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【和訳】瞳の中の距離:シャーロット・ウェルズが『aftersun/アフターサン』について語る

2023年1月にMUBI Notebookで公開されたCaitlin Quinlanによるインタビュー「The Distance in Your Eyes: Charlotte Wells Discusses "Aftersun"」を日本語に訳してみました。

シャーロット・ウェルズの『aftersun/アフターサン』は、2023年1月6日よりイギリス、メキシコ、インドを含む様々な国でデビュー特集としてMUBIで独占配信中だ(*日本は対象外)。ウェルズは最近MUBIポッドキャストの『aftersun/アフターサン』のサウンドトラックに関するスペシャルエピソードにも参加した。

記憶とは抜け落ちやすいものである。年月によって薄れていったりトラウマによって鮮明になっていったりする記憶は、焦点が合ったり合わなかったりするじれったい状態を繰り返す傾向にある。シャーロット・ウェルズの長編デビュー作『aftersun/アフターサン』で自身の記憶の深みを探っていくのは、二つの時代にいる主人公のソフィーである。二つの時代、それは子どもであった1990年代末、具体的には父親のカラム(ポール・メスカル)と過ごした夏休みと、ホームビデオと旅の儚さが過去への恋しさに似たようなものをもたらす現代である。
『aftersun/アフターサン』は休暇そのものに留まる。トルコのリゾート地でだらだらと過ごす日々、当時11歳だったソフィー(フランキー・コリオ)の未熟な思春期前の自信が、父親の内の憂鬱と並行して姿を現し始めるときである。劇中のほとんどの時間において、我々はソフィーの旅の記憶の中にいる。眠りから覚めたかのように意識が急に現在に戻る瞬間とは異なる。これらの瞬間、つまり子ども時代の記憶と大人の切望が組み合わさる瞬間は、ウェルズによる記憶の最も悲惨な呼び起こしである。ソフィーにとって、強まったり弱まったりするのは、父親と彼の悲しみのイメージ、その後起きる不可避の惨事である。霞んだ記憶の中では、カラムはガラスではっきり見えなかったり、カメラの映像でぼやけていたり、異常なほどの省略として機能するナイトクラブの閃光によって妨げられていたりする。これらはソフィーが気づかないうちに何度も見ている夢である。
『aftersun/アフターサン』はフィクションの中であっても、時間、空間、人間の感情的遺物を作る試みであるように感じられるーこれは我々の喪失感に対して作ってみたいと思うような物であるのかもしれない。中心的な関係が具体的なものであるのに関わらず、この作品は家族、少女時代、喪失、愛、痛みといったテーマに対して普遍性をもたらす(ファンタレモンと、かつて愛された輸入菓子を扱ったことに関してはイギリスにおける普遍性をもたらした)。メスカルと新人のコリオは遊び心がありながら、どこかぎこちない家族の親密性を、父娘関係にたやすく反映させる。二人の関係は心地良いものであると同時に絶えず不安定である。この雰囲気は映画のリズムによって強化される。リズムは呼吸を手伝う:あるときは一定せず不安定であり、あるときは寝ているときのようにたやすい。ウェルズと話したのは、カンヌでのお披露目とエディンバラでの初上映の次にあった、ロンドンでのプレミアを終えたばかりのタイミングであった。批評家たちの間の評判はすこぶる良かった。素晴らしい技量と共感を持って作られ、心の中で多くの場合、ばらばらになっていて触れることのできないようなものを映像にした貴重な作品であることを考えれば、当然の評価だ。ウェルズは記憶の儚さの中に入り込み、それを離さない。

NOTEBOOK: まず映画の中の記憶の呼び起こしについて伺いたいです。ソフィーの個人的な記憶があり、そして様々な人びとの間で共有される記憶、私が思うに特にイギリスの観客の間で共有されやすい、馴染みのある休暇、音楽、経験があります。この作品にとってなぜ記憶が必要だったのでしょうか。

