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投影された夢(問題)を消失する光の投射について

まずはじめに

今回は、ヴェーダンタ哲学だけの解説では複雑な時代を生きる現代人の私たちにはわかりにくい…

当時のヴェーダンタ哲学に数論となるサーンキヤ哲学で補足しても、不二一元論を言葉で言い表すことは難しいことから、少しだけ現代的な心理学の考え方を使ってアクセルを踏み込んで解説してみようと思います。

純粋意識を光とすると

プロジェクターによる投写

私たちは、ヴェーダンタ哲学でいうところの「夢」という幻想を「現実」であると錯覚している、つまり、無智であると(仮定)します。

上の「プロジェクターによる投写」で喩えるならば、純粋意識の光(ブラフマン)を原因として、プロジェクターという無智(間違った想念)によって投写された3D現実の登場人物の一人として私たちは生活しているとします。

根本的な問題は、つまり、投写された【3D現実の登場人物の一人として生活している】と信じている錯覚を生み出しているのは、【プロジェクターという無智】なのですが

そのことに気づかれないように、登場人物同士がお互いの問題を「投影」することで、この世界がリアルであるとの錯覚を強化します。そもそもの根本的な問題は、【プロジェクターという無智】というシステム(想念システム)を採用していることをすっかり忘れて、目の前の相手や会社や何らかの状況もしくは政治や世界に対して、自己選択を放棄しながら他者の選択に責任転嫁していると言えます。

なんか途方もないことを読んでしまった、と思われているかもしれませんが大丈夫です。あくまでも、まだ、仮説の段階ですので、安心してください。このまま、夢の登場人物として繰り返される「問題」を楽しむ自由は残されています。

それに、今からご提案することは、いきなり、根本原因である【プロジェクターという無智】を破壊するということはできませんし、「悪夢」から少しずつ「幸せな夢」へと目覚めていくためのものです。

つまり、繰り返される「問題」を消失させるヒントを授けることになるのですが、しかし、この「問題」とはさまざまな「顔」もしくは「形態」で次々と手を代え品を変え投影という影として現れますが、タマネギの皮を一枚ずつ剥ぐように気長に取り組む忍耐が必要だと思います。

さあ、ココで、選択です。

繰り返される「問題」を消失させるヒントがお望みなら【赤のカプセル】としてこのままお読みください。夢の登場人物として繰り返される「問題」を楽しむ自由を選ぶなら【青のカプセル】としてこのページを閉じてください。

私たちは何者か?

■ウパニシャッドに書かれていること

『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』と並び、最初期・最古層のウパニシャッドとされる『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』から引用してみたいと思います。

ヤージナヴァルキァ師が王様やバラモンそして妻マイトレイーとの対話で「アートマン(真我)」とは何か?を説いていく奥義書になります。ただし、私にとって、第一篇に述べられている「プラジャーパティ(創造主・純粋意識)が世界を創造した」とする考えには懐疑的です。

太初に、この世にはただ人間の形をしたアートマンが存在していた。

『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』1.4.1

太初には、この世は実にブラーフマンのみであった。それは自分自身を「我はブラフマンなり」と自覚した。

『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』1.4.10

このアートマンからすべての機能、すべての世界、すべての神々、すべての存在物が諸方に出ていくのである。

『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』2.1.20

つまり、私たちは、ブラフマンでありアートマンであるということなのですが、自らがアートマンであることをどのように知るのかについての問いをバラモンのひとりであるヴィグダ師にヤージナヴァルキァ師が答えるのが以下となります。ちなみに、私は、先ほどのプロジェクターの喩えでは、純粋意識の光がブラフマンでありその延長された光がアートマンだと思っています。

しかし、このアートマン(真我)は、「これではない(ネーティ)」「これではない(ネーティ)」として説明されるものである。知覚されることがないもの故に、不可知なものである。衰えることがない故に、不朽なるものである。何かに繋がれることがない故に、無着なるものである。無縛なるものであり、畏れを知らず、害されることもないものである。

『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』3.9.26

ヴェーダンタ哲学では、有名な「ネーティ・ネーティ・ブラーフマン」としてタマネギの皮をむくようにして「これではない、これではない」で最終的にむけるものがなくなったものがアートマンであるとのことですが

ココで先ほどの【プロジェクターという無智】という喩えを思い出して欲しいのです。【プロジェクターという無智】によって相手や世界に対して投影された問題を「現実に起きた問題」として関わることで夢の登場人物というシステムに巻き込まれているという仮説です。

