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英彦山のたまかぜ

 日本には山岳信仰の対象としての霊山りょうざんが少なからず存在するが、その中の一つ福岡県の英彦山ひこさんに先日出かけた。
無宗教である上に、何ら霊感もなく、神社仏閣で神仏を見たという経験もないが、境内に満ちる神聖さに惹かれ参拝することはよくある。
参拝の時には拝殿の前で手を合わせたまま、何も祈願せずにただ目を閉じる。すると閉じた瞼の向こうに、場のエネルギーのような模様が発光するように立ち現れる。
それが何を意味するのかはわからないが、神社仏閣ひとつひとつに違いがあり、それを味わうのが参拝の一つの目的、そして楽しみのようなものになった。
明るいもの、陽気なもの、大きなもの、無邪気なもの、深く静かなもの、透明なもの、色とりどりにきらきら輝くもの、天高く舞い踊るもの等々。
実に多種多様な光模様だ。
しかし中には空っぽだったり、祈願のエネルギーが充満し過ぎて頭痛を引き起こすような負の場所もある。そのような場所からは早々に退散する。

時々、光と共に拝殿の中からさあっと清涼で柔らかな風が吹いてくることがある。奈良の大神神社や天川神社での経験は特に印象深い。
また以前覚者と呼ばれる人たちを前にして瞑想した時にも、そうした風が吹いてくることがあった。
どうやらそれらは「霊風たまかぜ」とか「神風しんぷう」とか呼ばれているものらしい。
たいてい拝殿の奥には開口部がなく、振り返ってみると背後からの風もない。
外の樹々の葉を見ても風に揺れていない。
先日訪れた英彦山でもその風が吹いた。


英彦山という名を知ったのは、3カ月ほど前のこと。
北九州市内とある公園で花菖蒲の写真撮っていると、一人の男性が声をかけてきた。年のころは80代半ばくらいだろうか。
公園で花とか野鳥を撮影していると、見ず知らずの人が男女問わず自然に話しかけてくることが時々ある。二言三言挨拶代わりのような会話をして立ち去っていく。人との距離が近しい土地柄だ。過去に出会った人たちを思い浮かべると、それは九州全土にも言えることではないかと思う。
人情味のある人との出会いが多いように感じる。
男性は公園にいる周囲の人にも話が筒抜けなほどの大きな声で喋り続けた。
花菖蒲の開花が今年は早いということから始まって、やがて現役時代海外でのプラント建設に携わった話まで滔々と語った。特に中国での体験談や、現在の日中関係に関する彼の持論などは聞いていても面白かったので、
「それ、本に書いて出版したらいいじゃないですか!」
と言うと、彼は照れ笑いをしていた。
花菖蒲の姿を眺めながら小一時間があっという間に過ぎた。
別れしなに彼が、
「英彦山に行ってみたらいい。森が素晴らしいんだよ!」
と声のトーンをそれまでとは違い、一段低く抑えて言った。
その言葉が妙に心に残った。
他の話は言わば彼の心地よい思い出話だが、この言葉には今も彼の中で何らかのエネルギーが宿り、鐘の残響のように彼の内側を揺さぶり続けているような雰囲気があった。
先日、最高気温36℃の予報が出た朝、彼のそのことをふと思い出し、汗をかきに登ってみようと思い立った。



英彦山は、福岡県田川郡添田町と大分県中津市山国町にまたがる標高1,199mの山。邪馬日田英彦山国定公園の一部をなし、日本百景・日本二百名山の一つ。また、大峰山(奈良県)、出羽三山(山形県)と共に日本三大修験山の一つとされる。
修験道(しゅげんどう)は、山へ籠もって厳しい修行を行うことで悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰。仏教に取り入れられた日本独特の宗教でもある。修験宗ともいう。修験道の実践者を修験者または山伏という。

Wikipediaより一部抜粋

平安時代より大分県の宇佐神宮を中心とする国東半島と共に九州における神仏習合の一大聖地で、標高800m以上の山上に3800の宿坊が密集し1万人以上の人々が暮らす天空都市だった。
しかし、明治の神仏分離令によりそのほとんどが消滅し、現在では英彦山神宮を残すのみとなっている。明治以前まで、これらの坊では薬草と茶の栽培が行われ、庭園と茶室が営まれていた。それらの庭園遺構は現在も山内のいたるところに残され、そのうち代表的な5庭が国の名勝に指定されている。

