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能力主義の乗り越え方を考えてみた(でもまだ未解決)

前回からの続きです。

今回に限らずなのですが、なにか問題だなということがあるとき、あれがダメだ、これがダメだという指摘とともに、じゃあどうしたらいいんだろう?ということをセットで考えるべきだと思っています。

ただ、問題が大きい場合、どうしたらいいのか?ということが全然分からないときもあります。そんなときでも、これが足がかりになるのではないか、とささやかかもしれないけれど、ポイントのひとつはこれじゃないか、と正解か不正解かは分からなくても、思いを巡らせることが大事だと思うのです。

で、これまで能力主義(メリトクラシー)にいかに自分がどっぷり浸かっているか、洗脳されていることに気づかなかった!というところから、それに対して、ちょっと疑問を持つ、というレベルアップ?をしたわけですが、じゃあどうするの?ってことも、私ごときが完全な答えを導き出せるわけはないのですが、考えてみたいな、と思うのです。

以下のstand.fmで鬼丸さんとも話していますが、

別に能力主義が全部間違いだったとか、それを完全になくすべきだとか、そんな極端なことは私も思っていません。

うまく機能している部分もあるでしょうし、言葉通りに実現するのであれば、
出自に関係なく、自分の生きたいように生きられる社会であるほうがよいと思っています。

ただ、ほころびが出てきているところは、時代に併せて修正していくとより一層いいんだろうなと思っています。

まずひとつは、思い込みからの脱却です。

才能と努力の許す限り出世が可能である、というアメリカン・ドリームは、
全然アメリカンではなくて、実はアメリカにおいて、貧困層から富裕層へ上昇できる可能性は、ヨーロッパなど他の国々よりも低いそうです。


しかし、努力とやる気によって出世する能力へのアメリカの信頼は、もはや現実にそぐわない。第二次大戦後の数十年間、アメリカ人は自分の子供が自分より経済的に豊かになることを期待できた。こんにち、これはもはや事実ではない。1940年代生まれの子供の場合、ほぼ全員(90%)が親より収入が多かった。1980年代に生まれた子供では、親の収入を超えたのは半数に過ぎなかった。
貧困層を出して富裕層へとよじ登ることも、社会的上昇への一般的な信念が示唆するほど容易ではない。貧しい生まれのアメリカ人のうち、頂点まで上り詰める人はほとんどいない。実のところ、ほとんどが中流階級にすら届かない。

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(112ページ)

私がアメリカ人で、アメリカン・ドリームを信じていたら、めちゃくちゃショックな事実です・・・え〜、それがアメリカの強みじゃなかったの?それを信じてたから頑張ってきたのに…となります。

なんとなく、そうなんだろうな、と思っていても、そう断言されると、びっくりです。

実のところ、アメリカの経済的流動性はほかの多くの国々よりも低い。ドイツ、スペイン、日本、オーストラリア、スウェーデン、カナダ、フィンランド、ノルウェイ、デンマークなどとくらべ、経済的な優劣が、ある世代から次の世代へと引き継がれる頻度が高いのだ。アメリカとイギリスでは、高収入の親の経済的優位性の半分近くが子供に受け継がれる。これは、カナダ、フィンランド、ノルウェイ、デンマーク(流動性が最も高い国)などで子供が受け継ぐ所得優位性の2倍を超えている。
デンマークとカナダの子供は、アメリカの子供と比べ、貧困を脱して裕福になれる可能性がはるかに高いことがわかる。これらの基準からすると、アメリカン・ドリームが無事に生き残っているのはコペンハーゲンなのだ。

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(113ページ)

日本という文字が出てきました。日本の方が、アメリカよりは、経済的流動性、つまり、努力と才能があれば出世することが可能な確率が高いそうです。

にもかかわらず、

研究者がアメリカとヨーロッパの一般の人たちに、それぞれの国で貧困層から富裕層へと上昇できる可能性はどのくらいかと尋ねたところ、欧米の回答者はたいてい思い違いをしていた。ところが、興味深いことに、彼らはそれぞれ逆の意味で間違っていた。アメリカ人は出世のチャンスを過大評価し、ヨーロッパ人は過小評価していたのだ。

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』
(116ページ)

なんとく、過小評価するヨーロッパ人の気持ちが分かる気がするのは私だけでしょうか。

で、私自身は、能力主義にとらわれる価値観はもういいかな、それから離脱したいな、と思うので、じゃあ、どうやったら能力主義を含んで超えられるのかというと、それは、上記のように各国の状況や意識が異なるように、お国柄などによって乗り越え方がちょっとずつ変わってくるんじゃないかな、と思うんです。それを、みなさんと一緒に知恵を絞って考えてみたいのです。

能力主義の歴史としてサンデルさんはこうおっしゃいます。

聖書的な物の見方の二つの特徴が、現代的な能力主義を暗示している。その一つが人間の主体性の強調、もう一つが不運に見舞われた人に対する厳しさだ。

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(53ページ)

つまり、人間が善い行いをすればそれに対して神は褒美を与える、というのは宗教的儀式や善行を行えば行うほど、神は救済をお与えになる…「神は自分の好き勝手にではなく、人びとの功績に応じてそれを行なう」ということだし、「苦難が深刻であればあるほど、犠牲者が自らそれを招いたのではないかという疑いが深まる」という考えがもとになっている、ということです。

日本でも、たしかに善い行いをすれば、お天道様が見てくれている、と豊作などといった褒美を与えてくれる感覚はありますし、お布施も多いほうが往生できるような、そんなことも聞いたことがあるような…

ただ、ふとここで思い出したのが、親鸞聖人の悪人正機説(あくにんしょうきせつ)「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや」という教えです。

これは、「善人でさえ浄土に往生できるのです。ましてや悪人はいうまでもありません。」という意味です。え?逆じゃない?悪人でさえ往生するのだから、善人はもちろん、ということじゃないの?悪人ならなおさら往生できるって・・・

こんなところにヒントがあるんじゃないかなぁと思うのです。長くなったのでまた今度。

あなたはどう思いますか?

(文責:森本)

追伸。
「悪人正機説」は100分de名著『歎異抄』を参照しています。

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