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再転職活動日記(5)脱線して家族の事を書きたくなった

転職活動の事を書こうとすると
「また応募できなかった」
「どうして応募できないんだろ」
しか書けないので少し脱線させて下さい。

先日実家に用事があり、転職先が見つからない後ろめたさから母親の顔が見られないでいたら、帰宅後母から「なんか元気なさそうだったけど…」とLINEが届いていました。80前のかーちゃんにそんなこと思わせるなんて…ますます凹みましたよ…。

小さい頃、お家は裕福だったと思います。
祖父が始めたお店を父親と母親が継いで、田舎ですが繁華街のど真ん中の300坪くらいの敷地にお店と住居を構えていました。従業員さんもたくさんいて、父親は外車を乗り回していましたし、よく飲み歩いていました。

…よくある話ですが、父親は祖母の溺愛の下に育てられた典型的なボンボンでした。母親も田舎の長男の嫁という過酷な立場。
修業先のお店を勝手に辞め祖父と絶縁するも、祖母は隠れて父親におこずかい。祖母にいじめられる母親を庇わないどころか、子育ても家事も一切やらず全部母親に任せて育児放棄。
その当時私たち家族はそのお店から少し離れたところにアパートを借りて住んでいたのですが、お店が終わると母親だけ帰ってきて父親は私たち姉弟が寝静まってから帰ってきました。その時は不思議に思わなかったのですが今考えると子供たちの事が煩わしかったんでしょうね。
家族で出かけたこともあまり記憶がないのです。
母方の祖母や叔父がよくご飯に連れて行ってくれましたね。

時代の流れもあり、お店はどんどん衰退し、お店の商品の一部に特化して生き残りを掛けようとしたり、アパートを建て不動産収入を得ようとしたり画策し始めた時、父親は50過ぎで脳梗塞で倒れました。

救急車で運ばれ、「手術しなければ死にます」と母親は選択を迫られ、手術することを選びました。
ここから更なる没落が始まります。

手術は成功したのですが、父親は少しマヒが残り、人格も変わりました。
元来の性格もあるでしょうし、病気になった自分にショックだったのか入院中も叫んだり暴れたりして拘束されたりしていました。
この時点で父親と思えなくなりました。

もちろん働ける体ではなくなったので、母親がお店を引き継ぎました。
色々な計画がとん挫して、そもそもが潰れそうなお店だったのにさらに借金を重ねていきます。私も姉も金融の仕事についていて、さらに取引もあったのでどうにか潰さないよう頑張っていました。父親の介護もあり、母親はどんどん痩せていき、その当時40㌔を切っていたと思います。

母親は金銭に奔走し、祖母に借金を頼んで顔にお金を投げられたこともあったり、将来私たちに残そうとしてくれた土地も売りました。それでもお店の経営は苦しく自転車操業です。
今考えるとお店を閉めることも続けることも難しかったんだと思います。

お店を閉めるためには唯一の財産のこの店舗兼住居を売りに出して借金を返済しなければなりません。
これがなかなか売れませんでしたが、運よく買って下さる方が見つかり私たちは助かりました。

虐げられた父親を見捨てもせず、その後虐められた祖母の介護も10年続けた母親。
社会人になって自分の事で精一杯と理由を付け、母親を助けることもせず「離婚すればいいじゃない」と暴言を吐き続けた私を心配してくれる母親。

いつまでも元気でいてほしい。

お店を閉めた後は友人のお店で働き、自分のお店で働いていた時よりお給料がもらえるのよ🎵と青春を取り戻したかのように友人達とご飯を食べに行ったり生き生きしているのが救いですね。

私は今でも父親が好きではありません。
相変わらず自分のペースで母親には感謝もしない。
母親を旅行に連れて行ってあげたいけど、父親が生きている限りいけないと思います。
トイレにも行けるしご飯も食べられる。
外出もひとりでできるのに。

分かっているんです。病気をした本人が一番つらいことも。
自分が幼稚なだけなんです。

でもたまに思い出すんです。
小さい頃父親が海辺のラーメン屋によく連れて行ってくれたこと。
会社で貧血を起こして倒れた自分を迎えに来てくれたこと。














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