シャーロット・ウェルズ(以下ウェルズ): このアイデアが初めて浮かんだときは、もっと直接的でした。休暇を過ごす若い父親と娘、娘の兄だと勘違いされうる父親、大の仲良しである二人についての映画が頭にありました。このアイデアが通ったとき、自分の記憶や思い出、自分の父との関係性について考える過程が、映画の構造にも浸透し始めたのだと思います。最初の概要は二ページでした。日ごとに整理して書かれたもので、ナイトクラブのレイヴのシーンは含まれていませんでした。徐々に書き進めていくうちに、そのシーンが誕生したのです。これは先の過程を反映しており、究極的にはこの作品が辿りつく地点にとって必須であると思います。時にはあのフレームを取り除きたくなるときもありましたが、あれが最終的には映画の中心になったので、省くことはできませんでした。そして、記憶の扱い方について参考になるものを探りながら見ていたことの一つは、他の監督がどのように記憶を描写しているかと、どのように観客を取り込んでいるかでした。
撮影はもう一つの過程でした。撮影監督のグレッグ (グレゴリー・オーク)と策略を練ることは、作品の中の視点を区別する方法を決め、大人のソフィーが主要な視点で、他の視点はある意味これに次ぐものであるという印象を与える上で重要でした。最後の過程の編集でこれを全て実現させなければなりませんでした。この映画のシークエンスには、記憶の感覚を生むのに大きな役割を果たすものがあり、それらは編集している間に発見されました。これらは撮影した映像の問題を解決するために、初めは削除されたものでした。必ずしも技術的な問題ではなく、速さ(ペーシング)や人物設定などの問題でした。しかし、今はそれらの映像なしで映画が成り立つことは考えられません。なぜなら映画を記憶として描くことに重要な役割を果たしているからです。

NOTEBOOK: フレームワークを取り除こうと思っていたのは、弱さや私的なことを見せすぎてしまうことを避けたい衝動から来るものだったのでしょうか。

ウェルズ: 私的な部分とは、様々な意味で人間関係であると思うので、それはそのフレームとは関係なくすでに存在していました。そもそも私は自分のことを見せすぎてしまうことなど考えてもいませんでした。なぜなら誰も映画を観てくれるとは思っていなかったからですーそれは制作において幸いなことだと思っています。怖かったのは形が崩れてしまったり、観客に伝わらなかったりすることでした。あるいは文字上ではかなり奇怪で抽象的なものー最初の脚本では始まりと終わりにあった繰り返されるレイヴーがあまりにも分かりにくいのではないかという懸念でした。

NOTEBOOK: 様々な人びとの間で共有される記憶について、人びとが共鳴しうる細部は意図したものでしたか。

ウェルズ: 制作中に意識したことはありませんでした。私が覚えていたディテールを入れることには興味がありました。そのような記憶を避けたわけではありませんし、時々作品への反応を読んでいて、ファンタレモンのような細かいことに気づく人がいると非常に嬉しくなります。おそらく私はそのような面に共感する人がいることを前提にしていて、自分に限定された思い出なのではなく共有されたものであるために、そのようなディテールを選んだのかもしれません。私が言いたいのは、それらを共有されているものであるからこそ特別に選んだのではなく、それらは共有されたものとして存在していて映画にも入っているということです。我々の多くはイギリスを離れたらすぐに自国にはないファンタレモンを飲み、マグナムアーモンドを食べました。そのような細かいことが記憶に残っています。これは空港でバスに乗って真夜中の道を走りながら、丘の方で光が灯るのを見て、朝陽が昇るまでどのような地にいるのか分からない状態にあるのと同じような記憶です。

NOTEBOOK: 人びとは先の具体的で小さなディテール以外に、明らかにもっと幅広い感情的な面にも共鳴したと思います。

ウェルズ: それは映画における余白を反映していると思いますが、映画の中には実に多様で「同じ結末に辿り着く前にきみならどうする?」というような不思議な道が存在しているような気もします。観客からフィードバックをもらう試写会で初めて上映したときは、予想を大幅に超える観客が理解していました。観客一人一人がその理解に寄与していました。映画の最初から最後まで全てのニュアンスをはっきりと述べる人はいませんでしたが、観客全体が理解していました。

