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『山中湖にて』(4) レジェンド探偵の調査ファイル,浮気調査(全11回)

『現役探偵の調査ファイル 七人の奇妙な依頼人』 福田政史:著
【第五話】山中湖にて

「自殺を図ったのは、夫と別れてしばらくしたころでした。いっこうに奥さんと別れてくれない彼に不信感を抱いた私は、ある日、彼の家に行ってみたのです。夜十時くらいでした。庭先から家を窺うと、何と赤ちゃんの泣き声が聞こえたのです。その瞬間、私は体も心も凍りついたような気がしました。だって、あの人は“夫婦とは名ばかりで、もう何年も妻とは交わっていない”と話していたのです。いいえ、空耳なんかではありませんし、あの時間に赤ちゃん連れの来客があるとも考えられません。あの人が奥さんともセックスをしていたことがわかった私は、気が動転してどうやって自分のマンションに帰りついたのかわからないほどでした」
 自殺を決心したのは、この夜だったのだが、なんと自分の車のハンドルに刃先を運転席に向けた出刃包丁をくくりつけ、そのまま猛スピードで車を壁に激突させたのだという。
 私はこの突飛な自殺方法に驚いたが、いつの間にか私の横に座った恵美子は、息をのんで話を聞いている。
「でも、その方法では死ねなくて……。運び込まれた救急病院で意識が回復したのです」
 病院には、別れた夫が一人息子を連れて駆けつけ、翌日、岡田教諭も来たという。
「午後の授業を自習にして、人目をはばかるようにして駆けつけてくれた彼は、ひと言“ごめんなさい”と言ったきり泣き出しました。私はそんな彼を見ているうちに、もう何もかも許して、もう一度彼を信じてみようと思ったのです」
 岡田教諭は、ひとしきり泣くと、
「もう二度とこんなことはしないで欲しい。愛する君がいなくなったら、僕はどうすればいいのか。君が死んでしまったら、おそらく僕は一秒も生きていないだろう」
 と彼の手を握りしめ、
「妻との離婚も、もうすぐ決着がつく。そうなったらすぐにでも結婚しよう」
と、その内容を誓約書にしたためて彼女に渡したという。
「その誓約書もこの中にあります」
 彼女はこう言うと、バッグの中から数通の手紙を出した。「読んで欲しい」と言うので、私は素早く誓約書と手紙に目を走らせた。誓約書は《妻と別れたら結婚する》と言う内容だった。他の手紙もごくありきたりのラブレターである。私に言わせると、三十歳を過ぎて二人の子供がいる男にしては、何とも甘ったるく青臭い表現が多い。まるでニキビ盛りの高校生の恋文のようでもある。それに、愛を訴える言葉の羅列が、恋愛小説から引き抜いたようでなんだか嘘っぽく感じられた。
 彼女は、私がひととおり読み終わるのを待って、
「私、わからなくなったんです。確かに所長さんが言うように騙されているのかもしれないけれど、もしかして彼は一生懸命、いまの奥さんと別れようと努力しているんじゃないか。私はそれを疑わず黙って待ったほうがいいのかもしれないと」
 と、私を見ながら言った。
 世の中には、いい年をしてずいぶん純情な人もいるもんだと思いながら、呆れたように彼女を見返すと、ポツリと言った。
「私、やはり死にます」
 私はうんざりした。しかし、彼女は本当に死ぬかもしれない。
 すでに、彼女の来訪を受けて二時間以上が経過していた。私は横で黙って聞いていた恵美子に、「どうすればいいかな」と目顔で聞いた。もう十年以上も私の事務所にいる彼女とは、こういうアイコンタクトで気脈が通じるようになっていた。恵美子は女性一般がそうであるように現実的だったが、一方で人の心の機微を察する能力も備えている。
「いろいろ悩んでいらっしゃるようですし、お引き受けしたら」
 この一言で、この依頼人の仕事を引き受けることとなった。事務所を維持するためにも、ボランティアの人生相談で終わらせてはいけないという気持ちがあったのかもしれない。

(5)につづく

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