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エゴン・シーレと肉体なきエロス

レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才
@東京都美術館
https://www.egonschiele2023.jp/index.html

エゴン・シーレの絵は基本的に師のクリムト、ジャポニスム、印象派から強い影響を受けている。しかしそれは当時のウィーンにあってはごくありふれたことだ。本展では当時のウィーンの画家たちの作品がいくつも紹介されているが、その誰にでもほぼ当てはまる。

たとえば18歳の時の『装飾的な背景の前に置かれた様式化された花』(1908年)。装飾的かつ様式的に花を捉え、ジャポニスムの影響が歴然としている。色彩感覚はクリムトを思わす。この作品に限ったことではないが、28歳で死んだとは思えぬほど完成度が高い。

『装飾的な背景の前に置かれた様式化された花』(1908年)

クリムトはシーレの才能を一瞥して見抜いたし、こんな若くて才能のある画家が現われたら、誰も放っておかない。パトロンに恵まれた、ほぼ順風満帆の画家生活だったと言っていい。風俗紊乱で牢屋に入れられたことなど大したエピソードではない。田舎の村で、少女を裸に剥いてスケッチしていたら、そりゃ捕まるに決まってる。ウィーンでやっても物議を醸していただろう。それに大なり小なり画家が貧乏なのは仕方ない。

ヴィトゲンシュタインも田舎の小学校に赴任して、まわりから理解されず酷い目に遭っている。おなじくウィーン出身で、1890年生まれのシーレより1歳だけ年上だ。ほとんど違わない。都会に辟易して、田舎の純朴さに憧れたが、いざ行ってみると連中は都会人よりよほど性質(たち)が悪かった。都会と田舎の対立が歴然とした時代だ。別の言い方をすれば、都市文明がいよいよ人間の生存条件を超え、田舎の伝統文化と相容れなくなってきた。

死の観念に取り憑かれていたこと、俗世を嫌い、生を賭して世界の真実に迫ろうとしたこと、しかもそれを徹底的に厳密なやり方で、いわば方法論的に推し進めたところなど、両者には似ている部分がある。上掲のシーレの自画像にしても、この哲学者にどこか似ている。

シーレは若くして理解者に恵まれた。それもあってか、パトロンを描いた人物像がどれもいい。今回の展覧会では『カール・グリュンヴァルトの肖像』(1917年)に唸らされた。相手の人となりをちゃんと見ている。シーレのことを夭折した「呪われた芸術家」のように扱うのは間違っている。そんな破天荒なタイプではなかっただろう。鉄道員の息子だし、基本的にしっかりした志操堅固な人物だったのではないか。クリムトのような多情多淫の芸術家とは違う。

ちなみに、この師弟はともに1918年スペイン風邪で死んだ。つけ加えるなら、クリムト同様に世紀末絵画の巨匠と目されるフェルディナント・ホドラーも同年にジュネーブで世を去っている。奇しくも第1次世界大戦が終わった年である。これによりウィーンを中心とした世紀末芸術は完全に終わりを告げたのだとも言える。ファシズムの台頭が目の前に迫っている。

『カール・グリュンヴァルトの肖像』(1917年)

多士済々だったウィーンの画壇にあって、シーレだけは他と隔絶している。その理由は彼がクリムトの影響から離脱しようと企て、それを突き抜けたところにあるだろう。

クリムトの絵の魅力は装飾化されたエロティシズムにあるのは言うまでもない。エロティシズムとは肉への愛である。一歩間違えれば俗悪になる。というか、俗への転落は避けがたい。むしろそこに退廃的な魅力が生まれる。その妙味を謳歌したのがクリムトだったと言える。

クリムト『ユディトI』1901年

肉とは曖昧で、不安定なものだ。白い顔のなかに赤や茶や黄を見て取ることができる。表情の変化にあわせて、それらの色彩も動く。歳を経るにつれ深く皺が刻まれてゆく。

白人だ、黒人だ、黄色人種だ、などと言うが、それらは観念にすぎない。真っ白な人間も、真っ黒な人間もいない。黄色い人間などいるはずもない。

ワイのように色白でぽっちゃりしたタイプでも、歳を取ると顔にシミが浮き出てきて、鏡を見るのがいやになる。若いころは白皙の美男子だったはずなのに……(自己評価)

ましてスパなどで他人の裸体を眺めると、じつに汚い。シミやらニキビやらボツボツやらデキモノやら。私たちはそれを見ないで済ませているにすぎない。どんな美人や美男でも、完ぺきな肌の持ち主などいない。デキモノの1つ2つは必ずある。酒を飲んだり、怒り心頭に発すると赤くなる。思いがけぬ出来事に出くわすと青くなる。皮膚はつねに戦場である。

おそらく印象派の影響もあるのか、シーレの人物画に特徴的なのは彼らの顔や肉体がさまざまな色のモザイクのようになっているところだ。若い女なのに、シミだらけの老人の皮膚のような絵もある。まさに過酷なリアリズムと言えよう。健全なる市民たちが好む表面的な美などに画家は関心がない。そんなの観念にすぎない。近代の芸術とメディアが生み出した幻想にすぎない。

