渡りの道標
旅客機の飛行高度8,000〜12,000メートルから、外の青い空と白い雲だけの世界を眺めている時にふと思った。毎年、日本列島と大陸との間を行き交う渡り鳥たちは、どれくらいの高度で飛んでゆくのだろうかと。
調べると低高度を飛ぶ鳥で500メートル、それから種類ごとに段階的に上がって、鶴はなんと1万メートル上空を飛行するとのこと。国内線の巡航高度とほぼ同じだ。旅客機のパイロットによる目撃事例もあるらしい。
なるほど。渡り鳥たちはこんな風景を眺めながら飛んでいたのだ。
どうやって目的地にたどり着くのだろうか。それは体力と風向き、記憶、そして体内の方位磁針だそうだ。
繁殖あるいは食料確保のため、命を懸けて海を渡る大冒険旅行。それはまず、最初に空高く舞い上がり、風に乗ってゆくことから始まる。体重の重い鳥は短距離、軽い鳥は長距離を飛ぶ。昼間移動する大型の鳥は太陽、夜移動する小型の鳥は星の位置を参考にして方向を見極めるとのこと。
更に体内のマグネタイトと呼ばれる小さな磁石が方位磁針として働く。
おそらく天候不順などの影響もあるだろうから、太陽や星の位置を基準にするより、この方位磁針の存在の方がより重要ではないだろうか。
目的地近くになると高度を下げ、記憶を頼りに地形を見て判断し、目指す場所へと正確に降りてゆくという。
ただ科学の分野ではまだはっきりと解明されていないらしい。方位磁針ではなく、光化学コンパスによるという説もある。いずれにしろそうした鳥の体内にある何らかのコンパスが、主要な働きであることは間違いなさそうだ。
つまり大空を飛んで渡りをする鳥たちの道標は、自らの体内にもあるのだ。
興味深いのはそのマグネタイトという体内磁石は渡り鳥のみならず、昆虫や小動物、そして人間にもあるという。
そう言えば、北枕にして夜睡眠を取ると、眠りが深くなり、疲れも取れるという話をよく耳にする。
北から南へと磁場が流れているから、その線に沿って寝ることで、頭頂から足先へと流れる体内のエネルギー場も安定するということらしい。人間もまた体内磁石と地球の磁場との密接な関係性を持っている。
今日、現代人はスマホやカーナビのおかげで何処にでも迷わず行ける便利さを手に入れたが、大昔の人々はコンパスのなかった時代に、長距離の大移動を徒歩で行った。
しかし月も星も今よりずっときれいに輝いていただろうし、大地の地形も遠くまですっきり見渡せて、進むべく進路を容易に決断することができたかもしれない。
大昔、カムチャッカ半島からベーリング海を越えてアラスカ半島へと徒歩で渡った人々の口承伝記によれば、約13,000年前までは海面が今ほど高くはなく、現在ベーリング海に連なって点在するアリューシャン列島の数百の島々が陸地で繋がっていた時代があったという。
その陸路を伝って、シベリアから北米大陸へと渡った人々がネイティヴアメリカンの祖先にあたる人々であり、さらに南下した人々はインカやマヤの祖先となった。
海面が急激に上昇し始めたその13,000年前にベーリング海を渡った最後の人々は、波が激しく打ち寄せる岩場の頂に部族の皆が集まり、幼い子供を輪の中心に置き、周りを大人たちが囲み、部族全体をロープで縛って、波にさらわれないよう固定して毎夜を過ごした、という壮絶な話も残されている。
その話はまだまだ先がたくさんあるが、ここでは本題ではないので深掘りはしない。しかし人間もまた命をつなぐために新天地を求めて、片道切符の『渡り』をしていた証しの一つだと思う。
ベーリング海を渡った人々がどのような気持ちで日々を過ごしていたのかはもちろんまったく想像できない。
しかし、ほんのわずかでも現代人との共通意識があったとしたなら、もしかしてこんな思いがあったのではないか、という憶測の手がかりになるような経験がある。
それは若い頃、遺跡発掘のアルバイトをしていた時の経験である。
