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漫画#1 ブルーピリオド

芸術は遠いところにあるのか

記念すべき第1弾は、つい1週間前に15巻まで一気読みしたブルーピリオド。勝手に高校生の青春物語だと思っていたので、あっという間に藝大編が始まったことに驚いた。

東大と藝大

漫画のなかでも触れられていた、藝大はどう難しいかという話。
僕が思うに、東大は「書かれたものを正しく理解して、万人に分かるように表現できるか?」という要約力を試されている。解法を思いつくか否かという違いが数学にはあるにしろ、点数という絶対的な基準で判断しなくてはいけない以上、入試における頭の良さとは「知識をできるだけ多くインプットし、その場に適した形でアウトプットできる要領の良さ」と言ってもいいだろう。(センター9科目で8割取ってくる時点で要領よくないとできない)

一方の藝大は、明確な「正解」がない分、さらに難しい。つまり、これが自分にとっての「解」なんだと、そしてなぜ「正しい」と思ったのかを「言葉以外」で伝えないといけない。
主人公(というより作者)が論理的思考で藝大に受かっており、実際には僕には想像もつかないような「天才」タイプが多いのかもしれないが、作中の課題への取り組みを見ていてそう感じた。


絵画はなぜ分かりにくい?

フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」はなぜ評価されているのか?
ラピスラズリの色使いが目を引くから、モデルの表情が印象的だから、単純に絵が上手いから、それとも皆が凄いと言うから?
解釈が一面的でないということは、物事を理解しようとする上で尻込みをする一因になる。
自分の知らない物差しで測られて、評価されてきたものを漠然と受け入れることはできても、より関心を持って理解することは疲れる。

フェルメールの例で言えば、歴史的な背景を学ぶことで少しは「分かった」気になれるだろう。
元々、貴族階級に支持されていた画家たちは、17世紀に多くの都市が共和制になったためにパトロンを失い、新しく東インド貿易会社などビジネスで権力を得た商人階級を新しいパトロンとしたこと。商人らは画家に対して、自分たちの生活が絵の中に描かれることを望み、「真珠の耳飾りの少女」に登場するターバンはその象徴であること。


名画には名画たる理由があるが、それはひとつでは無いからこそ分かりづらい。理解するには教養が必要である。
その一方で、なんとなく「いいな」と琴線に触れる感覚も立派な鑑賞方法であり、美術展に「行って、見た」こと自体にも価値があると思う。

芸術に何を求めるか

僕は上野で開催される美術展にはよく行っていた。前提知識なく、キリストの賛美歌を聴きながら宗教画を観たり、知らない時代の知らない村で踊る娘たちの絵を観るのが好きだった。(逆に王様の自画像は好きではない)
僕にとって絵画(と美術展)は「非日常にタイムスリップ」できる素敵な空間であり、一生混じり合わない時代に憧憬の念を抱くこと自体が楽しいのだ。

その一方で、最近読んだ「13歳からのアート思考」は、いままで知らなかった物差しを教えてくれるいい本だった。
画家の思考に迫る、「その当時の常識への挑戦」というテーマは、なかなか新鮮な物差しだ。


結局、絵画はなくても困らないけれど、好きなように解釈して自分勝手に生活を豊かにできるものなんだと思う。


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