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架空のフィールドが可能にする「実在する現在」の多元化

この記事は、半分はDfARとして、もう半分は榊原個人の修士研究として右往左往しながら2年ほど取り組んでいる内容に関するものです。

私たちが日頃考えている事を書き残しておくことで、私たち自身が再び同じ深度で考えを巡らせるための思考の置き場になり、またあわよくば誰かと話すきっかけになればいいなと思っています。


今日の日本の状態にあてがう「まちづくり」という平仮名5文字の並びに違和感を持つことが増えたのは、私だけではないと思う。
どこかで人が減って村や町が消えていること、災害から立ち直れなくなっている街があることから、できることはこれしかないからと視野の狭さを正当化して、さらには「専門」という武器にして逃げている。そんな人も私だけではないと思う。

修士研究ではこのような、分かっているけど手を挙げるには大きすぎるから、みんな見ないふりをしたくなるような問題を、どうにかみんなで考える為の場としての「空想日本郊外都市」を作ろうと考えている。


誰のせいにもできないから、誰もが考えられる場を

先日民間の有識者グループ人口戦略会議は、日本全体の4割にあたる744の自治体を「消滅可能性自治体」に選定した。他地域から人を吸い取っているという意味の「ブラックホール自治体」に選定されている京都市に生活している私にとって、その事実はあまりに現実味がない。

もう少し視点を遠くにやると、東日本大震災の復興の進捗が思わしくないという情報を目にすることがある。人口が減り始めて初めて起こった大規模な災害らしく、「そもそもこの場所を立ち直らせる必要はあるのか?」という住民の心を置き去りにするような議論がなされたり、あるいはすでにそんな議論が暗黙の了解として被災地に横たわっているが故の現状なのだろう。

さらにもっと視界を広げると、これはもう日々の暑さからも感じ取れるように、地球規模の異変が起きていることが分かる。SDGsがなんだと叫ばれて久しいけれど、考えてみれば私たちは、自分に直接痛みが伴ったり、虹色バッジを付けるなどして社会に貢献しているぞという社会的・個人的ステータスになりそうな危機だけを都合良く選別して対応し、ちゃんとしているように見せかけあっているだけなのかもしれない。

修士1年の暮れ頃から、いくつかの現場で市民参加ワークショップや社会実験のお手伝いをさせていただいている。上記のような問題に立ち向かうには、今や一般的になりつつある(市民)参加型の対話による創発的な方法にヒントがあると思ったためである。そんな考えのもと実際に現場に同行して目にしたのは、住民たちの「こんな街にしていきたい」「こうしたらもっと良くなりそうだ」という期待や希望がとめどなく湧き上がる様子であった。彼らの嬉々とした目を見てなお、その真っ直ぐな思いをへし折りたいなんて気持ちは全く持てないし、自分が住民という立場だったら同じように考えるとも思う。でも、毎現場どこかに違和感があった。もう既に街を興すことも何かを作ることもおそらく必要でないのに、知ってか知らずか、そんなことは「この街には」関係ないとでもいうようなキラキラに対してだと思う。(このようなテンションは比較的住民の属性に多様性があり、ある程度成長もし切ったような都市より、どちらかというと郊外に蔓延しているように感じる。)

また、そもそもみんなを集めて話し合う会になんの意味があるのか、彼らに意見を求める本当の気持ちはプロジェクトチームの中にどれくらいあったのか、分からなかった。それでもまだ、みんなで知恵を持ち寄ってそれをみんなで育てていくような「対話」という手段には可能性があるとも思う。
こうして、まだまだ少ない知見が支える僅かな期待を根底に、研究を進めることにしている。

とある市民ホールの入り口で出迎えてくれた、スナメリとキツネが混ざった子


持続可能性、脱成長のあれこれ

最近、研究室の先輩に声をかけていただき、かなり尖った会に微力ながら参加させてもらっている。https://note.com/asiba_studio/n/nbc3acd0f64e8?magazine_key=mda7cc87ee498

そのリサーチの中で、「そもそも持続可能性は誰の何のために目指さなければならないのか」を問ういくつかの都市や建築の開発行為批判の論文や書籍を読んだ。「持続可能な開発」の概念は、1987年のOur Common Future(ブルントラント報告書)で初めて国際的に打ち出されたのち、1992年のアジェンダ21、2015年のSDGsと今日にいたるまで、ここ数十年間の重要な指針として受け継がれてきたようである。

しかし、ドイツの鉱業にまで遡ってその語を追ってみると、当初は再生可能な量の木だけを伐採することや、伐採した木をなるべく無駄にしないという人間の生存と繁栄の基本的条件に対する世代間の公平性を示す規範(ドイツ語でNachhaltigkeit(ナハルティヒカイト)と呼ぶ)であったが、1992年の第1回地球サミットにて世界的に確立された「持続可能な開発」では、その意味が持続的な経済活動を前提とした自然資本の利活用に目的が変質していっていることが分かった。(このような持続可能性のことを、一部では「弱い」持続可能性と呼ぶらしい。)
近代開発真っ盛りが落ち着いていよいよ環境に目を向け始めたが、その姿勢の根底にあるのが、時に不平等な資本の分配を伴う経済活動の維持という、人間都合のある種のフィクションであるならば、私たち誰だって勝手にフィクションを作って良いはずで、唯一「本当」がどこにもない時代にはそれぞれの世界を作って見せては、偏った権力に問いかけ続けるしかない。

