという思いが脳裏を飛び回る。

「それに不手際をしたのはこちらだ。本当ならこんなことなしに、彼女は犬神に任せるべきだった」
「あくまで本庁対策ですか」
「この景色を拝ませてくれたことまでは言わんよ。ただ『上城のヤタガラスには追いつけなかった』とだけ報告する」
「……商売がやりにくくなります」
「困ったらうちに来なさい。高くはないが、給料は出る」

 溜息と共に高度を下げる。星空はそのまま、足元の景色だけがどんどん大きくなっていく。

「俺は身一つで生計を立ててみたいんです」
「妖怪稼業は厳しい。やめた方がいい」
「百目鬼にも同じことを言われました」
「成程、彼らしい」

 林の中の畑が見えた。小島花菜実がこちらを見上げている。小さな両手が泥汚れだらけだった。減速し、少し離れた道路上めがけて巨体を放る。岩見さんは危なげなく着地し、大きく肩を廻した。

 小島が体をすくませて後ずさる。その目の前に着地し、翼を広げた。

「話はついた。君のこれからについては御犬様と話し合うことになった」
「え―――」
「小島……いや、人魂よ」

 岩見さんが大きな声で彼女を呼んだ。

「君は人を傷つけた。本来であれば刑法に問われるべきことだ。だが、これ以上追求しないことになってしまった」

 彼はそう言ってこちらを指さした。

「君のしたことを忘れないで欲しい。私もできる限り覚えていよう。そしてヤタガラス。お前もだ。お前は傷害事件の容疑者をかくまうのと同じことをしたのだ」
「しっかり日記につけておきますよ」
「うむ。では」

 スーツの襟を正し、彼はゆっくりと歩いていった。その大きな背中が林に消える。サイレン音が響き渡り、彼の車が離れていくのを確認してようやく、全身の炎を脱ぎ捨てた。

 なんとかなった。溜息をついてはじめて、自分が震えているのに気付いた。膝が笑っている。腿をなんどか叩いて、ようやく足に血が通った気がした。

 ついと、服を後ろに引っ張られてふりむく。小島花菜実が微かに眉を寄せてこちらを見上げていた。

 御犬様は彼女をどうするのだろうか。三間坂のように、自分の手元に置いて修行させるのか。あるいは監視をつけて自由にさせるのか。それよりも、彼女はこのままこの町で暮らしていけるのだろうか。彼女が守りたかった友達と、この先一緒にやっていけるのだろうか。

 そこまで考えたところで、足元の惨状に気付いた。岩見さんに勝つ一心で無茶な動きをしたせいで、アスファルト道路が泥をかぶってめちゃくちゃだ。畑も爆風に巻き込まれて酷い有様になっている。何も植えられてなかったのは不幸中の幸いだろう。

 ポケットから携帯電話を取り出し、小島に向ける。

「あとはよろしく」
「……え?」
「俺が出来るのはたぶんここまでだから。あとは君がいいと思うようにすればいい」

 電話帳を操作して御犬様を呼び出しながら辺りを見回す。少し離れたところに、吹き飛ばされたらしい箒を見つけた。

「俺は後片付けしなきゃだから。何かあったら言って」

 ■

 夜風が上城に降りていく。北関東から吹いてきた風の一筋が、神社の有る小山にめがけて垂れこめていた。そこを狙って翼を傾け、急降下に移る。背に乗せた三間坂が何か言いかけたが、止まらずに速度を上げた。眩暈がするほど眩しい街の明りが迫ってくる。肩身の狭そうな山の暗闇に向かって飛び込み、木々の間に入ったところで速度を殺した。

「到着。周囲に人影なし」
「……玖条、おまえ、わざとやってるだろ」
「機内アナウンスの分の代金払ってくれるなら考えるよ」

 着陸して翼をほどくと炎が散り去っていく。入れ替わりでじわりとした湿り気が肌にまとわりついてきた。夏の暑さが近づいているのを感じて嫌になる。

 三間坂は文句を言いながら背を降りると竹やぶに踏み込んでいく。あたりに立ち込めた濃いもやを合掌して打ち払い、こちらに手招きした。二人して小走りでもやの間を抜けると、御犬様が隔離する境内に入った。ここは外より少しだけ空気が澄んでいる気がする。湿気も落ち着いているような感じだった。