九州・山口の日本庭園



調べると山頂の英彦山神宮は今月から4年間改築工事が始まり、残念ながら素晴らしい森が見られるはずの登山道は通行止めだという。だが途中の下津宮までは行けるとのこと。
山の中腹にある駐車場に車を停めると、そこからはスロープカーもあるが、せっかくなので長い一直線の石段が続く表参道を歩くことにした。

麓から重要文化財奉幣殿までは全体で800段の石段があるそうだが、途中からなので、その約半分となる400段となる。
登り始めは石畳のように緩やかだ。
石段の両側は静かな深い森が広がっている。
所々石垣で築かれたひな壇状の小さな平地に、嘗て多くのが密集していた「谷」と呼ばれる場所が幾つも残されている。朽ち果てた古い坊の建物が残っていたり、旅館のように綺麗な坊や古い茶屋など営業中のものもある。
しかしながら参道には人影が見当たらない。
嘗てここは1万人以上が暮らす天空都市だったということが想像できない位にひっそりと静まり返っている。
標高が上がるにつれて勾配も徐々にきつくなり、途中幾つかある鳥居をくぐる度に気温もエネルギーも変化していく。
写真を撮りながらのんびり登ること1時間、艶やかな朱色の奉幣殿に着く。
ここは山内最大の建物で、かつては霊仙寺の大講堂、英彦山修験の中心的構造物だった。


奉幣殿横には再び大きな鳥居が立っている。
この鳥居をくぐると一段と勾配のきつい石段があり、そのすぐ上に下津宮がある。この石段を上がるとさらに場のエネルギーが明らかに変わった。

英彦山には深い森の中に国天然記念物樹齢1200年の「鬼杉」があるとのこと。
その杉の木の枝が31年前の台風で落ちた。
その枝を利用して修験者の子孫である知足美加子氏が不動明王像を彫り、英彦山神宮に寄贈した。
それが下津宮に安置されている。


この拝殿の賽銭箱には、
「ご自由に中に入りお参りください。」
という張り紙があった。
大きな香炉の前に座り、太い線香を1本立てる。
不動明王に向かって、何も願わずただ眼を閉じる。
誰一人いない静寂な拝殿の中には、周囲の森で鳴くセミの声だけが響く。
やがて数分経った頃、あの風が前方から吹いてきた。
穏やかで、清涼な、微かに流れてくるようなそよ風。
この風に当たると思考も感情のさざ波も起こらない。
その風はどこから吹いてくるのか。
山そのものからなのか、下津宮自体からなのか、或いは不動明王なのか。
或いはそのすべてが一続きとなって、辿り着くものなのか。
それは高きものから低きものへの憐れみか、はたまた慈悲心なのか。
空っぽの器に水が注ぎこまれるように、或いは滝の水が滝つぼに落ちてくるように、それはこちらに向かって吹き続けた。
数十分の間、風は精妙な波動を運んだ。
やがて雑念が再び湧き上がってきた頃に、風も不意に止んだ。

霊山とは地球に内在する生体エネルギーのようなものが地表に噴出する場所かもしれない。
以前国内にあるピラミッド構造の建造物に入った時に、床から上方に向かってエネルギーが立ち昇っている現象を手のひらで感じたことがある。それと同じように、大地のエネルギーが上昇しやすい構造の山というものが存在するのではないか。
霊感豊かな人たちがその気配を察知し、そこに留まる場を作ったのが修験道の始まりだったではないだろうか。
厳しい修行によって自己を滅却する術を身に付け、山の霊力を授かることを目的とし、只ならぬ大地の恩恵を受けていたと想像する。

英彦山の修験道は衰退してしまったのだろうか。山伏の姿を見ることもなければ、参拝客もちらほらだ。
その信仰の在り方は、現在の参拝目的が願望成就やご利益を中心とした在り方とはまったく異なるようだ。
修験道とはそうした自然界に満ちる神聖さと調和を図り、そこから己の真の姿を取り戻すことが目的だったのではないかと思う。
もしそうだとしたならば、霊風に吹かれたのは、その小さな一瞥のような体験だったのかもしれない。

この霊山に満ちる神聖さは今も脈々と生き続けている。
その力を授かる奥義が失われてしまうのは何とも残念なことのように思えてならない。



振り返ると、いつの間にか外に若い女性がひとり遠くの山並みを眺めながら静かに佇んでいた。
きっとこの場が何であるのかを知っているという気配が漂う人だった。
無言のまま、交代の念を送る。
中に入ったその人はすぐさま不動明王の前に静かに座り、線香に火をつけた。






























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