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マインドフルネスで起こるデメリットとその対処法ー知っておきたい5つのこと

人にもよると思いますが、ほとんどの人が勉強が嫌いです。多分画一的で詰め込み式の教育システムへの拒否反応や反抗心もあると思います。得に日本の人は学校を卒業すると勉強しない人が多い。

習い事と言っても簡単ですぐできるものばかり。ヨガのインストラクターだって、マインドフルネスの講師にだって、誰でも1か月でなれます。そのため自己流になってしまうことも多い。実はこの『知識が十分にない事』がマインドフルネスや瞑想でのデメリットを生んでいます。今日はそれを解説していきましょう!

マインドフルネスを実践すると現れる5つのデメリット

①集中できなくてマインドフルネスという行為がストレスになる
②かえって悩みが大きくなってしまう(不安の増大)
③自分のことがイヤになる(自己肯定感の低下)
④瞑想への依存(瞑想というマスターベーション)
⑤いわゆる『魔境』に入ってしまうこと

この5つがマインドフルネスの実践、もしくは瞑想で起こりうる5つのデメリットです。確かにわたしもよく相談される内容です。指導者の方が自分の生徒さんの対処に困って相談に来られるのもこの内容が本当に多い。

これに対してわたしの答えはいつも『勉強してください』だけです。デメリットが起こる原因は『いきなり今ここに意識集中する』からです。『いきなり瞑想する』からです。いきなり『自分と向き合う』からです。オートマの免許しか持っていない人が突然マニュアルの車を運転するのと同じ。自分が何をやっているのかわからないままで突然座っても、何も解決しません。

ということで、ひとつづつ見ていきましょう。

①集中できなくてマインドフルネスという行為がストレス

マインドフルネスの実践のために、思い立って毎日10分、座禅を組んで『今ここだけに意識を一点集中させる』ということを突然実践したとしましょう。するとかえってあれこれ気になって座っていることのほうがストレスになることがあります。

わたしも実際、元気が有り余っていった20代の前半ではじめて10日間ヴィパッサナー瞑想に10日間入った時は、座ったまま何度も飛び上がりそうでした(そういう行じゃなくてストレスで)。しかもゴエンカ先生のやり方は、最初の3日間は呼吸が出入りする一点(鼻の孔の下のところ)のみに意識を置くというアーナーパーナー・サティだけを練習していくので、慣れるまでは拷問のようでした。

わたし自身も想像力豊かでマインドがディズニーランドみたいなタイプなので、瞑想をはじめた頃は群がる仔犬にリードをつけて『お座り!待て!』を教えているようなものでした。それでどうなるのかというと、全然待たずに転げ回ってリードが絡まっていたずらばっかり。

だから当然イライラ、そしてうんざりするわけです。ここで思い出してほしいのが、マインドフルネスの目的です。マインドフルネスの目的は『心の平穏』ではなく、『平穏に心を観る』力を育てることです。ここを勘違いしなければ大丈夫。

平穏な飼い主さんであれば、仔犬が暴れていたとしても、仔犬ってそういうものだから仕方がないなあと、ほほえましく見ていると思います。そのカオス感が愛おしいわけです。そして1歳を過ぎるとだんだんおとなしくなっていくから、このカオスは『今』だけと知っている。知っているから穏やかで、仔犬が暴れることを許容できるわけです。

マインドも『そういうもの』だと分かっているとイライラすることやうんざりすることがあっても、その状態を絶対視しません。変化することを知っているからです。ここでマインドがどういうものかという知識が欠けていると、自分のはずっとカオスの状態だと結論づけて絶望的になるわけです。

あなたの頭の中には野良犬の子がたくさんいる状態と同じだと思ってください。そしてマインドフルネスはその野良犬の子を保護する行為です。なので野良犬をみつけられたらそれだけで進歩です。野良犬が言うことを全然聞かない状態だということを発見できたらマインドフルネスの実践は大成功です。

反対に抑えつけて大人しくさせようとすると、噛みつかれたり、余計キャンキャン吠えて、仔犬との闘いになってしまいます。そうすると疲れるし、全然リラックスできません。だから自分の中に住んでいる仔犬たちをきつく当たったり、追い払ったりしないで、優しく接してあげてください。

