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ヨーガ行者に学ぶセルフコントロール法

古インドの奥義書にその秘密が…

■人間五蔵説(パンチャコーシャ)について

古インドにおいて、伝承されているひとつの奥義書であるタイッティリーヤ・ウパニシャド聖典に、私達人間存在を五つの鞘を持つ存在であると考えられています。

第三章第一節から七節おいて、父親ヴァルナと真理を求める息子ブリグの会話として解説されているのですが、以前にも触れました通り、人間は五つの鞘(さや)に包まれている存在だとする考えとなります。

「人間五蔵説」は、食物鞘・生気鞘・意思鞘・理智鞘・歓喜鞘という構造になっており、それらすべての五蔵構造を動かす動力源として真我(アートマン)があると解説されています

■十頭立ての馬車と人間五蔵説

保守本流の伝統的ヨーガにおいて、ヨーガ行者がセルフコントロールの技法が素晴らしい秘密は、十頭立ての馬車と人間五蔵説という概念を念頭において、セルフコントロールに磨きをかけているからです。

十頭立ての馬車と人間五蔵説

即ち、上記のように、馬車の車体は食物鞘と生気鞘、10頭の馬たちと手綱は意思鞘、御者が理智鞘、その後ろに控える心理器官である我執と心素が歓喜鞘、そして車主が五蔵の中心に鎮座される真我(アートマン)となると考えられています。

御者である理智は、手綱である意思を通じて五頭の感覚器官を象徴するジュナーナ・インドリヤと運動器官を象徴するカルマ・インドリヤをコントロールすることとなるのですが、御者の手綱さばきが稚拙ですと十頭の馬が暴走してしまうことになってしまいます。

十頭の馬は、私たちの動物的な欲望を象徴するものでもあるので、たとえば、食事に関して言えば、ひとつの暴走として、暴飲暴食になります

それでは、十頭立ての馬車と人間五蔵説という概念を念頭において、意思と言われている自分の手綱さばきがうまくいかなかったことで、感覚器官と運動器官である十頭立ての馬車が暴走してしまったことを思い起こしてお調べください。また、逆に、手綱さばきがうまくいった経験があるならば思い起こしてお調べください。

■手綱さばきの秘訣

十頭立ての馬車と人間五蔵説という概念を念頭において、なぜ、手綱さばきがうまくいかずに十頭の馬が暴走してしまうかについて考えてみましょう。

御者である理智は、歓喜鞘にある我執(アハムカーラ)と心素(チッタ)にとても強い結びつきがある場合、ほぼ自動的なパターンとして影響を受けてしまいます。我執というのは、以前にも何度か触れている「私の」や「私のもの」というもので、過去の記憶倉庫である心素と結びつきます。

つまり、何らかの過去の経験に理性的にではなく感情的に印象づけられた「私の出来事」が無意識的にフラッシュバックされて意思である手綱に多大なる影響が施されてしまいます

ヨーガとは心素の働きを止滅させることである。

『ヨーガ・スートラ』第一章第二節

『ヨーガ・スートラ』に述べられている心素の働きを止滅させるということは、無意識的にほぼ自動反応としての間違った心素の働きによる理智という御者が手綱である意思を用いて制御せよ、ということになると言えます。つまり、過去の記憶との結びつきを今現在の状況に対して正しく認識して反応できるように、ヨーガとは心素の働きをひとつずつ止滅させていこうとするものとなります。

『ヨーガ・スートラ』に述べられている心素の働きを考えると、私たちのほとんど多くは、残念ながら、過去の記憶という亡霊にだまされたまま、今現在の状況を正確に認知することができないままでいる認知症だとも言えるのかもしれません

■究極のセルフコントロールとは?

世界最古の戦記『マハーバーラタ』(全16巻)は、バラタ王族同士の戦いをテーマにした壮大な叙事詩であり、『バガヴァッドギーター』はこの第6巻目を抜粋したもので、戦場において親族同士が権力争いをするシーンから始まり、昔お世話になった親族と戦わなければいけない極限状態のアルジュナ将軍と馬車の御者に扮したクリシュナ神との会話によって、カルマ・ヨーガの解説がされています。

クリシュナ神が(アルジュナに)告げられました。我に心を据え、最も深い信仰心を持って我を礼拝するものが、最高のヨーガ行者だと我は考える。

『バガヴァッドギーター』第十二章第二節

我のみに意思の働きを据え置き理智の働きを集中させよ。そうすれば、汝は疑いなく我の中に住まいするのであろう。

『バガヴァッドギーター』第十二章第八節

アルジュナ将軍がこれからお世話になったおじさんたちを殺すわけにはいかないと敵前逃亡一歩手前で、クリシュナ神が少しずつアルジュナ将軍の心を解ほごした後に上記のように伝えているのですが

十頭立ての馬車と人間五蔵説という概念を念頭におくならば、すなわち、意思である手綱を主人であり動力源である真我(アートマン)へとゆだねよ、ということです。

しかし、これは、ある意味において、究極のセルフコントロールであり、真我にゆだねたという錯覚で過去の恐れに満ちた記憶だったりすることが多々ありますので、長期間にわたっての訓練が必須となります。

一番わかりやすい例を言えば、オーム真理教の教祖が本人は真我にゆだねた境地に達したとの錯覚により、大変な事件になったことを思い出してくださればと思います。ですので、疑い深くありながらも素直に学んでいくというとてもユニークな道だとも言えます。

■セルフコントロールとしてのアーサナ

繰り返しとなりますが、まずは肉体という食物鞘の制御を学習するためのアーサナとなります。一番身近でかつ粗雑な鞘である肉体に対して、しっかりと理智が手綱である意思を通して感覚器官を制御する訓練がとても大切であり、とりあえずの観るものたる理智が観られるものである意思や運動器官そして肉体を静かなる心の状態にて観察できるように日々訓練することとなります。

プラーナヤーマと呼ばれる呼吸法では、次に粗雑な生気鞘を、そして、瞑想においては、意思鞘・理智鞘・歓喜鞘を観られるものという対象物として、最終的には、観るものである真我に自らが鎮座するというのが保守本流のヨーガとなります

最後に

今回は、手短く一時間程度で終えようとする予定だったのですが、気がついたら三時間となってしまいました。簡単にわかりやすく解説しているつもりですが、わからないことがありましたらコメントをくださればお答えさせていただきます。

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