ここでもう一つ、学術的なバックアップとしてセルジュ ・ラトゥーシュの訳書『脱成長 (La décroissance)』(中野佳裕訳,白水社クセジュ,2020)を引用したい。本書によると、2002 年にパリのユネスコ本部で開催された国際会議「開発を解体し世界を再生する(Défaire le développement, refaire le monde)」の会場で初めて「脱成長」という概念が提唱されたらしい。(先程の「弱い」に対してこちらは「強い≒本当の意味での」持続可能性と呼ばれる。)ラトゥーシュ曰くこの脱成長を図る上で重要なのは、人間や自然の搾取といった物理的な次元の暴力よりも、パターナリズムという社会的想念の画一化からの脱却を目指すことであるそうだ。ゆえに多元的な世界観を展開することが重要との、アルトゥーロ・エスコバル(※1)にもどこか通じる議論を展開させていく。

歴史的な遺構であること以上に今もただならぬ様相を湛えている「切り通し」は、社会的想念を転換する起点になりうる、個人的に気になる存在


「現実は複数あるかもしれない」という気づきに到達するために

このような議論がある中、「今ここ」とは異なる新たな世界観を具体的に練り上げていく上でどんな思想や実践を参照したらよいのかと悩み、最近私が出会ったのが「撤退学」や農業を「粗放的」に行う実践の数々である。ここについてはまた機会があれば詳しく書きたいが、このような思索から私が注目した点を極めてドライに挙げるならばそれは、これからどうなるか分からないけど、とりあえず荒っぽくでも土地を生かしておくという姿勢だ。この「よく分からないけど」という部分は実は廃村研究や農業の文脈では、これまでと同じ品質を目指さずとも継続的に土地を耕すとどんなメリットがあるとか、テクノロジーの進化など未来に起こる何らかの変革によって再び街に住民が戻ってくるかもしれないということに期待しているので、全く分かっていないわけではない。しかし、遠くの未来に対して今を「耐え凌ぐ」ような姿勢や、それを実現するための実践には学ぶところが多分にあると思っている。

これを研究対象である郊外都市や消滅可能性都市の文脈に当てはめた時、それは環境哲学者であり社会学者の篠原雅武さんのいう"Habitability(居住可能性)"を持ち続けるということなのではないかと思っている。生物学的な次元における既存の関係性のゆるやかな維持だけでなく、人間の営みの文化的な次元をも包含するような射程を持つこの”Habitability”という言葉を、私なりに解釈しきれているわけではないが、郊外都市を大都市のサブシステムにするのでも、新たなユートピアにするのでもない、街を半分死にかけの状態で存続させることの意味やそれに伴う新しい価値・世界観はどこかにあると思っている。

居住可能性の問題で問われるのは、環境からの働きかけが人間のみならず生命一般を危ぶむ状況になっているところにおいて、人間がなおもそこで生きるとはどのようなことか、そこで環境を作るということが何を意味するのか、ということである。

惑星と場所:人新世的状況における居住可能性(habitability)をめぐって/篠原雅武(2023)

それは一体どんな価値になり得るか?具体的な手の打ちようはあるか?どうやって今住んでいる住民の意見と折り合いをつけるか?これをみんなで対話し模索するためのもう一つの道具として、バーチャル空間上に立ち上げた空想都市を使おうと思っている。
空想都市とは説明するまでもなく、実在しない架空の都市のことである。空想都市は、空想であるがゆえに利害関係者が不在で、空間や土地にまつわる自由な発想が繰り広げやすく、かつそれを「さもありなん」に作り込むことで、実在する都市の見方や凝り固まった世界観を変えるきっかけにもなりえる。
それは、これまでの場所に根付いた数々の実践のように一つ一つのケーススタディを積み上げていくことによる世界観の多元化とは異なる、どこにでもありそうな(地方)都市のもう一つの地平を描くことによる、現在を俯瞰・解体することを通した「実在する現在の」多元化であると言えると思う。

こうした実践によって、新しい世界観が生まれる瞬間を表現したチャクラバルティ(※2)の言葉を借りると、人間が宇宙に行って初めて普段自分たちを支えている地球が私たちの存在それ自体とは何ら関係なく、青く、まるく存在していることに気づくようなことであるそうだ。それは確かに社会的な想念を打ち破るきっかけになりうるし、それ以上にみんなで驚きを分かち合えるような強い喜びに満ちた体験なんだろうと思う。生成AIがはじめとする科学が、世界のあらゆるものを既知の範疇に飲み込もうとする今、それを見つけるのはとても難しいに違いないけれど。

そしてそんな場面が実際に立ち現れた時には、もう世界は極めて厳しく暗い状況かもしれないが、その現場だけは多分たのしいと思う。だから、そういう実践を早く、できるだけ沢山つくらないといけない。自戒の念を込めて。

架空の街角。Epicのマーケットプレイスで無料配布されていた東京風の街丸ごとのアセット。

2024年6月1日/執筆者:榊原真歩


※1 Arturo Escobar/1952年、コロンビア生まれの人類学者。米国ノースカロライナ大学チャペルヒル校名誉教授。カルダス大学マニサレス校のデザインとクリエイション博士課程およびカリ大学環境科学の博士課程兼任教授。著書に『Designs for the Pluriverse: Radical Interdependence, Autonomy, and the Making of Worlds (New Ecologies for the Twenty-first Century)』(2018)など。
※2 Dipesh Chakrabarty/1948年生まれ。インド出身の歴史学者。シカゴ大学教授。ベンガル地方の労働運動史やサバルタン研究から出発。主著に、Provincializing Europe: Postcolonial Thought and Historical Difference (2000)、The Climate of History in a Planetary Age (2021)など。

参考文献

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