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『ペンキ』(5) 人探し,レジェンド探偵の調査ファイル(最終回)

『現役探偵の調査ファイル 七人の奇妙な依頼人』 福田政史:著
【第二話】ペンキ 

 数日後、少し重い心で「新田裏」の会長を訪問した。
 例によって古文に案内され、会長室に入る。会長はすぐに子分を下がらせ、私の顔を見てニッと笑った。
 私の抱えている分厚い茶封筒をチラリと見て、体全体で、早く結果が知りたいと言った素振りをする。
 私は努めて事務的な口調で、
「会長、小夜子さんは白金に住んでいました」
 白金と聞いて、会長も昔の恋人が高級住宅街に住むような老後を暮らしていると思ったのだろう。安堵ともつかぬ表情が浮かんだ。私はそれを察して、
「報告書を読んでいただけるとわかりますが、いまはそれほど恵まれた状況ではありません」
 このとき、会長の顔には、「ほう?」という表情が浮かんだのだが、それは「恵まれた生活をしていない」ことに対する憐憫だったのだろうか。
 私は、すぐに報告書を渡さず、まず口頭で彼女の住所が判明した経緯を、ただ「あのこと」だけは触れず、時間をかけて説明した。
 そのあいだ会長は、うんうんと、相槌を打ちながら聞いている。なるほどというか、やはりというか、「小夜子さんに現在男の影はありません」といった部分では、気のせいか満足そうな表情を見せた。会長も、いまだに男である。
 話が一区切りしたところで、
「これをご覧になってください」
 私は行動調査に何枚かの写真を加えた報告書を会長に手渡した。
 会長は報告書を手にして、ゆっくりページを繰っていく。私は子分が置いていったコーヒーを飲みながら、会長の表情を息をひそめて見守った。本当ならこの場からすぐにでも立ち去りたかった。しかし、そういう訳にもいかず、落ち着かないまま待っていた。

 チラッと会長の様子を見た。(もうすぐだな)。やがてあのページにさしかかるはずだ。私は腹を決め、机を挟んで相対して座る会長を凝視した。ページをめくるかすかな音がして、ついにそこに来た。会長がひとりの男、いや、「人間」らしさを見せるはずの瞬間である。
 会長は間違いなく、いまそのページを開き、見ているはずである。ページはもう終わりに近づいていた。しかし、いっこうに進まない。否、もう進めないのだろう。
 会長は会長で、衝撃に必死で耐えているに違いない。日本中のやくざに恐れられ、あるいは憧れの的だっただろう男が、私の差し出した一通の報告書のそのページを見て、いま何を思い、何を感じているのだろうか。
 それまで、正面を向いて机に肘をついて読んでいた会長は、姿勢を変えていた。背中半分が私に見えるくらい後ろ向きになり、報告書を顔の位置に上げ、じっとしている。
 小夜子さんがおよそ十年前、いまの白金のアパートにどこからか越してきて、バラックのようなそのアパートの粗末なドアに、白いペンキで昔の男の名を書いた理由は何か? どんな思いで、三十数年前に、ちょっとだけ暮らしたことのあるチンピラやくざの名前を、「自分のもの」として書いたのか?
 会長は、「あの女にはずいぶんひどいことをした」と悔やんでいた。しかし、ひどい仕打ちを受けたはずの小夜子さんのほうは、会長のことをひとときも忘れなかったというのか? 男である私にはとうてい理解し得ないことである。
 たどたどしく書かれた一文字の漢字。これを書いたとき、小夜子さんは、遠い昔の楽しい日々を思い出したのか? そして毎日、部屋を出入りするたびにこれを見て、いまでは押しも押されぬ大親分となった、かつての恋人を偲んでいたというのか?
 恐らくいまの小夜子さんにとって、この「原」という漢字の一文字が、他の何よりも貴重な財産であり、生きて行く支えなのだろう。
 報告書を読み終えた親分と今後の打ち合わせをすませ、会長室を出た私は充分満足した。会長の、そして小夜子さんの「遠くからの声」がしっかり届いたと確信した。探偵家業もいいもんだ。心底そう思えた。
 私は、その後、自然な形で小夜子さんと接触したいと言う会長に、自分の感想を率直に述べた。
「夕方の犬の散歩のとき、偶然を装って会うのはどうですか?」と進言し、さらに会長が何気なく立つ場所までアドバイスした。
 会長は「よし、わかった」と、私の気持ちや手法を理解してくれ、最後に「ありがとう」と言ってくれた。いままで、「ご苦労さん」と言われたことは何度もあったが、ありがとうと言われたのは初めてだった。そこにはヤクザの顔はなく、古希を過ぎたひとりの男の満足げな姿があった。

 その後、小夜子さんと会長がどうなったか知らない。何もなかったかもしれないし、あるいは、彼女の暮らし向きが少しはよくなったかもしれない。
 会長からのお呼びのないまま、この調査について忘れかけたある日。組の事務所から会長の葬儀の日程を知らせるファックスが届いた。

【第二話】ペンキ 完

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