見出し画像

猩々の記

谷川俊太郎 ブレイディみかこ 絵 奥村門土『その世とこの世』岩波書店をうっかり立ち読みしてついそのままレジに行った。そして読み進むうち(まだ1/4ほど)何とも言えない懐かしい気分が訪れた。それは49頁、谷川俊太郎の、ブレイディみかこへの返信の一節を読んでいる時だった。
 私はとにかく自分の座標を決めたいと思いました。現住所に自分はいる、  
 その杉並区は東京都にあり、東京都は日本という国にあり、日本はアジア 
 にありアジアは地球上にあり、地球は太陽系に属していて・・・というふ
 うにズームアウトしていくと、最終的に私の座標は限りない宇宙の一点に
 あると自分で勝手に納得したのです。
このくだりを読んだとき、クラっときた。小学生の頃、学校帰りの道すがら、子ども同士でワイワイガヤガヤ。そのうちなんのはずみか、言葉遊びから口喧嘩になりそれでも気分は言葉遊びのままで「お前の母ちゃんで~べ~そ!」「お前の父ちゃんもで~べ~そ!」なんてやりあう。それが異様に楽しかったりもする。そうしたやりとりのもう一つのバージョンに「オレはでっかい〇〇持ってるもんね」パターンがあって、それは家にあるものでもその子の持ち物でも何でもいいのだがとにかくある「大きさ」や「量」をうったえるときに使った言い方であった。「この町よりでかいもんね!」「この市よりでかいもんね!」「日本よりでかいもん!」「アメリカよりでかいさ!」(ここでアメリカにへシフトするのが何とも言えない)「地球より!」「太陽系より!」・・・と際限がなかったが、ふと「宇宙より・・・」と言った瞬間、言っている当の本人が「ヤバいよ、宇宙よりでかいものってなんだろう?」と妙に不安を感じたりしていた。そのときの言葉遊びの感覚と「宇宙」と口にしたときの「え、先がないよ!」という、なんだろう、寂しさ怖さ不安、そのいずれでもないし、そのいずれをもカクテルしたような、と今、なんとなく説明できているようでできていないもどかしい感覚が(ここでやっと谷川俊太郎の引用部分直後につながる)その感覚のままクラっと脳内に訪れたのである。

「へ~不思議、よくそんな細かいこと覚えてるわね」
私がふとした時に子どもの頃の思い出を話すと、妻の反応は大概これである。私はそんなに記憶力のいい方ではない(たぶん)だからもしかすると記憶よりもそのような思いで出あったらよかったなぁ、という再構成が為された「物語」を話しているだけかもしれない。でもそれが私の記憶に上ってくる話なのだから「虚偽が入り込んでいる」かどうかの判定はできないいのである。

谷川俊太郎の手紙に返信したブレイディみかこの返信がまたいいのである。アイルランド詩人と別れた座標なきブレイディみかこは日本の夜明けを迎えて「うりゃあああああ、なんとかなる」となりますが、その直後に引用されているジェームス・ジョイス『ダブリナーズ』のエンディングがいい。

『ダブリン市民』は別の思い出があるけど・・・それはまた明日(もし書けばだが)