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見納めの秋


 北国からは雪の便りが届いた。北九州ではあと数日紅葉が見られるというところまできた。冬はもうすぐそこだ。
秋の見納めに、普段はあまり訪れない市内の公園を歩く。ここでは広大な大企業所有地の一部を一般に無料開放している。湖のような工業用貯水池の周囲に自然の森が広がり、その中を湖岸に沿って歩くことができる。

気温が低い湖畔近くのモミジやイチョウが、秋の柔らかい光を受け静かに色づいていた。道端の小さな草木も、季節の移り変わりに身を委ねるようにひっそり紅葉している。
野鳥たちは冬に備え、秋の収穫に無我夢中。慌ただしく樹から樹へと飛び回り、羽繕いをするいとまもなく木の実を啄んでいる。湖面に浮かぶ水鳥達は冷たい水も何のその、羽毛に包まれ、すまし顔して優雅に泳ぐ。

季節の移ろいがこうも駆け足だと、虫の音を聴きながら、秋の夜長にジャズを楽しむどころの話ではない。今年は秋らしい時期が実質2週間くらいしかなかったのではないか。
先日、2歳児を持つ母親が、
「子どもに秋というものをどう説明したらいいのか分からなくなる」
とぼやいていた。
確かにそうだ。
何と言えばいいのだろう。


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 日本人は、四季の移り変わりの中で、夏の暑さと冬の寒さへの適応力を柔軟に高めていく術を心得ているように思う。これは、気候や環境の変化に対して、いつも繊細に向き合っているからだろう。
その一方で、人間関係においても、普段の挨拶に続けて季節や天気の移り変わりを口にすることが多い。関係性をより潤いのあるものにする美徳とも言える。

挨拶とは本来、どのような言語であろうと「あなたのことを私はしっかりと認めていますよ」という、言わば相手に対する尊重や敬意、ねぎらいなどが入り混じった気持ちの表われではないかと思う。

2009年に公開されたジェームズ・キャメロン監督の映画『アバター』では、主人公の2人が見つめ合いながら、
〝I see you. (あなたが見える)〟という言葉をかけ合う印象的なシーンがあった。この言葉は挨拶ではなく、言わば愛の告白のようなものだが、そこに込められた意味について監督自身はこう説明している。


「(このアバターシリーズは)私たちが知能と感情を持った生物として、互いに持つつながりを描いたものでもあります」と語り、次のように続けた。
「『I see you.』は、誰かがとなりにいて『おはよう』と呼びかけるくらいシンプルな言葉でもあります。
『あなたがそこに立っているのが見えます』という、非常に単純な意味ですね。
一方で、『あなたのことを理解しました』というような、はるかに深い意味もあるのです。
“トゥルーク・マクト”となったジェイクを見たネイティリが、
『I see you.』と言ったとき、それは
『あなたのことをやっとよく理解できました。これまで見えなかったものが見えました』という意味になるのです。
そして、これはさらに深い意味を持つこともあるかもしれません。
すなわち、『I love you.』と」

IGN Japan



この説明を読んだ後に、あらためて私たち日本人本来の挨拶に込められた意味について考えると、季節感を共有し合うことによって、厳しい暑さ寒さを繰り返す自然環境を互いに協調しながら生きていこうとする、奥ゆかしい思いやりや敬愛のようなものがその背後にあるのではないかとしみじみ感じるのだ。


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 「挨拶」と言えば、もう一つ思い出すことがある。若い頃インド一人旅の途中、ある町で安いゲストハウスに宿泊した時のこと。そこは広い庭がある中流階級の家を改造したものだった。施設や庭の管理、部屋の清掃などを、使用人と思われるみすぼらしい恰好をした高齢の男性がすべて一人で切り盛りしていた。色の黒い顔には深い皺が刻み込まれ、長い口髭を生やし、物腰の柔らかさと共に、人生経験の豊かさが滲み出るような、哲学者か宗教家のような風貌の持ち主だった。
毎朝この老人は、出会う度に静かに微笑みながら合掌し、「ナマスカール」と丁寧に挨拶してきた。

