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世界の雑さ

学生時代の今でも尊敬する友人があるところで「世界はわりと雑にできている」と言っていたことがあった。

そういう見方もあるよな、と思いつつも、何となく腹落ちするほどにはこの言葉の意味を理解してはいなかったのだが、最近この言葉が体感としてわかってきた。

自分もそうであるが基本的には人間みな、自分の人生のハンドルは自分で握っているつもりだし、自分の人生の主人公であると考えている。

それは事実そうだろう。

ただ実際には、自分の力や努力ではどうにもならない要因で、わりと大きく自分の人生を揺さぶられたり、運命を変えられたりする。

生まれ持った能力や才能・性質、育った環境や生きた時代、こういったものは大きく自分の人生に影響を与えるものであるが、自分ではどうすることもできない要素である。

幸や不幸の物差しは人それぞれであるが、一般的にみてずっと不幸な境遇にある人もいれば、ずっと幸福そうに見える人もいる。

このようにみていくと、世界は必ずしも「自分を中心に回ってはいない」ことに気づく。。

僕たちはまず自分の意志や努力とは無関係に、この世に存在し始めた時点で「ある状況の中に不可避的に投げ込まれている」のであり、生まれ持った能力や才能・性質、育った環境や生きた時代、そういったものに徹底的に制限をかけられている。

そして、この各々が投げ込まれている状況というものに、誤解を恐れずに言うならば、一種の「雑さ」を感じるのである。

何故、自分がこのような状況に生を受け、投げ込まれているのか、これは神様にしか答えることはできない。

ただ神様は、あまねくすべてのものに寵愛を与えてはいるとは思うが、わりと細かいところは雑なのかもしれない。

自分が20世紀の日本で生まれる世界線と同程度に、紀元前の古代ギリシアで生まれていた世界線もあっていいと思うし、どこかの紛争地帯に生まれていた世界線もあっただろうと思う。

なぜ僕が今ここ、この場所に、このように生を受けたのか、神様もその因果関係についてまでは、細かく整合性を用意し、目を通している感じは正直しない。

さて、ここまでの話で結局何が言いたかったのかというと、不幸な奴は不幸だし、幸福な奴は幸福だし、みたいな話をしたいわけでは当然ない。

世界の雑さは引き受けつつも、自分のハンドルで制御できる部分に関しては、各々は全力で制御にかからなければならず、その部分の努力量の差は、各人の責任に帰するとは思う。

ただ前提として、わりと世界は雑にできているんだ、という事実を受け入れると、自分ではどうしようもないネガティブな状況にいちいち心を奪われることはなく、自分で制御できる部分へ必要なリソースを集中投下することができるようになる。

世界がもともと雑にできているのなら、神様も自分が100%幸福な世界を作るような、そんなえこひいきをしていないだろう。

そう考えると自分の持っていない幸福を持っている人を妬んだり、全ての幸福を自分のものにしようみたいな発想がそもそもナンセンスなことに感じ始める。

前提としての雑さを肯定し、その中でいかに自己のベストを尽くすか、という視点に立ってはじめて、真に覚悟を持った、建設的な自己実現への試みが可能になるだろうと思う。






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