「問題無い」は問題あり
「問題無い」という言葉があります。
面白いことにこの言葉が使われるシチュエーションは、実際には問題が有る時ではないでしょうか?
それなのに、なぜ「問題無い」と発するのでしょう。
例えば、それは、相手を安心させるための配慮であり、今ここで問題を表明したところで、状況が大きく改善するわけでは無い… といった思考が働くからではないでしょうか?
そもそも「問題が有る」と発するためには、一定の思考が発生し、脳が大きくエネルギーを消費します。そのため反射的に「問題が無い」と発するスイッチが入りやすくなるのかもしれません。
実際、私はプライベートの場合は往々にして、そのように「問題無い」と発してしまいます。
しかし、仕事となれば、そうも言っていられませんので問題が有る時はしっかりと表明する必要があります。
問題の有る状態には、
・自分で問題を認知出来ている状態
・自分で問題を認知できていない状態
があります。
製造業の生産性を飛躍的に高めたトヨタ生産方式は、「改善」を”Kaizen”という世界語に変えました。これはリーンシックスシグマというフレームワークに統合され、製造現場だけでなくオフィスでも使われています。カイゼンの本質は、問題を認識する力にあります。
繰り返し作業を学習曲線なりに生産性を上げていく中で形成される「常識」が問題認識の妨げになる事があります。これは目的と手段が入れ替わった状態ですし、より高次の目的を見失っている状態です。
タスクを完璧に仕上げることに夢中になっていると、仕事の全体を見失ってしまいがちです。しかし、その繰り返し作業、人手でやり続けていて良いのでしょうか?
デジタル技術が普及しているこの世の中で、繰り返しタスクを人手でやり続ける事はコスト高です。少し工夫すれば、自動化することが可能です。生産性向上のためにプロセスオートメーションを導入する事を検討しない手はありません。
AIと人間が仕事を取り合う構図を想起するのも、この高次目的を見失った状態ではないかと思います。実際には、この先、殆どの先進国で人手不足に陥り、「AIの手」を借りて経済と社会を回していかなければならなくなります。
大きく社会構造が変わる時に、スキルのアンマッチで雇用問題が生じます。これは社会保障でカバー出来るように設計されなければなりません。しかし、リアクティブな政治をしている限り、社会制度は構造変化が現象として現れてから遅れて整備されます。それで良いのかという問題があります。
国の在り方が原点だと思います。その在り方に基づく社会システムがどのようなデザインで、そのデザインを実装するにはどのようなロードマップで進めるのか。これを官民でどう分担して実行して、運用するのか。運用コストを賄う為に、どれくらいの税金が使われるのか。その税金を賄うために、どういう産業を中心に経済を回すのか。そのための人財はどのように育成し、配置するのか…
令和の時代に、昭和の社会システムが残っているのは、この問題への対処が上手くいってないからだと思います。残すべきものを残し、変えるべきものを変えることを「不易流行」と言います。残すべきものを残すにも、変えるべきものを変えるにも、それぞれ課題があります。
昭和のシステムがなぜ残るかといえば、当時の運用を変えられていないからです。当時作られたコンピュータシステムの設計思想に基づいて人間社会が回り続けているためです。
その設計思想には当時のコンピュータシステムの技術制約が織り込まれていますが、それも技術進歩により取り払われており、設計思想の更新が求められています。
実際には設計思想の更新に止まらず、さらに上流にある社会の在り方に立ち返って変えることが求められています。根本的な問題への対処を怠り、そのタイミングを逸することで、その問題から派生した諸問題が生じ、「問題だらけ」の状況を生み出す事を想像するのは難しいことではありません。
「問題が無い」は大問題ですが、「問題だらけ」も問題です。「問題だらけ」は「問題が無い」の繰り返しにより発現する状態と考えれば、大問題よりも大きな問題だと理解できます。
他人の「問題が無い」を真に受けず、それぞれが問題を発見する力を養う事で、少しずつ社会は善き方向に向かって新陳代謝していくと考えます。
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