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中学の最寄り駅で四面楚歌


  先日、久々に地元の友人とご飯を食べようとなり、中学校の最寄り駅に寄った。地元の人はまだその辺りに住んでいる人が多いが、私は高校に入ったタイミングで引越しをしたのでその駅を利用するのは、ほぼ中学生ぶりだった。


  いざ、その駅に到着し、その駅に足を下ろす。その途端、懐かしさを感じたと同時に、この駅は地元の友人が利用することが多いから、知り合いにあってもおかしくないのかと考えた。


  私はよく、仲のいい友人から、「この前駅で〇〇と会ってさ!」というような話を聞く。だいたいその話に出てくるのはこの駅だ。私は知り合いと駅で会うということが正直嫌だった。仲のいい友人に会えたら、嬉しいし、話のタネになりそう。だけど、会って話すのは中学以来というような知り合いにあっても、正直あまり嬉しくないし、その状況がしんどそうだなと思ってしまう。


  久々に会って、お!〇〇じゃん!となっても話を広げられる自信も、広げてもらった当たり障りのない話を楽しむ自信もないし、その人が今何をしているかなんてものはインスタやTwitterを見ればだいたいは分かる。見たくなくても、各々が見せあっている状況があるからこそ、そんな仲良くない人でも聞かなくてもある程度の情報は知ってしまっている。


  そして何より、あ、〇〇がいるなと認識しつつ、お互い何も言わないですれ違ったりすることが1番きつい。昔はたまに話したけど、こんだけ会ってなきゃ他人みたいになってしまうものかと納得してしまい、落ち込む可能性も大いにある。


  ということは、会って、話しても話さなくても基本苦痛なのだ。という極論にたどり着いてしまった。


  今、私は大学生で、大学では仲のいい友人とよっ友と呼ばれる、何回か顔を合わせたことはあるけど、会っても挨拶を交わすだけの、そんな仲良くなってない人が居る。


  地元の最寄り駅はそのよっ友で溢れているような感覚がした。今日の講義は仲良い人は休みで、自分1人。大学に行ってみたら、あまり話すことの少ない知り合いが沢山いる。そんな状況に似た感覚がして、とてもストレスに感じた。


  そんなことを考え、誰もいるなよと思いながら、その駅を脱出。駅で待ち合わせをしようとしてたが、そこに滞在する時間が長ければ長いほど、誰かと会う可能性が上がる。そのため、近くの書店に逃げ込んだ。実際、この一部始終で誰とも会うことは無かった。


  特に、私は人の目を気にしてしまいやすい性格で、被害妄想が激しい自意識過剰の人間のため、こんな風に思ってしまったのだと思う。考えすぎかもしれないが、似たような経験をしたことがある人はいると思う。


  実際、今中学校の思い出を思い出しても、とてもいい思い出としか思い出せず、嫌な思い出なんてない。だからこそ、今誰かに会い、美化されているその思い出に傷がつくのが嫌なだけなのだと思う。


  この経験を今、文字にしてみて、自分の考えに嫌気がさした。過去を大切にするのはいいことだが、もしそうなったらと想像だけして、嫌なことから逃げているだけだ。


  早く成長をしたい。

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