教育の中で真の平等は醤油をかけることではない
平等とは、真に皆同じものをもって、同じ味で同じ香りで行くことである。
でもそれは本当に可能なのか。
それは上のもののさじ加減であると思ってる。
例えばあなたがセブンイレブンで銀だこのたこ焼きを買ったとする。
付属品にはソースと鰹青のりシーズニングがある。どうかけるであろうか、
私なら適当にブワァ~っとかける。
なぜか。それがそれぞれの味を出すからである。
セブンイレブンの銀だこはそれぞれ生地に味がある。それだけで充分うまいのだ。
だけど、それだけ食べてては飽きる。
ソースが欲しくなる。だからソースの部分とかかっていない部分との双方の味を求める。それが双方のハーモニーを奏でるのだ。
それはカレーも玉子ゴハンもそう。
玉子ゴハンの中のただの白ご飯のうまさといったらこの上ないのも然り。
結局、混ぜたら混ぜたで平等になるかもしれないけれど、それが飽きを感じさせるものとなる。飽きたらとうなる?醤油をかける?そうなると自然の上手さは消えていく。
教育とはそういうものではなかろうか。足りないものばかりを探して足し算で増やしていく。でもそれが子どもに届くことはなく。
子どもが本当に求めてることに声を傾けたことはありますか?チャンスはそれぞれにはない中で、鰹節がかかっていない子どもの真のおいしさをわからせるのが教育だと思う。
即ち、ソースがかかる場面があろうとなかろうと、その生地の上手さは親しか知らないのだ。あなたが信じないで誰が信じる。わしの子も基本はソースがかかってない。
だからかわいいのだ。
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