NOTEBOOK: 選曲について伺いたいです。いくつかの曲は様々な人びとの間で共有される記憶を呼び起こしますね、ずっと知っているような曲です。

ウェルズ: 選曲には様々な背景があります。この映画に取り掛かっていた際に作ったプレイリストがありました。中には映画に使いたくて実際に使ったものもあれば、使うのに適切な箇所を見つけられなかったものもありました。これほど静かな映画において、歌詞が目立つときにそこから意味を見出すことはものすごく簡単なことで、それが多くの場合、深刻な問題になります。そのため、そこに乗ることもできれば、そこから外れることもできます。ただ、観客を誘導するのは難しいことでもあります。編集を担当したブレア・マックレンドンは、私のプレイリストと、音楽を監修したルーシー・ブライトのプレイリストから曲を選びました。ブレアはイギリスのポップ・ミュージックに全く関心がないので、ただ場面に適した曲を選びました。他には、当初この映画で使うつもりはなく、おそらく最も効果的に使われている「Under Pressure」のような意外な発見もありました。

NOTEBOOK: あの曲は数えきれないほど聴いている曲ですが、歌詞に注目したことはありませんでした。確かにあの曲が流れたときは歌詞に意識が向きましたー「愛は最も暗い夜を過ごす人びとを気にさせる」本当にぴったりです。「Losing My Religion」の使い方も絶妙だと思いました。

ウェルズ: あの曲は脚本にすでにありました。使えないことに備えて他の曲を考えておくように言われましたが、本当に苦戦しました。他の適した曲を探すのにすごく苦労しました。あの場面で歌詞が最も響くのは明らかですが、この曲を選んだ理由は歌詞以外にあります。私が初めて歌詞を全部覚えたのがおそらくこの曲だったので選びました。ただ、どこか無意識にあの場面に適切であると分かっていたから選んだ可能性もあります。

NOTEBOOK: 先ほど、編集のブレア・マックレンドンに触れましたが、個人的にはこの映画のリズムとペーシングが最も興味深いです。場面の中で余韻を残し、その瞬間の中にいるということを大きく実感できるようなたくさんの長回し、数々の瞬間が存在しています。そしてより不規則なリズムを生み出す短く、早めにカットが入る箇所もあります。編集の過程で、どのようにこのようなリズムを作り出したのでしょうか。

ウェルズ: いくつかのトランジションはすでに脚本にありました。より商業的なコンテンツの編集として仕事することがあるのですが、そこではカットで考えたり、書くときもカットや、場面の前後で音が入るタイミングを考えたりしています。ホテルに到着しカラムが電話をしている様子が映され、彼がソフィーの靴紐を結ぼうとするところにショットが変わっても、通話がまだ続いているという内容のシークエンスも脚本にあったものです。このような場面間の流れとトランジションの感覚があった瞬間はいくつかありました。私はトランジションについてたくさん考えますし、撮影監督からも脚本を書く時点でトランジションについて考えるように迫られます。
あとは純粋に編集の力です。最初に完成したものは二時間半で、脚本をそのまま映像にしたような、撮影したすべてのシーンを含んだぐちゃぐちゃなものでした。その後形を整え、ペースを掴むのに試行錯誤が繰り返されました。結末、つまり映画の最後の40分に関しては、原本とほぼ変わらないです。そこは完成されていて自然な流れでした。むしろ前半、三分の二における部分が常に最も多くの問題を引き起こし、観客自身が分からなくても我々の映画の方向性は定まっていることを彼らに納得させるために最も多くの試みを強いられました。映画の初めを占める、仲の良い二人が休暇を共に過ごす様子を見ることだけに観客が満足してくれることを祈るしかない気もします。結末につながる、時間が経てば戻ってくるような伏線をたくさん張っているものの、かなり長い間、観客にただ見守ることを求めているわけですから。流れるようなシークエンスを作るときもそうです。長引かせるときは、それが本当に必要だからです。例えば、初めのバルコニーで煙草を吸っているところは、観客を引き込むために存在します。

NOTEBOOK: その場面のような、カラムを後ろから、あるいは窓や鏡を通して観客が目にする瞬間はたくさんあります。彼が物思わしげに映されているのには、明白な理由があるのは分かりますが、監督がカラムをベールの下にいるかのように撮る実際の理由は何でしょうか。