一般的にインドでは挨拶の言葉は「ナマステ」を使う。これは普段使いのさり気ない挨拶によく使われる。「ナマス」は敬礼・服従、「テ」は「あなたに」の意味がある。
「ナマスカール」は伝統的なヒンズー文化の、よりフォーマルな挨拶の言葉。神聖なエネルギーに対してひれ伏すという意味合いを持つサンスクリット語とのこと。
ゲストとは言え、40,50歳も年下の日本から来た若造に対して敬語で挨拶するという真摯な態度にとても感銘を受けた。当然こちらも合掌し、同様に「ナマスカール」と返した。その言葉を日常で聞くのは滅多にないことだった。
今思うと、おそらく彼自身が自分の中に神聖さを見出していたからこそ出てきた挨拶なのだろう。自分自身のことを尊重できる人は、他人をも尊重できる。


『脳は主語が理解できない 』

私たちが日頃何気なく使っている言葉が、脳と体に大きく影響しています。例えば、脳は主語を理解できないという性質を持っています。主語が理解できないので、自分が発した言葉全てを自分のこととしてとらえてしまいます。
ここで言う「脳」は、「古い脳」を指しています。大脳新皮質(理性・知性の脳)を「新しい脳」、それ以外を「古い脳」と呼びます。
人間特有の高度な精神活動を担当する「新しい脳」のほうは主語を認識できているのですが、感情を司る「古い脳」のほうは認識できず、新しい脳から送られてくる情報をすべて鵜呑みにしてしまう性質があります。
だから、人の悪口を言うと、脳の中では自分が悪口を言われた時と同じ状態になります。つまり、相手の悪口を言うと、自分自身に悪口を言っていると判断し、自分も傷つき気分が悪くなります。人をけなしてばかりいる人は、なぜか自己嫌悪に陥っていくのはそのためです。そして、より人に対して攻撃的になります(自分が自分を無意識に攻撃している状態となるわけですから逃げようがありませんね)。

東御こころのむきあいネット


日本において、この先季節感が希薄なものになったとしても、立場や年齢の違いを超えて、人と人との関係性の奥に起こり得る共感共鳴に意識的に向き合っていたいと思う。





「人間であること」

人間であるということは、生きることのパラドックスを深く感じることだ。私たちは植物や動物のように、ただ自然には生きられない。
私たちはあまりにも人生の矛盾を意識し過ぎている。
私たちの理解と感受性は、外側のリアリティの「抵抗」による挑戦を常に受けている。

私たちの最大の挑戦は、私たちがただ与えられたものではないということだ。
私たちは自分自身を創造しなければならない。
私たちはなりつつある。
人間存在とは、実体ではなく、知性の流れであり、自己を創造していくプロセスなのだ。
現実的、客観的世界に生きているのとは別に、私たちは思弁的で、概念的なリアリティに生きている。
私たちはこの世界に生きているだけではない。
私たちはこの世界について考えてもいるのだ。

この思弁的なリアリティは、いつでも私たちの直接体験に直面し、対決させられている。
私たちの思考は、客観的世界にとてつもないインパクトを与えている。
それらは強力に操作する力を私たちに与えている。
私たちは世界を変えることもできるし、同様に破壊することもできる。
それがマインドの可能性でもあり、危険な側面でもあるのだ。
一方、私たちのマインドは、常に客観的リアリティの影響を受け、形づけられている。
私たちが考えること、感じることは、物質的文化的環境によって大きく条件づけられている。
私たちと世界は、生のダンスの中で、お互いにお互いを作り上げているのだ。
これが実存の主観と客観の両極の間にある力だ。

私たちは世界の中に生き、世界は私たち自身の頭の中にある。

思弁的なリアリティは、生きるプロセスから私たちを遠ざけてしまう。
そして、私たちは実存から実際に分離していると感じるのだ。
私たちは世界を外側のものとして強く体験している。
この心理的に困難な状況が、私たちから生との一体感を奪い去っているのだが、しかしながら、これが私たちにただ意識的な分離だけでなく、無意識的なワンネスをも超えていく可能性を与えてもいるのだ。
私たちは無意識的な無知である動物の王国を後にして、現在の意識的な無知を通り抜け、意識的な目覚めへと進化していく。

アジズ・クリストフ/フ―マン・エマミ共著『エンライトメント 伝統を超えて』




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北九州市 瀬板の森公園


























































































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SOPHIE MILMAN



ありがとうございます



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