ポイント:集中できないからといってマインドの中で展開する思考や感情を抑えつけない。一時的なものだと思ってほほえましく眺める。

もちろんこれだけ聞いても問題を全部ぬぐう効果は充分ではないかもしれません。それはマインドフルネスに対する知識が絶対的に足りていないからです。耳が痛いかもしれませんが、勉強してください。

②かえって悩みが大きくなってしまう(不安の増大)

これも仔犬の例と同じで、ずっとそのままの状態が続くと『絶対視』してしまうことによって起こります。前述したようにマインドフルネスの目的は『平穏に心を観る力』を養うことです。ここには心はいつも平穏ではないという前提があります。それを知るためにはマインドがどうなっているのかというマインドの構造や機能を理解しておかなければなりません。

仏教哲学では五蘊(ごうん)というものを使ってマインドの構造と物質との相互関係を説明します。その上で無常・無我・苦のメカニズムを考えていくのですが、別に他の方法でも構わないと思います。現代心理学が好きなのであれば、心理学を勉強してマインドの構造を知ればいいし、脳科学でも量子力学でもいい。ヨガが好きなのであれば、サンキャ哲学のシステムをもって理解してもいいと思います。一番危険なのが、自分だけで考えるということです。

ブッダは『自分で考えなさい』といつも言うので、一見それとは逆です。毎日のお経の中にも『自分で考えなさい』という節が出てきます。でもこの自分で考えるは、闇雲に自分で思いをめぐらすことを言っているのではありません。まず、自分の考え方にはフィルターがかかっている、ということを知らないとフィルターの中で堂々巡りをしてしまうわけです。教育のフィルター、文化のフィルター、時代のフィルター、家族のフィルター、好みのフィルターなど、マインドは無数のフィルターで構成されています。そんなフィルターがかかった中で考えても、ありきたりな結論しか出てこなくてしっくりこないのはあなた自身です。

ポイント:闇雲に考えるのではなく、自分にはどんなフィルターがかかっているのか、何のフィルターが自分の感情や思考を動かしているのかを考えてみる。

そしてわたしがこうして言っていることも鵜呑みにしないで、自分で考えたり、調べたりしてみてください。するともっとどうしてこんなことを言っているのかがだんだん見えてくると思います。

③自分のことがイヤになる(自己肯定感の低下)

ありのままの自分と向き合うと自分のことがイヤになる、自分の境遇が不遇すぎて直視できない、ということもよくある質問です。それで自分はダメだとか、カルマだ、もうどうしようもないとかいう話になります。

仏教的には、これも自分が重ねてきた不徳のせいだから仕方がない、全部自分の選択、全部自分のせいという考え方がありますが、またここで知識が足りないせいで悲劇的に取ってしまうことがあります。

何の知識が欠けているかというと、選択権があるということです。自分はもうダメだという考え方は選択権の放棄です。そこで過去にこうしたかったとか、ああしたかったとか、いつかはもっとこうしたい、ああなりたい、と過去と未来を選択しようとするのですが、残念ながらわたしたちが選択できるのは今だけです。

それでも多くの人が過去を思い出して、未来を想像しようとするので、今はほったらかしになっています。だからマインドフルネスはほったらかしになっている『今』に気づく練習でもあるのですが、過去の思い出や未来の夢のためにマインドフルネスを実践するので、なかなか『今』に集中できません。自分がダメだという時は、決まって過去のデータや未来の見積もりに焦点が当たっているときです。過去や未来にエネルギーを費やすことを減らせば、『ダメな自分』はみつからなくなっていきます。

ポイント:自己肯定感が低下している時は、過去ののデータや未来の見積もりを基準にして、自分で自分を制限する状態になっている。今自分が過去(もしくは未来)を選んで、今を放棄していることはつまり自由を放棄していることだと気づく。

④瞑想への依存(瞑想というマスターベーション)

ランナーズハイと同じように、瞑想に慣れてくると、瞑想が気持ちよくなってきます。神秘体験をする人もいるだろうし、オーガズムを体験する人もいたり、それぞれその時々のコンディションによっても違います。そうなると、その気持ちよさが目的になって、それを追い求めたり、外の世界はイヤなことだらけだから、気持ちよさのの中に逃げ込むようになります。

