カンボジア「学校再建」は正しい選択か?ポルポト政権の反省とは一体何か。

私は半年ほどカンボジアに滞在していたことがあり、すでに学校再建の動きは大きな潮流の後であったものの、今もなお地方では学校が不足しているという問題意識から、多額の寄附金があらゆる国や団体から寄せられている。

こうした背景にあるのは、共産主義革命を掲げたポルポト政権の知識人・教師の大虐殺(クメールルージュ)である。貨幣のない世界の復活を目指す上で、批判してくる知識人を抹殺しようとするポルポトは、メガネをかけた人、学校に勤務する教師、海外へ留学していた優秀な生徒などを殺すジェノサイドを起こした。

当然ながら、学校はなくなり、教師もいなくなり、こうした歴史の反省から学校再建の動きは瞬く間に広がっていった。しかし、私はこの様な歴史の反省から導き出す結論は、「学校を再び作る」という試みではない様に思う。

政府は常に学校を監視し、統制することができる

ポルポト政権のジェノサイドが明らかにしたのは、政権に批判的な姿勢をとる者が集まりやすい「学校」という空間が、いかに危険な場所かということである。知識人を学校制度で一挙に管轄することができれば、法律によって教え方を統制したり、都合の悪い教師を排除したり、あるいはポルポトのように殺害することだってできてしまう。知識を「学校」という公の場で共有し、教授し合うことは、とりわけファシズム共産主義国家において大変危険なことである。

カンボジアでは、現在も独裁政権が続いている。独裁国家では、教育政策を統制するということは当たり前に生じることであり、「学校で様々なことを批判的に考えられる人を育成する」ことなど不可能に近い。なぜなら、中国当局が大学に監視カメラを設置しているように、教える内容は常に監視の対象となり、場合によっては逮捕されてしまうという恐怖の中で学ぶことになるからである。

では、どうすればよいのか。学校以外の政府の監視が届かないプライベート・インフォーマルな空間で市民同士が学び合う社会に移行していかなければならないだろう。市民が自発的に教え合い、各人が学び合うことで、「教師」という知識人の象徴的な地位を隠すことができたならば、独裁者が仮に「知識人を殺す」と言ったとしても、逃げ切ることができるかもしれない。ただ、そこに学校制度があれば、そこで「教師」と呼ばれている人を殺すことができてしまうのである。

ポルポトは、効率的に知識人を殺すため、様々な理由をつけて教師たちを学校に呼び出し、そこで大量殺害を行なっていた。これは教育するための機関である学校制度の中で、「教師」という職業があったから殺されてしまったのであり、もしそうではなく権威のある教師が存在しないすべての人が教え、学び合う関係であれば、特定の人が集中的に殺されるような事態を回避できたかもしれない。少なくとも、誰が政権に批判的な知識人で誰がそうではないのかを権力が容易に管理することはできなくなる。個人がどのような思想を持っているか、どのような書籍や知識に触れてきたかというのは、政治的に極めて重要でセンシティブなプライバシーである。絶対に守らなければならない。しかし、学校制度と教師という存在がいる限り、権力は知識人を監視することが容易になってしまうのである。

改めて伝えておきたいのは、ジェノサイド(集団殺戮)は決して認められるべきではないということである。そして、独裁者の意図を批判的に捉え、意識化するための知識や学びは、極めて重要なものである。私の主張は、そのような学びを学校制度を介して行なってしまうことは、特に共産主義ファシズムのもとで危険な行為であるということだ。また、別にいわゆる独裁国家ではなくとも、政府に都合の悪い教育内容を規制したいという欲求は、どの国家権力にもあるものである。当然、日本でも教育政策の統制は存在している。ポルポト政権から反省すべきことは、学校の危険性であり、それは私たちの日常にも当てはまることである。

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