コミュニティの「余白」

個人の価値観が尊重される時代となり、個人の発信力が増大したことで、様々な価値観や嗜好に立脚したコミュニティ(家族や任意団体を含む。)が誕生している。他方で、権力者は、昭和型の伝統的なコミュニティに属している割合が実感としてまだまだ高い。「多様性」という標語を掲げている集団は徐々に増えつつあるが、日本ではまだまだマイノリティであろう。

 ここで、日本の状況を示したい。日本では大部分の「コミュニティ」が自転車操業であり、いろんな意味での余白が僅少である。例えば、コミュニティの例である『国・地域・企業・家族』を見ると、何らかの負荷を最大単位のコミュニティである国から地域・企業→家族と、より小さなコミュニティに譲与?している例が散見される。ここで新たな視点を申し上げたい。コミュニティの最小単位には、実は「個人」が実質的に含まれることになるというものだ。「自己責任論」が蔓延る背景には、個人に譲渡?せざるを得ない(余白がない)状況ということがある。現代の日本は、この何らかの爆弾のような負荷をより小さなコミュニティへ譲与し、爆発による被害を最小限に食い止めようとするようなものである。

 小さな単位コミュティ(特に家族)への過度な負荷の譲渡は、そのコミュニティから逃げ場がない場合(ガス抜き装置がない、居場所がないなど色々な場合がある。)には、コミュニティ内の弱者にその負荷爆弾をぶつけることとなる。その事象は、コミュニティの大小問わず引き起こっている。例えば、国から地域・企業などに負荷を過度に譲与すれば、地域・企業は、マイノリティ(例えば、LGBTといった伝統的コミュニティに属する者が理解できにくい思想を持つ少数集団。)に負荷をぶつけ、多数派を生かそうとする(これが人間の本能ならこの仕組みに革命を起こしたい。)。現状、マイノリティもあの手この手で国や企業などから生存権の担保を図ろうと試みているが、どのコミュニティも余白が無いため、満足な権利を獲得できていない。

 他方で、根底にある価値観が異なるコミュニティが多数成立した場合、これらを包摂する最大コミュニティ(国)が崩壊する(所謂カオス状態)。話題が合わない人は交わらないため、有事の場合を除いて、お互いのコミュニティを繋げようとするインセンティブは働かない(そもそも、価値観が異なるコミュニティの存在に気が付かない。気が付くきっかけがない。)。大きなコミュニティ(国)の中でも多様性を重視したい場合、コミュニティの乱立に伴う新たな秩序の発生を寛容に認める一定程度の余白がなければ、負荷の押し付け合いによるマイノリティの抑圧が生じることを肝に銘じる必要があるであろう。

 さて、日本には「余白がない」とされる原因は、いくつ考えられるが、ここではCMとして、「MBA信仰によってもたらされたロゴス偏重による概念依存体質」と「無駄を省くことを美しいとする感覚(現代の主流の宗派である合理性を崇める合理教)」を列挙したい。この話は長くなるので、これ以上は立ち入らない。

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