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彼岸に考える「どう生きるか」ということ

突然ですが、あなたは生きていた証をどうやって残したいですか?

20年くらい前ですが、社会学を研究している知人がいて、その人は当時、本などを著すことも含めて「研究で名を残したい」と言っていました。

人によっては、子孫を残すことが大事な人もいますし、私は昔も今も、何かを残したいとはまったく思わず、知人についても、研究者だからそうなのかな〜くらいにぼんやり考えていました。

「どうやって」残したいですか?と聞いておきながら、残したいと思うことが、私にはないわけですが、とはいえ、強く思うことは、残すためには「今」つまり、どう生きるかがしっかりしていないといけないんだろう、ということです。

なので、『人生、何を成したかよりどう生きるか』というタイトルには惹かれました。

・何かを成すために生きるのか、
・生きることで結果的に何かを成すのか、

このふたつは似ているようで、大きな違いがあるように思うんです。

私は正直この人生で「何かを成す」ことは無理なんだろうなぁと思いました。だから、それを追い求めることは簡単にやめられたのかもしれません。

「私が」やりとげた、「私が」結果を出した、「私が」「私が」・・・と、そう声高に言う必要は感じない。いや、感じないもなにも、そういうことはそもそもできないことでもあるのですが、「私が」にこだわる必要はないのだと思ってから、ちょっと生きることがスッキリしたように感じています。

でも、それは「どう生きるか」を投げ出したわけではありません。なぜなら、この感覚には、とても共感します。

有名なる天文学者のハーシェルが、二十歳ばかりのときに彼の友人に語って「わが愛する友よ、われわれが死ぬときには、われわれが生まれたときより世の中を少しなりとも善くして往こうではないか」というた。

『代表的日本人』内村鑑三

さらに、ちょっと出典を忘れてしまったのですが、物理学を研究している方が、自分の研究が残るとかはどうでもよくて、自分の研究したことをもって、その次に研究がつながれば十分、とおっしゃっていたのが目からウロコでした。

私の偏見ですが、研究者の方って、結果を出すことに重きを置くのだと思っていましたから。

でも、世紀の大発見みたいなことはそうそう起こることでもありませんし、今の研究は、どんな分野にしろ、先人たちが研究してきたことの結果を踏まえて反論することも含めて、その続きをやっているわけです。それは、名を残した人たちの研究だけではありません。

「私が」にはこだわらない。だけれど、私が生きることで世界が悪くなったというよりは、善くなったらいい。

そのためにはどう生きるのだろうか?

ここでちょっとこんな声も聞こえてくるようです。「そんなふうに考えるなんて"真面目”だなぁ〜」・・・ちょっと馬鹿にしたような声ですね。笑

内村鑑三がいう「真面目」について、NHK100分de名著『代表的日本人』で解説がありました。

真面目になるということは、あなたの中にある、眠っている力を目覚めさせるということ。

世の中に、社会に、こうしたらいいんだろうなぁと思うこと、弱っている人には手を差し伸べるだとか、やったらいいことはすでに知っている。その考えがあなたに浮かぶのは、あなたにそれができるからだ。

そのことを実行に移す、その小さな勇気を持て。
あなたの中にある本当の姿を呼び起こす、小さな勇気を持て。

それが真面目であるということだ、と解説されていました。

私はそんな立派な人ではありませんが、真面目でありたいなぁ、真面目であろうとすることには向き合いたいなぁと思うのです。

あなたはどう思われますか?

(文責:森本)

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noteの内容も「ながら聞き」ができるように音声にしてみました。

ゴロゴロしながらゆったりとして聞けるように、とイメージしています。内容は重厚かもしれませんが・・・^^でかける準備をしながらとか、料理をしながらとか、移動しながらとか、ながら聞きをしてもらえると嬉しいです。


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