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哲学・サイエンス・アートvol4

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哲学やサイエンスやアートの記事をまとめています。オリジナルソースがある場合も画像等を含む様々な追加情報やコメントを加えています。
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#現代思想

Archives マンマのさんま氏による「< >についての減算的解釈」by 入不二基義に関す…

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カンブリア革命 2013 水声社 目次(詳細項目:keywords)

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《道徳》と「我々人間」の悲しみに対する共感 <観音菩薩>の実践とは何か

「道徳」に共感せざるを得ない「我々人間」の悲しみに対する共感と理解なしに例えば統一教会等…

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Archives 現象学から道元へ 「修証一等」 未踏の地に向かって

かなり基底的な哲学の問いだと思うが、ベルクソンとフッサール・ハイデガー・メルロポンティ(…

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「存在論」の彼方Ⅱ 数 線 コギト(「思うもの res cogitans」の思い)

「数と線はあらゆる思考に先立っているのか」という問い。ピタゴラスと純粋直観(カント『純粋…

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資本主義という公理系 信用創造と不完全性定理 latest version

友人との対話 超地政学的ゲームの行方 2017.2.02-より一部改訂して転載 予定説を核とするカル…

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「存在論」の彼方 増補改訂版

何らかの「情報量の最小単位」の前提なしに存在論または形而上学の構築が可能だろうか? その場合その最小単位を「数」(数が言語と等値可能かどうかは未知の問題)と存在論的に区別することができるだろうか? 実はその「情報量の最小単位」と「数」との存在論的な区別は不可能ではないのか? もしそうならループ量子重力理論や超弦理論が単なる数学理論に留まることのない実在的(事象内容的)検証に耐える(あるいは実在的検証可能な)理論になリ得るだろうか?

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道は無窮なり 根源的無知あるいは原罪の彼方 増補決定版

究極的に「この私の持続」を保証するものは存在しない。だからこそ道元は「道は無窮なり(始ま…

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<私>の成立――哲学 科学の究極の問いへ 『哲学的洞察』by 永井 均 を巡って 増…

Introduction ふと思ったが、確かに「我々」は(例えば何らかの他者の危急の事態において)「…

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潜在無限色としての「白」から「マルチバース仮説」へ

潜在無限色としての「白」のベクトルは「黒」とは真逆で全ての色を等しく同時に呈示しているは…

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自己の統合への問い――《国家=資本》補完システムとしての学術・哲学の限界地点へ

『現代思想』2022年7月号 特集=「加害者」を考える -臨床・司法・倫理-所収の小松原織香氏と森…

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Archives 目白 宮永國子 レヴィ=ストロース 2020/9/15-9/18

宮永國子氏の行方 あるいは 逆レヴィ=ストロース (宮永國子: ハーバードライシャワー研究所…

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この<私>が書くことーー安部公房「すべての他人に共通している内部」

安倍公房は1964年『他人の顔』において、「すべての他人に共通している内部」への問いを放った…

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カントとフーコー 経験の形而上学と歴史の造型――24歳頃に執筆したオリジナル原稿完全公開版

まえがき 批判的言説の可能性および現実性への問いは、現在深刻な位置づけを与えられるにいたった。こうした事態の端緒に、ミシェルフーコーが提示した問題設定が、我々の思索を要求する一つの課題として存在している。だが彼は、この課題を固有なカントの読解作業を通じて、『言葉と物』において設定した。この問いあるいは課題は、なお無際限に開かれているように思われる。そこで我々は、カントとフ-コ-の接点を形成する問題系を、『言葉と物』第二部、7~9章の読解を核に取り出し、その問題系に基づいた以