愛情と無関心 (なにか と なにか#3)
愛の反対は無関心である。
と、いう言葉をどこかで聞いたことがあります。確か、何かのポスターだったような。シンプルですごく納得がいく言葉ではあります。
ところで、話は変わりますが。
あなたは優しい人ですか?
こんな記事を読んで頂いて、きっと優しい人でしょう。ですよね?聖人君子のように優しい(笑)私が言うので間違いありません。
皆さんが優しいことを前提にお聞きしたい。
「どうして人に優しいのですか?」
これにはどうやら大きく二種類の答えがあるようですが、まず私の答えを載せておきます。
私は、周りの人に幸せになってほしいから。綺麗事みたいですけど、かなり本気です。私の名にかけて周囲の人を幸せにしたい。すごく。
これって、「慈愛の心」とかいうやつでは。
はい、これ一種類めです。優しさが「愛」に基づいているやつ。
続いて二種類目。
周りの人のことはどうでもいいから。
私は理解できないけど、こういう人もいるらしいです。優しさが、「無関心」に基づく人。怒るのは愛情の裏返しなら、優しさは無関心の裏返しであるということか。
これって、すごいことじゃありません?同じ優しさなのに、正反対の感情でできている。一見対義語で構成された「なにか と なにか」が一気に似たもので成り立っているような気がしてきます。
きっとあなたの周りにも、思い当たる方がいらっしゃるのではないでしょうか。私にも、何人かいます。
私は、性善説を信じています。世の中の優しい人は一種類目の人だと本気で思っていました。「愛」という単語は、その重い表現の言葉とは裏腹に誰もが持ち合わせているものであると。
実際は、そうでもないんですね。
無関心で優しかった人が、私に関心を向けた瞬間。飛んできたのは悪口でした。
裏切られたというより、衝撃でした。
人間の、見なくてよかった一面を垣間見た気分です。でもあの人に罪はない。それがその人のパーソナリティですし、私が勝手に期待して勝手に自滅しただけなので。
あまり期待せず生きることにしましょうか。
改めてお聞きしますが、
皆さんの優しさはどこから?
目の前にいるその人は、あなたの心を見抜いていますよ。
私の思う慈愛の心が正しいものとは限りません。ただ、無関心な人は、無関心なままで優しくして下さい。お願いします。
聖人君子の皮を被って、愛を願う午前3時
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