概して絵画は皮膚を、そして裸体を美化して描いてきた。本来、裸体はおぞましい。性欲に伴われなければ――フロイトの言葉を用いるなら、リビドーの備給に伴われなければ、裸体は欲望を誘う対象になどなり得ない。欲望は社会化されている。私たちは美しいとされる女体の美に魅惑されているにすぎない。彼女たちを自分のものにしたとして、それが当たり前になれば、そこに欲望を感じることはなくなる。どんな美人も3日で飽きる。愛情と利害に伴われてこそ、夫婦仲は永続的なものになる。皮膚を擦り付け合うだけの関係は長続きしない。

社会化された欲望としての性欲を剥ぎ取ったとき、私たちは女体ひいては人体をどのように見ることになるだろうか。それがシーレの意図的な実験であった。たとえば『頭を下げてひざまずく女』(1915年)を見て、そこに通常の意味での性欲を覚える者はいそうにない。モデルがいかに煽情的な姿勢を取ったところで、それは性欲をそそるものでは必ずしもない。

『頭を下げてひざまずく女』(1915年)

距離を置いて見るなら、まるでピンクの薔薇のようではないか。目は惹きつけられるが、性欲はそそられない。

『横たわる女』(1917年)

『横たわる女』(1917年)もそうで、まさに男根を受け入れようと誘っているかのようなポーズだが、いっこうに欲望はそそられない。あたかも花弁に包まれた白い薔薇のようである。

シーレの裸婦は人間というより花である。それはインスタにアップされるような心なごませる花のイメージではなく、いわば生物学的関心から捉えられたリアルな女体である。花とその雌蕊を眺める時のように、私たちはそれを見る。まじまじと見ることが禁じられた恥部に視線は収斂される。破廉恥とも言えるが、決して俗悪ではない。市民的な性欲の枠が外れたところで、視線はあてどなく彷徨する。その意味で、官能的な花の写真で知られるロバート・メイプルソープは、シーレの過酷な視線の時代を隔てた継承者だ。

欲望は肉を求める。皮膚に立ち止まろうとする。ところが肉身は動き、皮膚も色を変える。一瞬も立ち止まらない。そんな不実な肉を剥ぎ取った後に残る美の真実とは何か。シーレにとっては、それが形象だった。形の美である。形のなかに収斂された美にこそ、むしろエロティシズムが宿るのではないか。しかし、そこまで研ぎ澄まされたエロティシズムは死と隣り合わせになる。肉なき生存などあり得ないのだ。

ウィーンの芸術家たちは死の観念に取り憑かれていた。21歳のとき描いた『自分を見つめる人II(死と男)』(1911年)。死神を思わす人物が男を後ろから抱き、右側には髑髏のような男の顔が浮かぶ。身動きの取れぬ閉塞感に画面が支配されている。

『自分を見つめる人II(死と男)』1911年

肉身をいわば超越論的に還元すること。これは恐らくフッサールの企てとさして変わらない。視線は社会的なものである。これを徹底的に還元したところで見えてくるものを追求する。そのとき私たちは避けがたく社会化された肉体の観念にしがみつく。それを手放すことは恐怖を伴う。死をも予感させる企てである。

しかるに、その向こうに突き抜けてしまえば、肉身という幻想から解放された自由な形象と運動の世界が開けている。人体と花は区別できない。女陰と雌蕊は区別できない。人間と自然は区別できない。そこには自然のリズムと人間の共鳴が生じる。

この点に自覚的だったのが先に挙げたフェルディナント・ホドラーである。ウィーン分離派はホドラーを崇敬していた。むろんシーレもどこかで意識していたに違いない。以下は風景画に専念していた時期のシーレの言葉だが、おなじことをホドラーが語ったとしても不思議ではない。

「今もっぱら私は、山や川や木や花が自然界でどう動くか(physical motion)観察しています。至るところ人体におけるのと同じような運動が見い出されます。――植物においても喜悦と苦悩の衝動が見い出されるように」

At present, I am mainly observing the physical motion of mountains, water, trees and flowers. One is everywhere reminded of similar movements in the human body, of similar impulses of joy and suffering in plants.

「私は、いかなる生き物も不滅だと信じています」
I believe in the immortality of all creatures.

自然界の運動と一体化することがもし可能なら、それはほとんど宗教的な覚醒ともいうべきものになり、シーレの画業はベルクソン的な生命力に満たされたものになっていただろう。かれはその手前にとどまった。ウィーン子の限界とも言えようが、むしろそこにおいて彼は命の形象を結晶化させるのに成功した。たとえば『吹き荒れる風の中の秋の木』(1912年)は、まさに生と死が一枚の絵のなかに形象化され、織り込まれ、刻み込まれている。写真ではその深みがなかなか伝わらない。この作品に限ったことではない。本展に出品されたシーレの絵はさほど多くないが、その風景画に注目したところにキュレーターの手柄が見出せる。シーレは人物を風景のように見、風景を人物のように見ている。

『吹き荒れる風の中の秋の木』(1912年)

生を超えるものに死の側からしか接近できないと観念するとき、芸術家は苦悩にまみれる。それは1人の芸術家の悲劇というより、1つの文明全体が背負うほかない共同の悲劇ないし運命と化す。生ある者は死のイメージにしがみつく他なく、死がこれを抱擁する。

『死と乙女』(1915年)

そのとき絵画は白光をもって燃え上がり、白い鬼火と化す。エロスなき肉体が焼かれ、肉体なきエロスが閃光を放つ。シーレの絵にはそんな冷たい炎が封じ込められている。

『抱擁』(1917年)



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