見出し画像

頼ってもいいけど依存しない


現在コーチをつけてセッションをしている。
セッションの時には
日常の何気ないことを話したり
自分が深く悩んだり迷ったりしてることを
相談したりする。

話してるうちに思考が整理され
パチンと音を立てて
自分なりの答えが見つかったりする。
めちゃくちゃ信頼出来て頼りになるマイコーチ。


頼るの類語で依存というものがある。
こちらは怖いイメージ。


何が具体的に違うんだろうと思っていたら
YoshiPさんが分かりやすく解説してくれてた。


「頼る」と「依存する」の違いは何だろうか?
それは、判断軸をどちらに持ってくるか、である。自己か、他者か。
頼る、というのは、あくまで、判断主体は自分であり、その上で他者に頼る。一方、依存する、といのはつまるところ、判断を他者に委ねているのだ。なぜ依存が駄目かというと、それは自己の思考放棄であり、自己から逃げているからである。


判断軸を他者に持っていくのか
自己に持っていくのか。

これだけ聞くと答えも自分で導き出さないといけない

という感じがするけど、
考えても答えが分からなかったら
聞くのも一つ。

それを採用をするかどうかは自分が判断をすればいい。

聞いた答えを盲目的にやる、となったらそれは依存だと思う。


例えば自分が本当に悩みどうしたらいいか迷っている時。
道の先は真っ暗闇でどうやってどこに進んだらいいのか分からない。

歩かなければいけないことは分かるけど
怖すぎて手探りで進む一歩が踏み出せない。

そんな時は誰かの答えを聞きたいと思う。
最初の一歩を踏み出す勇気が欲しい。

一歩を踏み出せれば次の二歩目は続けられる。

二歩歩いた自信をもとに
三歩目の足が出せれば
その後はゆっくりでも歩きだせる。


最初の一歩の答えが

自分自身での対話で見つかり
踏み出せる時もあれば

コーチや他者との対話を通じた
自己内省によって見つかることもある。

時にはどうしても自分の中で答えが出ない時は
コーチや他者からもらった
答えを頼りに踏み出す一歩もある。

何が悪いわけではない、
みんな大事で大きな一歩。

答えを出すきっかけが
自分か他者かに関わらずに
自分で判断し自分の意志で
踏み出した一歩なら
それは依存ではない。

依存とは
答えを誰かに教えてもらい
それを考えもせずに盲目的に信じ
自分ではない誰かに足を持ち上げてもらって
踏みだした状態のことを指す。

自分で行動をしてないから
依存元がいなくなると
何も行動が出来なくなる。

頼るとは
一歩につながるヒントや答えを時にはもらって
自分で判断して自分が決めて
自らが踏み出す一歩をこと。

また迷ったら頼ればいい。 

今のコーチのように
自分も誰かの頼れる存在になれたらいいな。


ではでは。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?