東京郊外の、とあるマンション建設予定現場で行われた発掘調査で、私が任されたのは縄文時代の竪穴式住居の発掘だった。縄文時代は今から2,300~15,000年前くらいという定説がある。もしかしたらベーリング海を渡った人々とほぼ同年代だったかもしれない。
発掘現場ではまず重機を使って現代の表土を30~50センチほど取り除く。その後手作業で少しずつ薄皮をはぐように土を削っていくと、弥生時代やその下から縄文時代の表土が現れる。土の色の違いから遺構が特定される。固い茶色の土は古い土、柔らかい黒い土はそれよりも後に堆積した新しい土だ。慎重に黒い土を取り除けば、どのように遺構が存在しているかが分かる、というわけだ。
担当した住居跡は一辺が約2メートルほどの四角形で、南に面した一辺の中央に住居の出入り口と、その反対側の北側に『かまど』があった。
現代人がバーべキューをするときにブロックや石を二つ並べ、その間に薪や炭をくべるのと同じで、竪穴式住居でも部屋の隅に土で盛り上げた二つのこぶのようなものをこしらえ、その間で火をおこす。
住居の床からは何一つ土器片は見つからなかった。
かまどが最後に残された作業だった。
かまどに堆積した土を慎重に排除してゆくと、まず赤く焼け焦げた土が現れた。かまどを長く使っていたために、かまどの両側の土が赤く変色していた。まるでついこの間ここでバーべキューしてました、みたいに新鮮な赤色に焼け焦げた土だ。そこからさらに堆積した土を取り除いていくと、やがてかまどの底に当たる地面にたどり着いた。
地面の上には、小さな土器が一つぽつんとあった。
現代の御飯茶碗位の大きさと形で、表面には何の装飾もない、シンプルなものだった。
気になったのはその土器の置かれた場所と置き方だった。
かまどの床面の、左右のこぶとこぶの間、奥行きの奥と手前の、正確に中心に、伏せて置かれていた。
その行為はつまりこういう状況を意味しているのではないか。
その住居に長年暮らしていた住民が何らかの理由で、退居しなければならなくなった。天候不順によって食料不足に陥ったとか、他にもっと住みやすい場所が見つかったとか、或いは他の強力な部族が押し寄せて来たとか、云々。
住居を離れる直前、そこで使っていた土器類は屋外に捨てたか、或いは持って出てゆくことにした。
長年生活を支えてくれたかまどの床に、大事な椀を一つだけ伏せて置いた。
その椀をかまどの中心に置いた時、その人はどんな心境だったのだろう。
慌てて住居を後にしたのではなく、おそらくかまどを前にして、しばらくじっとして、かまどを見詰めていたのではないだろうか。
それまで家族と共に歩んできた暮らしは、立ち去らねばならない、やむを得ない理由はあるけれども、しかし幸せだったのではないか。
その幸福を与えてくれたこの住居とそのかまどに向かって、さらにはそこでの生活を支えてくれた周囲の自然に対して、感謝の気持ちを込め、これからの新天地を求めて始まる旅の無事を祈りながら、そして椀を静かに伏せた。
終わりと始まりの印。
その狭間にある「今」というその瞬間を、感謝と祈りと共に、ただ静かに見つめている。
そのちっぽけな推測はもちろん、現代考古学とは何の関係も影響もないことではある。
しかしながら仮に、感謝と祈りと共に今を静かに見つめるというシンプルな意識が、彼らの人間性の中心にある思いだったとしたなら、それこそが道に迷うことなく進むための体内方位磁針であり、渡りの道標となったのではないか。
この土地を離れた人たちがその後どこへ向かったのかを知る手がかりはまったくない。関東の他の地域かもしれないし、東北や北海道まで行ったかもしれない。もしかしたらベーリング海峡を越えてアラスカへと渡った人々の中にもいたかもしれないという憶測は、決して安易に否定できるものでもないだろう。
どこであったにしろ、その人たちはきっといい場所を新たに見出し、それから幸せに生きたのではないかと思う。
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