私は、長い間、この「現実に起きた問題」を単純にまず「これではない、これではない」と否定して、もしくは、拒否してその「問題」に対してアクション(反応)していていました。しかし、同じような「問題」は継続している、つまり、宿題の答をきちんと解答していないことに気づきました。

どういうことかといいますと、【プロジェクターという無智】によって相手や世界に対して投影された問題を拒否していただけで投射による意識の光を当てて消失していなかったのです。

以前の「反応する習慣を変える意志の力」でチャーンドギヤ・ウパニシャッドを引用したことを思い出すと「同意された事柄は、すなわち、成就されたことになるのである」が欠けていた。つまり、【プロジェクターという無智】による間違えは成就させていなかったのです。

私は、【プロジェクターという無智】による投影を拒否しながら同意していたんだけど、それを、【プロジェクターという無智】による投影を純粋意識の光(ブラフマン)で投射し成就させた上で「これではない」とタマネギの皮をむくようにすると、世界が今までとは異なって見えるようになりました。

このことについて、ヤージナヴァルキァ師が妻であるマイトレイーへ以下のように伝えています。長いけど全文のせますね。

さて、ヤージナヴァルキァ師には、マイトレイーとカーテヤーヤニーの二人の妻がいました。マイトレイーの方は絶対者ブラーフマンについて夫と議論するような妻でしたが、カーテヤーヤニーの方は家事だけをする普通の女でした。ある日のこと、ヤージナヴァルキァ師は別の生き方をしたいと思いました。

そこでヤージナヴァルキァ師は「マイトレイーよ、私は今の生活を捨てて遊行の旅に出ようと思っている。だからお前とカーテヤーヤニーをおいてゆくので許してもらいたい」と言ったのです。

そこで直ちにマイトレイーが言い返しました。「あなた、この世の中のすべてに私の財産が満ち溢れているとしたら、私はそれらの財物で不死の人間になれるのでしょうか、それともなれないでしょうか?」
「なれないだろう。お前はこの世で多くの物を所有している者たちと同じようになってしまい、それらの財物の力で不死の人間になることなどできなくなるはずだ」とヤージナヴァルキァ師が答えました。

すると、マイトレイーがこう答えました。「それでは、私は、自分を不死にさせてくれないような物をあなたから残されても、頂くわけにはいかないでしょう?どうか私に、あなたがご存知の(それこそ私たちを不死の者にさせてくれる)ものをお教えください。

ヤージナヴァルキァ師が答えました。
「確かに、お前は私にとって愛おしい存在だったが、今更ながらお前が愛おしくなってきた。だから、お前がそうして欲しいならば、今からそのことについて話すことにしよう。私が話した通りに瞑想を施すがよい」
かくしてヤージナヴァルキァ師は次のように語ったのです。
「まことに、夫であるが故に愛おしく思われるのではなく、真我(アートマン)が愛おしい故に夫が愛おしいのである。
妻であるが故に愛おしく思われるのではなく、真我(アートマン)が愛おしい故に妻が愛おしいのである。
息子たちであるが故に愛おしく思われるのではなく、真我(アートマン)が愛おしい故に息子たちが愛おしいのである。
財産であるが故に愛おしく思われるのではなく、真我(アートマン)が愛おしい故に財産が愛おしいのである….省略
マイトレイーや、真我こそが眼にされるべきであり、耳にされるべきであり、考えられねばならぬのである。真我を認め、耳にし、熟考の対象とする時に、一切は悟られ(意識化され)るのである。

『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』4.6.1-6

最後の知覚はされないはずの真我を眼にし耳にし考えろというところは一見矛盾しているようですが、たとえば、夫に意識の光を当てて(投射して)真我を眼にし耳にし考えろということだと思います。

最後に

今回は、影の「投影」ではなく「投影した影」を意識の光で「投射」して「投影」することとなった「間違った考え」を“AUM”オウと同意してから「投影」した問題に対して適切な反応(アクション)を施すことについて、お昼を食べることを忘れるほどに集中して書いていました。

そういえば、私もヤージナヴァルキァ師のように老いてから遊行したいと先生に話すと、絶対ダメだお前はヨーガを教えろ!と怖い顔で話されましたっけ。だから今、こうして“note”に書いています。

次回は、残存印象(サムスカーラ)とカルマについてかな?

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