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10年で倍増した世界の難民、ganasはこう考える

皆さま、こんにちは。途上国・国際協力に特化した非営利メディア「ganas」編集長の長光大慈です。

きのう6月20日は「世界難民の日」でした。この機会にganasの考えを書いてみました。ganasの原点ともいえるお話です。

世界的に難民の数は増え続けている、といったことは皆さまも聞いたことがあると思います。難民の数はいまや1億2000万人(世界人口の74人に1人)。「日本の人口とほぼ同じ」といわれるようになりました。

ganasを立ち上げたのは2012年。前年に勃発したシリア紛争が泥沼化していったこともあり、難民が急増し始めた時期です。その何年か後には6000万人を超え、当時は「タイの人口とほぼ同じ」といわれていました。 

難民の数はおよそ10年で倍増したわけです。凄まじいこと。皆さまの中にも、「難民」になった知り合いをもつ方はおられるのではないでしょうか。

オリンピックでは2016年のリオから「難民選手団」ができました。このニュースはけっこう僕を驚かせました。と同時に、なるほどな、とも感銘を受けました。これが間接的に、「経済崩壊で生活苦に陥るベネズエラ人から学ぶ『命のスペイン語レッスン』」などのアイデアにつながっていったわけです。

この夏のパリオリンピックでは、過去最多となる36人が難民選手団の選手として参加するそうです。団体競技に参加する場合はさておき、多くの途上国が派遣する選手の数を上回っていますよね。この多さも驚きです。

紛争、災害、迫害、経済危機など(難民となる要因は複雑に絡み合っています)が地球上で増えていることを考えると、難民の数は今後もますます増えていきそうです。難民になった人たちにとってみれば、これは「抗えない運命」ではないでしょうか。庶民に生まれてしまったら、個人レベルではどうしようもない。

僕が初めて難民と出会ったのは、1985年に親の仕事の都合でアメリカ・カリフォルニア州に引っ越したときです。僕が通った現地校には、ほぼ同じ時期にやってきたイラン人の生徒が2人いました。幼いときに海を渡ったベトナム人もいました。当時はベトナム難民のことを「ボートピープル」という差別的な呼び方をしていました。

妹の学校(クラスメート)にはニカラグア人がいて、僕はこのとき初めて、ニカラグアという国をちょっとだけ知りました(当時の僕には日本からラテンアメリカはあまりに遠かった)。ただニカラグアは紆余曲折を経て、いまも難民を出しています(国民は幸せになっていない)。アメリカがバックにいた独裁者一族を倒した1980年ごろの「サンディニスタ革命」はなんだったのでしょう。政治に翻弄される運命。

このほか、難民ではありませんがメキシコ人は数知れず。

ベトナム人とは同じクラスはありませんでしたが、彼のステップファーザー(白人)が「COCO'S」のフランチャイジーをしていたので、「タダ飯を食いに行こう!」との誘いを受け、放課後によく一緒に行っていました。お互いの家にも何度か行き来しました(ただステップファーザーとはしゃべったことはない)。僕が行った学校にアジア系の生徒は少なかったので、お互いに親近感を覚えたのでしょう。

イラン人2人とはいくつかのクラスで机を並べました。いまでも明確に覚えているのはアメリカ人(白人)の先生が教室の中でたびたび、イラン人の生徒に対して、大きなゼスチャーで「I ran」と蔑んでいたことです。

イラン(Iran)は英語では「アイラン」みたいに発音します。言い方によっては「私は逃げてきた」みたいな意味になるのです。

差別的なジョークに15歳のイラン人の少年は笑顔を引きつらせていました。先生に歯向かうと、クラスからキックアウトを食らい、居場所を失ってしまいます。母国が混乱していられなくなったから、右も左もわからない外国に親に連れてこられただけなのに‥‥。

意識が高い層が集まる大学ならいざしらず、普通のアメリカ人(生徒も先生も)が通う高校なので、こういったことは日常的に起きていました。

イランの少年にとって為す術はありません。1979年のイラン革命でイランは反米政権になったので、アメリカでのイランのイメージは最悪でした(余談ですが、1990年ごろから、イラン系のテニスプレーヤーであるアンドレ・アガシが登場し、人気を博します)。ちなみにイラン出身の先生が学校に1人いたのですが(英語もなまっていた)、彼は白人のように振る舞っていました。いまから思うと自己防衛だったのでしょう。

