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反出生主義と優生思想は、本当に全く別の思想なのか?

反出生主義は、優生思想においてどれだけ「優秀」と言われている人種であっても生まれてはならないと主張する。したがって、基本的に反出生主義と優生思想は全く異なった思想である。また、これらが混同して議論されることに対して激しい批判もある。実際、反出生主義はパターナリズムに対抗する手段、自身の存在無意味を肯定する手段として用いられるし、ネット上でも非常に強い支持を受けているように思う。

優生思想は、あくまで優れた遺伝子の人間を増やしたいという欲求を含んでいるから、結局は出生主義の一部であり、反出生主義とは根本的に発想が異なっているという立場は受け入れられる。実際、反出生主義とは「反差別」とセットであり、これは優生思想とは真逆の姿勢である。確かに、基本的な理念だけに注目すれば、優生思想と反出生主義は全く違っている。

反出生主義を実践した場合

ただし、私の主張としては、反出生主義を実践した場合は優生思想と同じような結果になるだろうと思っている。例えば、反出生主義がブームになっている昨今、これに感銘を受け、自分のような人生を送る子供を産みたくないと思う人はどのような人だろうか?結論を急げば、社会的マイノリティである。社会的に認められておらず、差別されたり、苦しんでいる人にとって、「生まれてこない方がよかった」という言説は直感的にすがることのできる魅力的な理念だ。

反出生主義を国家政策にすることはできない。現実問題として、反出生主義は一定の支持を受ける主義主張に過ぎない。つまり、これの影響を受けて実践する人は一部に過ぎないのである。そして、実践する人は社会的マイノリティだけ(社会に絶望している人)なのである。そして、その者たちが連鎖を断ち切るために子供を産まない選択をするとして、具体的に生じるのは障害者が子供を作らない、いじめられていた人が子供を作らない、勉強ができない・IQが低いとされる人が子供を作らない...という具合に、結局は優生思想の実践と同じ結果になる危険性が高い。それぞれが感じる生きづらさとは、背後に社会的な差別がある場合がほとんどであり、それに絶望した者に対して「産んだ者が悪い。生まれてこない方がよかった」という思想にたどり着かせること自体は、優生思想と変わりがない。本当に問題なのは、親が子供を新たに産んだことではなく、産み育った結果、ポジティブな感情を抱けない社会側の課題である。したがって、優生思想は積極的な差別の発想であり、反出生主義は思考の放棄である。

反出生主義と優生思想は、理念は違うが結果は同じになる。

反出生主義が魅力的なのはとても理解できる。私も辛い時、なぜ生まれてしまったのだと自分を責めることもあるし、その時に反出生主義的な発想は特に魅力的に思える。しかし、そのように絶望に負いやってしまう社会の差別を無くさなければ、反出生主義の一部の人々による実践は、優生思想と何ら変わりない結果を招くであろう。

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