「そうだ。明日でいいから数学のノート見せてくれないか」
「いいけど、テストまだだぞ」
「いや、どうもわけわかんなくなっちゃって―――」

 足を止めて辺りを見回す。何かが視界の端でちらついた気がした。三間坂が即座に察して百目を現し、周囲へ走査線を走らせる。

「……誰もいない。けど何かある。三……いや四」
「逃げるか?」
「下がってろ」

 三間坂はジャケットから小石を取り出し、指に挟んで構えた。俺はいつでも脱出できるよう翼をまとう。三間坂の線が走り、両手の構えが弓を引くように狙いを絞っていく。

 微かにあざ笑うような声が響いた。

「この程度でブルっちゃうの?」

 覚えのある女の声に思わず翼を畳んだ。

「小島さんか」

 中空からゆらりゆらりと、火花を散らす炎が降りてくる。四つの炎がばらばらに揺らめきながら高度を落とし、獣道の上で人の姿を作った。

「ちっす」

 ジーンズのトップスにレギンス姿の小島花菜実が、肩より長めの黒髪を揺らして立っていた。三間坂が一歩前に立って会釈した。

「お久しぶり。その節は―――」
「大変だったよマジで。なんで来てくんなかったの?」
「……外せない、別件があって」

 一か月ほどしか経っていないが、小島はずいぶん大人びて見えた。私服のせいか。それとも少女の成長の早さか。彼女は三間坂を適当にあしらうとつかつか歩み寄ってきた。

「で、そっちのほうは挨拶なしなの?」
「元気そうでびっくりした。お友達は大丈夫か?」
「お陰様で何事も無し。直接は話せてないけどね」
「……引っ越したのか」
「あたしだけね。両親は仕事あるし」

 三間坂と顔を見合わせる。彼は小さく首を振った。三間坂が知らないとなると、御犬様と警察だけで手を打ったらしい。

「いまは瑠璃中に通ってんの。わかる? 川向こうの」
「知ってるよ。行ったことはないけど」
「どこから通ってるの? こっちに親せきがいたとか?」
「教えなーい。家、押しかけられても困るし」
「そんなことしないよ」
「どうだか」

 小島はけらけらと笑いながら三間坂を突き回している。だが目じりが少し赤い。疲労のせいだろうか。あるいは他の何かか。中学一年で親元と故郷から離れての生活。自分だったらどうだろう? 爺さんの家だったら文句はないが、誰も知り合いがいないとなるとやっぱり寂しいんじゃないだろうか。

 だがとりあえずは、問題なさそうだ。作り笑いをする元気もあるし、さっきの人魂を見たかぎり妖怪としても訓練を続けているらしい。あの時の、まさしく鬼女といった感じの鋭い眼差しは感じないのだから。

「さ。仕事のあとなんでしょ? ワンちゃんに報告してきなよ」
「小島さん。それ禁句」
「えーだってかわいいじゃん。本人の前じゃ言わないからへいきだよ」
「この境界の内側。彼の体内だと思った方がいいよ」
「……マジ?」

 三人連れだって獣道を登りはじめる。普段は真っ暗な夜道を自分の目で登るが、今日は人魂が行く手を照らす。焚火が燃えるような光がゆっくりと先導してくれる。その火の赤の中に、バイクや人を焼いていた彼女の火の色を重ねてみたが、色味が合わない気がした。もちろん、ひと月も前に見た色をはっきり思い出せるほど記憶力は良くない。けど何か違う気はする。それとも、違うと思いたいだけなのか。

 続けざまに岩見さんの言葉を思い出す。

 君のしたことを忘れないで欲しい。

 それは小島花菜実と同時に、俺にも向けられていた言葉だったかもしれない。あの日俺は、妖怪として金を受け取って仕事をした。一人の妖怪の将来を決める初仕事だった。けっして上手くいったとは言えない。むしろ、あんな仕事は二度としたくない。それでも一人で生計を立てたい以上、今の俺には妖怪稼業しかない。割には合わない。苦労の方が多い。それでも前に進む糧にはなっている。それはたぶん、彼女も同じだ。

 夜も更けてきた。中学生を呼び止めるのは気が引ける。でも、ちょっと時間をもらいたい。小島花菜実はあの日のことをどう覚えているんだろうか。どうしてもそのことを、聞いてみたいのだ。

【終】

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