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雲が いつの日も同じ方に 流れるから

レースカーテンの奥は朝から曇り模様で、うす明るくひかっている。テレビでは、台風10号が関東沿岸に再接近していると伝えるキャスターの声。雨でびしゃびしゃになった街を映しながら、いのちの守り方を淡々と教えてくれている。お祭りは終わったみたいだね。

こんな何気ない日に、私は文章を書こう。

前記事のつづきです。

*朝に一度下書き保存してます*



*



私の放浪は、いつも「自己肯定感の低さ」とのたたかいだったと思う。折れる時も、立ち上がる時も、じつは、根っこの動機はいつもこれ。

小さな頃から、自分に自信のない子どもだった。
十数年間、よく「もっと自信もっていいのに」とか、「なんでそんなに謙虚なの」と言われたことも何度かあったけれど、本当に、誰がなんと教えてくれようと、なかなかそうはなれないようにできていた。
それは、本が好きで、遊ぶのも好きで、けっしてつらいことばかりではなかったはずの子どものころに、気づかないうちに少しずつ根を張り育っていたものだと思う。

たとえば、
私のこの世で一番たいせつな家族。
今でこそみんな大人になりそれぞれがある程度自分をコントロールできるようになったし、私も人ってかんぺきじゃないんだとわかるようになったけれど、両親の不安定な情緒や大きな音にさらされるのがこわかった。怒ったんだぞと分かる足音やものにあたる音、怒鳴り声の記憶は、いまだに、他人が立てた偶然の大きい音でも心臓をすくませる。人の顔色を見て下手に出るようになって、機嫌を損ねていないか心配だったり、よろこばせたかったり、期待に応えたかったり、つねに”大丈夫”かためされている気がしていた。

学校というちいさな社会。
無邪気な遊びと、ざんこくなことと、どちらも起こる。
私はもともと、小さな頃は周りの小柄な子たちより体形は太く、肌も日焼けしやすくてずっと黒かった。いじりどころ満載で、同級生の男の子たちからはつねにからかわれ、あらゆるあだ名をつけられた。十数個のきたないものを替え歌にしておまえのこと、と笑いながらうたわれたり、あの、私もふくめみんなが忌避する虫の名前で呼ばれたり。当時、二つ上の学年にボス格の兄を持っていた男の子がリーダーで、クラスの男の子たちはその子の機嫌をいつもとっていたな。
その頃はクラスで女子VS男子の構図ができていたから、私も「うるせーよ!」なんて口悪い言葉で言い合ったりしていたが、一方でお小遣いを全部使い果たして大量に美白パックを買ったり、ご飯を食べなかったりした。外向きにやり返せていることと、扱われていくうちに内側でつもっていくことというのは、まったく別なのだ。

その頃は、あとあと私が集団行動がにがてだと意識するようになる出来事もあった。私は、遊ぶ仲間として、歴史的に超偉人の子孫だったお金持ちのかわいい子とその相棒の、気の強い二人組の中に混ざっていた。もともとはぜんぜん縁がなかったのに、ある日突然彼女たちに誘われて、そのままいつメンになっていたのだ。どうして彼女たちが私を見つけたのかはわからない。

カネコアヤノさんは、”燦々”という歌で「自ら選んだ人と友達になって」とうたう。私も、それでいいんだと思うよ。
でも、そのたいせつさに気付くのはもっと後のこと。私は社会生活で何かと、幸か不幸か、こんなふうに気の強いメンバーの中に入れられていることが多かった。そのことでけっこうつらかったけれど、これは私だって責任があるなと思う。外側の印象だけで誤解をさせてしまったのかもしれない。長い間、自分に向き合ってどんな人間なのかをたいせつにしたり、相手につたえようとしないままだった。でもそれも、自信がなかったんだよね。


…ところで、三という奇数での関係は、とくに子どもの頃ならけっこうむずかしい。
どうしても相性とかに差が出るし、それがもともとの二人組に新参者が入ったならなおさらのこと。何かの折に二人ペアをつくるときかならず彼女たちがお互いでくっついて、私はあぶれた。
そのときどうしていたんだろう、覚えてないなあ。私はつねにおまけ的な立ち位置で、弱いいじられる側だった。いじられることは慣れているからそんなものだと思っていたけれど、いつも置いて行かれないか不安で、体操着の着替えも、帰る支度も早くなった。

