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ドイツの生活。車での通勤。

私は、ドイツに住んで二十四年になる。最初は、勤務先の研究所のあった、オランダ国境に近いアーヘン(Aachen)市に住んだ。その後、妻と結婚し、妻の住むケルン(Köln)市に引越しした。妻は当時、ケルンに本部を持つ、西ドイツ放送協会(WDR)に勤務していた。私は、アーヘンの研究所には、ケルンから車で1時間ほど高速道路A4号線を走って、通勤した。私は当時、ルノークリオ(Renault Clio II)の中古車を使っていた。この車には結構、電気周りに故障が多かった。それでも、親しいオランダ人の友達を訪ねるため、アーヘンから南西フランスのトゥールーズ(Toulouse)市まで1400キロほどを1日で走っていったり、妻と二人で、ケルンから南フランスをぐるりと回ってノルマンディー海岸まで行き、その後ケルンに戻る夏休みの旅行をしたときも、故障には会わなかったから、結構当たりの車だったんだろう。その車は8年前程に廃車にして、妻と共同出資で、新しくトヨタアイゴ(Aygo)という小型車に乗り換えた。
勤務先の研究所が廃止になり、私の職場がオランダの研究所に配置換えになったので、それに伴い、我々は、オランダに近いデュッセルドルフ(Düsseldorf)市に引っ越しした。デュッセルドルフは、ケルンに比べて、人々が冷淡で、ユーモアにかけ、そのくせ高慢なところがあって、我々には合わず、1年半でデュッセルドルフから退散し、勝手知ったるアーヘンへ引っ越した。アーヘンでは、妻はアーヘンのオペラ劇場の舞台に立った。しかしながら、アーヘンでも生活もうまくいかず、結局、ケルンに戻って、ライン川の右側(東側)に位置する、ドイツという地区でアパートを借りて、再び、ケルンでの生活を始めた。ケルンで、私は、トヨタアイゴで約150キロの道のりを、週2、3回、オランダの研究所まで通勤した。通勤には片道2時間近くかかる。
ある日の朝、私は、通勤途中、オランダの高速道路で、ヴェンロー(Venlo)とアイントホーフェン(Eindhoven)のちょうど中間あたりで、工事による渋滞に引っかかった。
2車線ある高速道路で、私の隣車線である走行車線には、ドイツからオランダの貿易港、ロッテルダム(Rotterdam)に荷物を運ぶ、大型トレーラーが数キロに渡り列を為して停車していた。そのトレーラーの国籍は様々である。ドイツやオランダ、フランス等々、西ヨーロッパ国籍のトレーラーは極端に少ない。ほとんどが、東ヨーロッパ、特にポーランド、ルーマニア、スロベニアからの出稼ぎトラック運転手が運転するものだ。積荷のトレーラー部分は、多くがオランダやドイツのナンバープレートを持つが、それを引くトレーラーの自動車部分は、東ヨーロッパのナンバープレートだ。彼らは西ヨーロッパの運転手に比べて、安い値段で仕事を請け負うので、今日日ではほとんどのトレーラーが東ヨーロッパからのものである。
20分くらい渋滞で待った後だろうか。渋滞で停止している私の車線で、少し動きが出てきた。私の前の車が動き出した。前に幾らか走れる距離ができたものと見えて、時速30キロくらいで動き出したのだ。私の前には、50メートルくらいの空きができた。私も走り出そうと思い、クラッチを掛け、アクセルペダルを踏んだ。私の車が、まだ隣車線で停止している大型トレーラーを通り越したその瞬間、その大型トレーラーは、急に後ろ向きに、車体を捻るように暴走しだし、トレーラーのお尻から突っ込んできて、道を横断するように横なりになり、中央分離帯のコンクリートの壁に衝突して、大きな穴を開け、そしてまた逆に、前方に急発進して、反対側の壁にぶつかり、壁をぶち抜いて、そこで止まった。私は、わずか2秒で起きたその一部始終を、走る私の車のバックミラーで目撃した。私はそのまま走り続けた。その横たわるトレーラーの姿が遠くなり、バックミラーでは確認できなくなった。そうして、私は再び渋滞で止まってしまった前の車に追いついて、そこで停止した。その瞬間である。私の体には、『え』も言われぬような恐怖と不安と光悦の混じった感覚に襲われ、寒気がし、身体中が震えた。クラッチを切る左足が震えて、ペダルを押し続けることができなくなるくらいだった。私は、この戦慄を抑えきれないでいた。二度三度、大きく息を吸い込んでは吐き出し、体の震えを抑えようとした。しかしダメだった。私は、震える体で、渋滞する高速道路をゆっくりと走り、勤務先の駐車場で車を止めた。リュックサックを背中に背負い、10時に始まる会議の部屋へと急いで歩いた。この間も、いうに云われぬような不安と光悦の混合が私の身体中を走り抜ける。途中、コーヒーをカップに入れ、会議室に赴いた。そこで既に待っていたオランダ人の同僚に、今朝の顛末を話した。彼らは、まるで、新聞の三面記事でも読むかのように、そんなこともあるかなあというような風で、受け答えした。当然だ。これを自分で体験してないものには、他人事にしか感じられない。しかし、その瞬間、折がとれたように、私の震えは収まり、この時初めて、「ああ、僕は事故に遭わずに、こうして生きているんだ」と感じることができた。なんてラッキーなんだ。その1分後、私は決心した。この会社を辞める。もう、自動車での長距離通勤はしない。自分のしたいと思っていた分野の仕事をする。今よりも給料の高いポジションを見つける。私は、この時大きな決心をした。長年勤めた会社を辞めて、新しい仕事に就く。2年後、それは現実のものとなった。自分が心底やりたい固体光学素子の開発、給料の増額、短い通勤時間、好きな山登りのできる環境。


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