そのせいだったのか、イラン人の2人は学校に「友だちらしい友だち」はほとんどいなかったように思います。校内で見かけてもだいたい独りぼっち。アメリカ人の生徒と、またはイラン人同士で時折けんかをしていました。子どもながらにいろいろ抱えていたと思います。居場所も、帰る場所もない不安。

僕は日本人だったので(これも運命)、ここまでの差別はありませんでした。ただジャパンバッシングの最中だったので、いま振り返ると、自分の身に差別が降りかからないよう、イラン人と距離をとっていたところがあったと思います(自分にとってトラウマのひとつになってしまった)。実際、メキシコ人を家に一度入れたら、近所の目(白人)がすごかったので。

日本の藤尾・文部大臣(当時)が1980年代半ばに「アメリカの高校のテストの平均スコアが低いのは、ヒスパニックや黒人がいるからだ」と発言したことがあります。それがアメリカでも取り上げられたので、翌日に学校へ行くのは「ひやひやもの」でした。日本のメディアでは実際、アメリカ在住の日本人の高校生が黒人に囲まれた、みたいな記事も出ていました。

不思議なことに、こういった“負の経験”は10代後半、20代、30代とほぼ忘れていたのに(おそらく“良い思い出”にかき消されていた)、40代、50代と年をとっていくと逆に蘇ってくるのですね。なんなのでしょう。皆さんはどうですか。

ここ10年ぐらいでしょうか、日本では一部の勝ち組のインフルエンサーを中心に「給料が低い(稼ぎが悪い)のは自分が何もしないからだろ。日本政府のせいにするな」といった論調が目立つようになりました。

そういった面も確かにゼロとは言い切れません。ですが、人にはそれぞれ「どうしたって抗えない運命」があると思うのです。具体的に言うと、生まれた場所(国、街、村、家庭)、家族、周りの環境、健康、しがらみ、価値観、性格‥‥。

さまざまな事情を抱える難民もそうしたひとり。僕も含め、重たい運命を背負ったことのない大半の日本人にとっては、遠巻きに眺めるだけでは「他人事」なのでよくわかりません。近づいて初めて、彼らの状況や心情などが少しずつ少しずつわかってくるのです。なのに、さして理解もせずに、表面だけをとらえて批判するのは無知すぎないか、建設的なのか、と考えてしまいます。

こうした事態が日本でいま起きている場所のひとつが、およそ2000人のクルド人が暮らす埼玉県川口市なのかもしれません。犯罪は個人の問題。それをコミュニティ全体のせいにするのはどうなのでしょう。この風潮に、孤独だったイラン人の少年の姿を重ねてしまいます。彼はその後、どんな人生を歩んでいったのでしょう。

批判しあったところで誰も幸せになりません。ならば相手にやさしくなったほうがいい。小さくてもいいから何ができるかを考えて、それを実行していく。そのほうが社会も良くなるし、また行動することで自らも人間としての深み(?)が出てくるかなとも思います。

ganasの活動の原点は上のような考えに基づいています。ganasパートナー/サポーターの皆さまのおかげで、「運命には抗えないけれど、諦めない人たち」の暮らしを直接的、間接的に少しでも支えようという活動(情報発信も含め)が続けられています。本当にどうもありがとうございます。

ganasが現在募集中の難民にかかわるプログラムは下のとおりです。難民と近づき、彼らのことを知りながら、自分を高めていきませんか。

最後にひとつ付け足しておきます。難民は普通の人たちです。

【早割6/29】難民・国内避難民・先住民を取材しよう!『Global Media Camp in コロンビア』参加者募集

【〆切7/16】急増するミャンマー難民を取材しよう!『Global Media Camp in タイ』参加者募集 

経済崩壊で生活苦に陥るベネズエラ人から学ぶ『命のスペイン語レッスン』(12期)、「お試しコース」のみ追加募集