それでもひとりになる時、その通学路や移動教室でのいっしゅんを、誰にも見られたくなかったな。
今、二十五をむかえようとする私にとって「ひとり」というのは、かっこわるいかかっこいいかで言うと、かっこいい。この先もこわがることはあるかもしれないけれど、少なくとも、恥ずかしがるものではぜったいにない。

だけど、つよがりで幼かった私にとっては、ひとりはみじめで、それに耐えられなかった。
だから自分がすり減るほど、せいいっぱいくっついていた。Barbieの横顔のロゴに似た彼女を、しもべみたく、校舎の一階から三階までおぶって回ったりもした。
よく遊んだし、よく笑ったけれど、最後の卒業文集では彼女たちはお互いに「私の親友 〇〇」というタイトルで作文を書きあって、その思い出や感謝をのべあっていた。
あのときお前の名前なかったなと、大学時代にたまたま再会して飲んだあのリーダー格の男の子が笑っていた。私も笑ってた。当時凄く傷ついて、文集をやぶいて捨てたことは言わなかった。


こんなふうだから、自分が堂々としていていい人間なんだと夢にも思ったことがなかったんだよね。ある友達と、”負けいぬ同盟”というコンビを組んだりもしたな。。笑
一緒にラッドやバンプを聴いてたあの子はある日突然学校に来なくなってしまって、数年前は地元のコンビニで店員をしていると聞いたけれど。今はどう過ごしているんだろう。
とにかく自分は、他者がいるときいつもどこか浮いていて、弱い立ち位置にいる人間なんだって。信じているとかじゃなく当たり前に思ってきたのだ。



と。ここまで少し書いてみたのだけれど・・・。
なんか暗すぎるのでは。わーんすみません!!笑
ほんとうに断っておきたいのは、これは、私がとくにきりこんで書いていきたいものに沿って、必要なところをたくさんの記憶から抜き出しているということ。

この時代には、少女時代のきらめきだってあった。いろんな遊びや、420円の『なかよし』、夏休みの森永アイスボックス、チャリやスクーターを漕ぎつつけること、文房具集め、家の近くの縁日で行ったゆめのような古本市、朝のホームルームで革ジャン着た担任の先生がアコギで弾いてくれた伊勢正三さんの「二十二才の別れ」(当時小三だよ。なんて歌詞がむずかしいんだと思ったけれど、今思えば最高の選曲だね)。

いまさらどうしようもない毎日が私の自己肯定感のなさを少しずつ育てたように、そんなすてきな思い出もまた、時がたってからとつぜん小さく花開いたりもしている。
ただ、あの頃を振り返ることしかできない私は、もしかしたらこじつけかもしれないけれども、一度道をつくりなおしてみている。自己肯定感というひとつのテーマで。

ここまで書いてきたのが序章のトコだとすれば、その女の子、(といっても過去の私のことだけど)、が、モーレツな高校受験をして、知っている人のだれもいない都立高校へ入学したところから、ちゃんとものがたりは始まるだろう。

歴史の古い動物園の近くにある、汗と安い香水と動物のにおいがたちこめる校舎。その場所で、ようやく私ははみだすように自我が芽生えはじめる。そのぶんいつも悩んでいたけれど、その流れを変えたくてなにくそという気持ちでアクセルを踏みはじめた、あおい時代。

そこからこそ、書いていきたいなあ。



*


最後に。それこそまだ男女の区別がないくらい無邪気にあそんでいた記憶しかない小学二年生の頃に、文集に将来のゆめとしてひとこと、私はこんなことを書いていた。

「たったひとりで本を読んで、あたまがよくなりたい」

これを偶然発掘したとき、ショーゲキだった。まっったく覚えがない。あたまがよくなりたいと思ったことあったっけ…?という感じだし、なにより小二で”たったひとり"て。。

つっこみどころ満載。夢は、ケーキ屋さんとか野球選手とか、職業でさえないみたい。
だけど考えてみれば、昔からいつも自分の将来を思い描こうとすると、ひとりで書斎のような場所でのびのび本を読んでいるだけの、ぷーたろーみたいなシーンが浮かんでいた。なぜだか。
そんなこと忙しい社会生活の中でわすれて、がんばって何かを探したりするのだが、「結局そうだったのかもな」と思うような自分らしさがないでもない。
だから、これを私の放浪の出発点としたいな。


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