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日常の中にある非日常

 ここ最近、自分が好きなものは日常の中の非日常なんだと気付く出来事があった。

 名前を出したくないアレによる各イベントの自粛中止や最近買ったパワプロのあるモードを遊んでいる事によって気付いた事ではあるが、自分の仕事がどうにか惰性で続くのはその日常の中の非日常があってこそ、という事を。

 そして、先週の金曜ロードショーにて放送された映画、「コクリコ坂から」にて、よりそれを強く理解した。

 というのもこの映画、1963年の横浜を舞台にその当時生きた人々の日常生活を織り交ぜつつ、学生寮「カルチェラタン」の取り壊しに抵抗する学生の奮闘と主人公の松崎海と風間俊の恋愛模様を描いている。

 そんな映画のどこに非日常を見たのかといえば、まず、カルチェラタンでの学生の生活と取り壊しに抵抗するシーンもそうなのだが、その取り壊されそうなカルチェラタンという建物自体実在しない建物なのだ。

 にもかかわらず最初からここにあったかのように鎮座している。そしてそんな建物で何事も無く文化部の面々がそれぞれの活動に身を投じ、日常を送っている。くり返しになってしまうが、この建物は実際には無いのだ。

 一方の日常では、戦後の復興から当時の景気に乗って活き活きとした人々の様子のほか、このころを色濃く映し出す物や言葉が所狭しと流れてくる。釜で炊くご飯に翌年に控えたオリンピック、ナガシマ、クラウンの他はスキヤキ… ごめん、坂本九の上を向いて歩こう、だ。

 他にも海と俊の関係にまつわる話でもある意味彼らの中では非日常というか、受け入れられないような戸惑いを表す際に俊が発した言葉でもそれがわずかながらに見受けられる。正直に言えばあの状況であの発言ができる俊は凄いなと思う。

 最終的にカルチェラタンは学生の整備清掃と理事長の取り計らいによって存続され、彼らは自分たちにとっての非日常を守りきったと言える。そして、俊と海の関係についても複雑ではあるが、世間一般に理解される関係として収束する。

 この複雑な関係について言及すると、今の時代からしたら非日常なのかもしれない。しかし、当時の事を踏まえて言えばあれも彼らにとっては日常だったのだ。

 日常があるからこそ、非日常を守っていける。この映画はそのことを遠まわしに教えてくれたのだろうと思った。変な言い方ではあるが、今放送して頂いたことは自分にとってはとても有意義であった。

 そして、自分の場合はどうだろうかと考えた。今まで世間一般で言うオタクのイベントに無計画に飛び込んで、その空気を楽しめていただろうか……そして、その日常の中の非日常を守ったりできているのだろうか、と。

 そう考えるうちにささやかな目標がまた一つ増えた。名前を出したくないあいつが収まったら、その日常の中の非日常を楽しんでやろう、と。


(見出しの写真は昨年末のコミケのついでに撮影したものです。念のため)

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