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悪夢としての日常――『パラドクス』@アマプラ

このアマプラの画像、釣りとはいえ酷すぎる。いかにもB級サイコホラーっぽいけど中身が全然違う。一昔前の実験映画や、あるいはトワイライト・ゾーンを思わすようなテイスト。しごく真面目に作っている。

監督のアイザック・エスバンの長編処女作。『パラレル 多次元世界』がとても面白かったので続けて見たけど、この監督には哲学的ないし実存的な問題意識があるようだ。メキシコ出身のユダヤ人らしい。小説家としてキャリアを始めたようだ。

原題は『The Incident』で「パラドクス」とは何の関係もない。作中にパラドキシカルな展開は全く出て来ない。日常生活の渦中に、ちょっとした出来事が起こる。それがどんな出来事だったかは作中では全く示されない。とまれ、その出来事をきっかけに2組の登場人物たちは、それぞれ無限ループの世界に入り込んでしまう。

映画の出だしは犯罪モノかと思わせる。容疑者を追ってきた刑事は抵抗に遭い、意に反して相手に重症を負わせ、死なせてしまう。その弟と刑事の2人は9階建てのビルの非常階段に閉じ込められて出られなくなる。1階まで降りたら9階に戻ってしまい、そのくり返し。ここに至って初めて、この作品が犯罪ドラマなどではないと判明する。狭い非常階段から出られぬまま35年経つ。常軌を逸した設定だ。

場面が切り替わり、次に紹介されるのはしごく平凡な家族だ。離婚した母と一緒に、元の父の家へと休暇に出かける子供たち。運転するのは母の再婚相手の義理の父で、賢そうな長男はこの気の好い太っちょを嫌っている。下の娘はまだ幼い。かれらも何かの出来事をきっかけにアメリカの荒野のハイウェイからの出口を見失う。どこまで行っても同じところに戻ってきてしまう。そのうち幼い娘は喘息で死ぬ。こちらも出られないまま35年経つ。

なぜか食料や衣服などは同じものがどこかから補給され、かれらが死ぬことはない。が、他に誰もいない閉じた空間で、気晴らしの対象もなく無為に2人ないし3人だけで35年間も過ごすことになると、当然ながら普通の人間は正気でいられなくなる。

非常階段のループにおいて、刑事は地上に残してきた家族のことを思いながら、いたずらに年老いる。一方、容疑者の弟はこの階段しかない空間で、自らのスペースを作りあげる。起きると歯を磨き、身ぎれいにし、毎日1階から9階まで走って体を鍛えつづける。

荒野のハイウェイのループでは義理の父と少年の決裂は深刻で、2人は別々に暮らしている。前者は酒浸りで年老い、その細君は発狂し、認知症になって足腰も立たなくなっている。デブの男は、そんな亡骸になったような妻とカーセックスを続けている。地獄絵図である。

少年のほうはデブと縁を断ち、荒野に自らのテントを作り、サボテンの実を茹でて食べ、山頂で外の様子を監視しながら規則正しい生活を送っている。

どちらのループにおいても、自律的な生活を送れない者は虚しく老いてゆくばかりだ。

どうやらこの無限ループの世界と表の正常な世界はどこかで繋がっているらしい。前者で日々エネルギーを生み出し蓄える者は、後者の外の世界の自分にそれを反映させ、幸福な人生を送る。――この監督はひどく親切な人で、映画の最後で物語の仕組みを種明かししてくれる。

というか、種明かしされると埒もない話なのである。誰にでも公的で社会的な活動に従事する表の自分と、ひとには見せない私的で内的な裏の生活がある。私たちは人生のある瞬間に、ひたすら同じことをくり返すだけの私生活に入り込み、そこから出られなくなる。それは外の生活とは切り離されている。じつを言うと、それこそ社会生活の始まりだ。この映画ほど、それを露骨に示した表現を、映画はもちろん小説やマンガでも他に見たことがない。

この映画の一方の主役のように、私たちは朝起き、歯を磨き、身なりを整え、いつもと同じような朝食を食べ、ひとによっては筋トレに励む。あるいはランニングをする人もいるかもしれない。そして同じような本を読む。くり返し同じ音楽を聴く。壁に書き物をする。じつは日常とはそうしたものだ。

私自身の場合は朝8時ごろ目が覚め、ツイッターを眺め、起き出して歯を磨き、別にどこに出かけるわけでもないが、きれいに髭を剃る。裏のコンビニで買ったコーヒーを飲みながら煙草を一服。

家に帰るとホットサンドイッチを作る。具材はチーズ、ハム、野菜やタマゴ。これらを挟んでトースターで焼く。YouTube を見ながらそれを食べる。ネットラジオでジャズをかけっ放しにしながらツイート&リツイートする。飽きたら厚い本をちびちび読む。夕方はスパに出かけることもある。いっこうに退屈しない。

外から見れば、日常は退屈極まりない生活の繰返しにすぎない。が、じつはその繰返しが外の生活の活力を生む。映画ではあたかも悪夢のように描かれるが、そんな日々を悪夢と言うのであれば、誰にとっても日常とは悪夢である。

本作では35年経つとその悪夢から解放されるという設定になっている。私たちは別の人格に移るが、そのとき自分の本当の「名前」を忘れてしまう。過去の自分がどんな人物だったかを忘れる。他の人を巻き込んで、また同じような生活が繰り返される。やがて老いて死んでゆく。

この監督が奇妙な悪夢のように描く世界は、じつは私たちにとっての生活そのものである。日常とは悪夢のような同じことの反復である。そのなかで正気を保つべく日々努力する者と、精神を病み、生活を崩壊させて徒に老いてゆく者との対比が――悪意を以て――描かれている。

その意味で本作はサイコホラーなどでは全くなく、至って健全な世界観に貫かれている。それが健全に見えないとすれば、私たちのほうがむしろ病んでいるのである。


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