反応する習慣を変える意志の力
まずはじめに
以前に、『行為の結果となる運命をカルマヨーガで紐解く』にて、マザーテレサさんの言葉を引用し、思考が言葉に現れ言葉に行動が現れ行動は習慣になり習慣は性格になって性格はいつか運命になる、ということについて触れました。今回は、望まない習慣となっている行動・言葉・思考を意志の力にて変える力の重要性について、ごく簡単に触れてみたいと思います。
意志の力が鍵を握る
■アビヤーサ(勤修)はジュナーナ(智慧)までの道
以前に、『行為の結果となる運命をカルマヨーガで紐解く』にて、以下のように引用しました。
智慧とは、確かに、勤修といわれている繰り返しの練習より優れてはいるのですが、智慧へと至るまでには勤修が必要であることは必須となります。または、勤修なしでは智慧へと至ることはないことが以下のウパニシャッドに述べられています。
木の中に潜む火の姿を、空気の中の水を、顕わにするように、私たち人間の中に潜む神様の智慧という火を顕すための秘訣を述べております。ここでは、瞑想において繰り返し熟考して火を熾して智慧を思い出せ、ということですが
思考であれ言葉であれ行動であっても、すべてが何らかの状況に対しての「反応」が過去において印象づけられた記憶に影響されてのパターン化された、もしくは、条件付けられたものである限り、「心素」の働きを止滅したことにはなりません。
自らの「反応」がどのようなものであるのかを観察する視点が必要であり、観られている「反応」を自らの運命(輪廻転生)の原因としての思考や言葉そして行為を素直に、今はこのような「反応」をしているのだと受け入れることになります。この訓練が、「観るもの」と「観られるもの」の「識別智(ヴィヴェーカーキャーティ)」となります。
「識別智」の訓練は、肉体の「反応」についてはアーサナ、肉体の中の呼吸に関してはプラーナヤーマ、感情や思考そして記憶に結びついての「反応」については瞑想だと、大まかに言えると思います。
■聖音アウンは阿吽(オウ)という成就された同意
「観るもの」と「観られるもの」の「識別智」にて、とても重要なのが「聖音アウンを上に摩擦木として」となります。摩擦木がなければ智慧の炎は蘇りませんので智慧へと至ることがありません。
そこで、このチャーンドギヤ・ウパニシャッドに述べられたことがシュヴェターシュヴァタラ・ウパニシャッドの「聖音アウンを上に摩擦木として」についての奥義が述べられています。
ごく簡単に解説しますと、たとえば、アーサナにおいて、「観るもの」と「観られるもの」の「識別智」という智慧を用いながら、「観られるもの」である肉体に対して緊張と弛緩を繰り返し意図的に刺激を与えている時に
「オウ」という同意ではなく、「これは違う」とか「これはダメだ」などのように不同意や異論、反論を摩擦木としたならば、アーサナという行為そのものが成就することはなく不燃焼なままくすぶることになってしまいます。
これは、プラーナヤーマにおいても瞑想においても、ごく普通に暮らしている日常生活においての状況に対する「反応」でも同じことです。「これじゃない」や「こんなことはあり得ない」などの「反応」の代わりに、自分にとって都合が良いとか悪いとかは脇に置いて、「オウ」と同意してその事実を成就させてから適切な「反応」をしていく訓練をアビヤーサしていこうとするのが保守本流のヨーガ行者のメンタリティでありスピリチャリティーになります。
この「反応」の仕方をアビヤーサにて「オウ」という同意して繰り返すことはとても意志の力が必要であり、長い期間はかかりますが、結びつくものがより強さをもたらすものへと変換され、最終的には、ごく自然と呼吸をするかのように努力はなくなり、あたかも夏の日に静かな小道を運ばれていくかのように優しく導かれていくことになります。
最後に
ヨーガにおいて、スートラやウパニシャッドのように教科書的な聖典はあるのですが、現代の教科書やマニュアルのように関連づけられたわかりやすいものではなく、後々に注解された教科書もあるのですがそれも学者さん方の研究用で難しい内容になります。
ですので、パズルを組み立てるかのように自らで聖典を読み込みながら、上記のようにアビヤーサして少しずつ智慧を身につけることが重要になります。学者さん方は、頭の中での理解ですので、書かれていることを仮説として取り組むことはありません。
そして、ヨーガの難しさは、書かれていることである程度分かるかもしれませんがやらないことには真の智慧には至らないとも言われています。
しかし、それこそ、気長に、アビヤーサを意志の力で継続していけば、はじめのうちは何を言っているのかまったくちんぷんかんだったことがパズルのピースがつながることで少しずつちらっとでも全容が明らかになってくると思います。
ちなみに、今回から太字をやめました。人それぞれ、入ってくる言葉が違うからです。