これだとマインドと世界の完全なる分断。ここでもう一度思い出してほしいのが、マインドフルネスの目的(瞑想の目的)です。マインドフルネスの目的は『平穏にマインドを観る力』を育てることであって、平穏にマインドが観られるようになると、外の世界への耐性も本当は強くなっていきます。

外ヘの耐性が心の平穏と比例していない場合は、やはり知識が欠けていると起こります。瞑想の目的をきちんと知らずに瞑想すると、瞑想の目的がすり替わっていることに気づきません。なぜかというと、マインドは巧妙ですから、またマインドで起こっている『気持ちがいい』ことに巻き込まれていることに気づいていない状態になってしまう。結局、平穏に観られていないわけです。

ポイント:心の平穏と外の世界への耐性は比例している。瞑想に心の安らぎを求めてしまう時は、『気持ちがいい』というトリックに巻き込まれていて、平穏にマインドを観られていない。

⑤いわゆる『魔境』に入ってしまう

まず魔境とは、禅の修行者などが深い行に入った際に、感覚が研ぎ澄まされ、幻覚・幻聴などが起こるなどで、マインドが錯乱して物事を判断できなくなってしまうことです。

魔境が起こる原因は100%知識不足です。目的も分からずに例えば『悟りを開きたい』『覚醒したい』と言って瞑想に励んだとしましょう。この場合、最初の動機がもう不純なわけです。『悟り』って何ですか?『覚醒』って何ですか?多分このあたりの勘違いのせいでこういうことが起こるのだと思います。

伝統的に瞑想をする時は先生を持ちなさい、と言われます。現代ではすごくめんどくさい、古い考え方ですよね。でもこれがセーフティーガイドなんです。一般的にフィルターのかかった状態で考える悟りとか、覚醒というのと、実際のそれとはかなりの温度差があって誤解があるのではないかといつも感じます。先生は自分がどんなフィルターに引っかかっているのか客観的に見てくれる最強のサポーターです。悟りは全知全能になって、超能力が覚醒することが目的ではありません。何かを得るために瞑想をするわけではありません。全知全能や超能力が結果として起こるかもしれませんが、目的ではありません。目的は『自分の正体を知ること』です。

魔境に入っているということは、目的がすり替えられている、もしくは定まっていない人に起こる現象です。目的は自分が誰なのかを知ることであるにも関わらず、自分が誰なのか全く発見できていないという状態なので、ただマインドに踊らされているわけです。オーガズムや幻覚でマインドに踊らされていては、本末転倒です。

上座部でも日常的に読まれるジャヤ・マンガラ・ガタというお経がありますが、これはブッダと悪魔の対決を描いたものです。悪魔は魔境と同じで色々なオーガズムや幻覚を使ってブッダを混乱させようとするのですが、彼は動じません。この経の中で『イティピサンカタマノ』という言葉が出てきますが、これは超能力のことです。この超能力でブッダは悪魔を退治するのですが、この超能力はみなさんが思うような漫画の一場面のようなものではありません。ブッダはマインドがすべてを制するということ知っているからこそ、何もしないで、『反応しない』という方法で悪魔の現象を白紙に戻してしまうというシーンです。

ポイント:魔境は目的が定まっていないと入ってしまうもの。瞑想はマインドに踊らされないためにやっているのに、完全に踊らされてしまっては本末転倒。魔境はすごいものへのあこがれや執着から起こる。

おわりに

だから『仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、始めて解脱を得ん』と臨済義玄は言ったわけです。

これは実際に殺すというわけではなく、そういう『幻想』がマインドに顕れても、踊らされるな、白紙に戻せ、といっているものです。フィルターが付いたまま読んでしまうととんでもない言葉に聞こえてしまいますよね。

マインドフルネスは無数についているフィルターを見つけては外していく、保護犬のしつけをして、ノミ取りをするような作業です。自分のフィルターが自分の世界を作っていて、その中に自分が閉じ込められているということを知っていかなければなりません。いかに良いフィルターを作るかではなく、いかにフィルターを外していくかがポイントです。

わたしの先生も『ダルマ(法)は船のようなものだから、向こう岸についたら船を捨てなさい。陸まで船を持って行ってどうする?』という風に言います。今日は耳が痛いようなことや少し小難しい話が多くなってしまいましたが、わたしにとっては、いつもより自分の言いたいことが本音で言えたような文章でした。

ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。あなたに気づきによる自由がもたらされますように!今日も祈りをこめて。

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