ウェルズ: おっしゃる通り、あれは意図したものです。私にとって、カラム一人のシーンはある程度想像されたもの、あるいは想像と、後に知ったことから情報が付け加えられたり、ソフィーの感覚、寝ているときにうっすらと扉が開くのを聞き、カラムのしていたことに何となく気づいていたりしたような感覚が組み合わさったものです。それを伝えるためにはー観客が我々の意図を正確に汲み取れることを期待していた訳ではありませんがーある印象を与えるためには、この作品のどの物や人よりもカラムを一定の距離を保って撮ることにしました。それはつまり、カメラと彼の間の物理的距離を保ち、より広角なレンズを使い、鏡やガラスを通して撮り、彼がはっきりと見えることのないように壁で遮ることを意味しました。終盤になっても、彼がベッドで号泣している様子が撮られるのは後ろからです。興味深いのは、脚本ではきれいに映すために、彼は窓の方を向いて後ろからシルエットしか見えない状態で撮られると書いてありますが、グレッグは我々はこの人物と瞬間において、美しいショットを追求すべきではないし、壁に向かって囲むようにして撮るというより適したショットがあるというもっともな反対意見を出してきたのです。結局実に美しいショットに仕上がったのですが、カラムをあのように撮ることを固く決めていたのは、カラムが、最後まで不可知の存在であり続けることが我々にとって重要だったからです。観客の中にはそれに苛立つ人もいるでしょう。しかし、それがこの映画の過程なのです。彼について知り得たことなど、どうでも良いのです。

NOTEBOOK: この作品がソフィーの成長物語をよりノスタルジックで感情的な父親の描写と融合させていることについて伺いたいです。なぜ二つの物語が融合されることが重要だったのでしょうか。

ウェルズ: 面白い質問ですね。私は上手く混ぜ合わさることに対する確信を持つことはなく、一つではなく二つの映画を作っているのかもしれないと思っていました。なぜなら、最もかけ離れた、フィクションの、型にはまったバージョンの物語の中にも、成長の要素は常に存在し、残り続け、はっきりとしており、そして扱いにくかったり理解しづらかったりすることはありませんでした。むしろ、効果的に伝えられているのかが不確かな、より小さな瞬間がありました。しかし、我々はそのような物語をスクリーン上で目にすることに慣れているため、理解できる範囲にあったと思います。そのような瞬間を残しておく方がしっくりきました。この作品は数多くの事柄を扱っていますが、その一つは共有された喜びと私的な憂鬱、または個人の経験と他の共有された経験が互いに矛盾しないということです。そのため、年上の子たち、マイケル、芽生える身体とセクシュアリティへの何らかの意識といった要素が残り、それらのディテールこそ、ファンタレモンと同じくらい捉えることに興味がありました。

NOTEBOOK: フランキー・コリオ、ポール・メスカルと共にこれらのニュアンスを引き出していった過程も気になります。

ウェルズ: 二人とも引き出すのがとても上手です。演技において求めることを何となく自分で決めていたはずなのですが、何テイクも撮りながら、いずれ編集室でなぜそんなに撮りたがったのだろうと不思議に思うことをすでに分かりきっていたのが面白かったです。そして実際思っていた通りのことが起きました。しかし、その瞬間にいるときは、画面にあるすべてのジェスチャー、声の抑揚、環境と調和しているのです。常に自然な演技と話し方をすることが大切でした。フランキーがカメラの前でできるだけ楽になれるようにして、子どもたちの遊び心、10代の子たちがフランキーと過ごしながら持っていた遊び心を捉えようとすることが重要だったのです。
フランキーは子どもだったので、厳しい時間との戦いも強いられました。演技であれこれ試してみる時間はあまりなかったのですが、それでも時間ができたとき、試すことができたときは本当に楽しかったです。すごく満足のいく時間でした。異なる意図を持ったり、新しいことを試したり、他の人を何らかの方法で驚かせるようにお願いしたりする機会が生まれたとき、一瞬だけ時間がゆっくりと流れているようでした。脚本上の場面の自然な終わりに到達した後、カメラを回し続け、何が起きるかを見ているときもそうでした。カラオケのシーンに関しては、フランキーが観客に見せたことをどれくらい気にしているかについて、ここ数日ずっと聞きたいと思っているのですが、少し聞くのが怖くてまだ聞けていません。彼女が演技するときに考えすぎるかもしれないと思うと怖いのです。

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